投稿者: Mitsuhiro

残念ながら

 このブログを書くために使ってきたスマートフォンが最近不調で困っている。投稿したつもりの記事が結局アップロードされず、記事が渋滞してかなりあとになってようやくそれに気づくといったことがしばしば起きている。年季がきているのだろう。最近のアプリに対応しきれていないことも原因だ。

 ただ、最近の私はこの賞味期限切れのものに対する同情心がある。有効期限が過ぎたからと言って、すぐに廃棄してしまう心性にはどうしても馴染めない。道具は使い続けていくうちに愛着が湧く。古い道具でしか表現しきれない芸術的な瞬間を演じるのは、演じている貴方を見渡してみるのか。こういう選択を敢えてしておきたい。

ワーキングメモリー不足

この話は何度も書いてきたが懲りずにまた記す。私たちが何かを考え、行動するときにはさまざまな記憶力が必要になる。複雑なものでなくても要る。例えば、先ほど見た光景を文章に書き表そうとすれば、短期的な記憶とともに成文化するための長期的な記憶、知識というものが活用される。これが衰えると実に厄介だ。

数年前ならなんでもなかったことにやたらと時間がかかる。短期記憶が足りなくなって、行動をリセットすることが増えているのだ。対策としていつでもメモを取るのだが、仕事のことなどはそうしても日時のこととなるとつい記憶の衰えを無視してしまう。その結果、家族に迷惑をかけているのは申し訳ないというしかない。

 これは底知れない自己嫌悪を伴うから精神衛生上よろしくない。別に手抜きしているのではなく、自然に抜けてしまうのだ。

 そこで私は一段階予防線を、引き上げることにした。些細なことでもメモを取る。それを恥ずかしいことと思わないということだ。上衣のポケットには常にダブルリングメモとポールペンを持つ。更に測量野帳やらA6ノートやらいろいろ持ってそれらに転写しまくっている。凡そ非効率的だが、こうしないといまの脳は覚えてくれない。老兵にはそれなりの戦い方があるのだ。

上着を置いて

 気温が上昇したために今日は上着を置いて出かけた。花粉の飛散は辛いがやはり秋立つ気持ちになる。子どもが遊んでいるのを見ると、こういう日が続いてほしいと願うのだ。少しだけ余裕が出来た日々を楽しんでおこう。

文法という柔らかいもの

 学校で習う文法は金科玉条のようなものと思っていた。学生の頃はそれを覚えることが何よりも大切なことと思い、教員となって教える側に立つと最も頼り甲斐のある物差しと考えるようになった。文章読解と文法の問題を比べると後者の方が何百倍も容易い。そう思っていた。

 ただ、学校文法には様々な疑問点があった。可能動詞の「走れる」は走るとられるが連続した「走られる」とどう違うのか、「本を読まれる」と「本を読める」との違いは何か。可能とか使役とか命名された文法を考えると曖昧さが判断を困難なものにする。文法用語を使うほど分からなくなる気がする。

 こういう感覚的な違和感はいくらでもある。これはとりも直さず文法が実態と、あっていないことを表すのではないか。国語を少し真面目に勉強した者であれば誰もが気づくことなのだが金科玉条の前に誰もが尻込みしてしまう。

 文法というものはどうも自然科学が目指す普遍性とは少し異質なものらしい。もっと柔らかく、可塑的なものらしい。そう考えてこそ見えてくるものがある。

短期決戦という戦略

 短期決戦が今の自分の戦略だ。長期的な戦略を立てても実践できる保証はない。ならば短く刻むしかないのだ。

 衰退していく脳の機能を補うのは情報技術が容易に達成してくれる。人間から見れば無限の記憶力である。これを使えば少々の劣化はカバーできる。大切なのはそれを活かすためのひらめきなのだが、これだけは自分の脳の活力に期待するしかない。

 短期決戦でもやるべきことをやり、積み重ねることで大業は成し遂げられるかもしれない。私には私の戦い方がある。それを信じてやるしかない。

見えない違い

 恐らく目に見える違いはごく一部のことなのだろう。表面的な違いに圧倒されることは多いが、その内面はさほど違わなかったりする。他を威圧しようとするものは、その僅かな違いを誇張して見せるのであろう。

