投稿者: Mitsuhiro

目的は何だったのか

 日々の暮らしに追われているうちに初心を忘れてしまうのは世の常なのかもしれない。私の場合、研究者になろうという考えがあったわけではなかったのだが、好きな学問を続けられるならばと思ってその道に入り、周囲の人々の影響で研究職もどきに就いた。それが、途中でダメになって今の職に移ったのだが、せめて文学の楽しさを若い世代に伝えたいという思いで始めたはずだ。それがどうも今は数字で測れる成績の向上ばかりを気にして初心を忘れつつある。

 残り僅かになった教員生活を進学実績を向上させることに貢献することで終わることはそれなりに意味がある。でも、もう一人の自分が言う。それでいいのかと。そのために教員になったのかと。

 私は二つの目的を同時にかなえることに挑まなくてはならない。数字で測れる成績向上と、測れない教養というものの伝授を同時に達成することだ。教養の方は私自身が十分にあるのではないから、教えるのは学ぶことの楽しさであり、特に文学を学ぶことの意味についてである。単に試験科目としての国語で高い偏差値を取るのだけが目的なのではない。自分とは異なる誰かの考え方を学ぶことの意味を知ること、それは一つのベクトル上に並ぶのではなく、人それぞれの考え方があり、それぞれに意味があるのだということ。そのうえで自分が生きるための選択はせねばならず、先人の意見に学び、模倣しながらも、最終的には自分なりの生き方を創造しなくてはならないということを伝えなくてはならないのだ。

 日々の生活に追われ、自分の力の衰退に気を取られ嘆いているうちに、本当にやりたかったことを忘れつつある。まだ本当の衰微に到達する前にやるべきことをやっておかねばならない。そのためには若者がやるような無鉄砲な挑戦をこの歳でも試みる必要があるのだ。自分がここまでの人生を歩んできた最初の目的は何だったのか、再考するときになっている。

身体を鍛えておけ

 最近感じるのは脳も体力が必要ということだ。