 だから、本当の差異を見抜くことは容易ではない。見た目に踊らされることなく、本質を見なければならないのである。  

取引というけれど

 アメリカ大統領の言動のために取引ということばが最近の流行言葉になっている。取引というと聞こえがいいが昨今の状況を見ると、対等な立場にある相手との取引は少ない。有利な立場を築いた上で、相手に無理難題を吹っ掛けるのが取引なようだ。しかし、このような意味は本来の取引の意味とは異なっているような気がする。

 一見公平に見えて実は全くの不公平という話はいくらでもある。特に優位な立場の者が仕掛ける似非公平主義は巧妙で露見しにくい。さらに、この不平等に異議を唱えると、まるで我儘を通しているかのように攻撃してくるのだから厄介だ。ルールという不公平を巧妙に作り出し、自身の利益を保とうとする。これは残念ながら国際的な常識のようなものになっている。

 おかしいものはおかしいと言える態度は保ちたい。しかし、それも今は難しい。交通事故を起こしたら、自分が悪くても決してそれを認めてはいけないというのはよく聞く。それと同じだ。ただ、これは日本人の通念とは乖離している。

 高度成長期には勝つことを最優先課題とし、相手を傷つけることも厭わないのが美徳とされた。しかし、いま弱者の悲哀を知ってしまった以上、取引に限りない疑問点を持ってしまう。

春分

 春分ということはこれからは昼の長さが長くなっていくことになる。ずいぶん日脚が伸びたことを実感している。桜も刻々と開花に近づき、早咲きの種類はすでに咲きそろいつつある。日照時間は体調にも様々な要因をもたらすのではないか。一般的には気持ちが明るくなると考えられているが、それだけでもなさそうだ。見えなかったものが見えてくるのは別の刺激をももたらす。

 春に節目を感じるのは私たちの文化的な特質だ。どこに切れ目を入れてもいいはずだが、年度が4月始まりという意識はかなり根強い。その予告編ともいうべきものが春分なのだ。

三月の別れ

 3月はいろいろな別れのある月だ。年度が変わるのに合わせて、離職する人がいる。かつてより流動的になった職場では必ず複数の人が別れを告げる。本人のレベルアップのためなので、祝福すべきなのだが仲間との離別は残念でならない。

 ただ、変化があるからこそ成長がある。同じことを繰り返すのはやりやすく、通常は効率的である。ただそれでは現状以上の結果は生まれない。その中には人事の異動も必要なのだろう。

 私は大きな転職を一度経験しただけでいまに至っている。そのときに失ったものも得たものもたくさんあった。人生においてそれが損失であったとは思わない。前職を続けられなかった無念は大きいが、その後に行ったことにも意義は大いにあった。

 三月の別れにいろいろなことを思い出す。懐かしさ、後悔、自己評価などが次々に想起される。

憎しみの連鎖

 停戦中のガザ地区でイスラエル軍の空爆が始まったという。悲しい憎しみの連鎖はとどまることを知らず、また新たな憎悪を生み出している。アラブの歴史をかじっても、理解することはかなり難しい。複数の民族、宗教が錯綜するこの地域の特性を理解するのは容易ではない。

 中東の複雑な民族感情を解決するのはどうすればいいのか。これまで欧米の列強が口を挟む度にかえって悪影響を及ぼしてきた。むしろ悪の根源と言っても良い過言ではない。それは結局、自国の利益のために行動してきたからだ。いまトランプ政権のアメリカが行っていることも同様である。停戦が目的なのか、アメリカの利益を得るための取り引きなのか、世界中の人が真意を見透かしている。

 中東の歴史について私たちはもっと関心を持っていい。この困難な問題を考えることができれば、さまざまな国際問題を理解する糸口が見えるはずだ。逆に欧米諸国のように自国の利益ために利用することしか考えなければ、困難な状況を一層高い難度にしてしまうことになる。

 中東戦争はいつまでも終わらない。欧米の周辺地域でそれが続けているという事実を見つめ直さなくてはなるまい。隣人の苦しみを知るためにはまず隣人がどういう人なのかを知らなくてはならない。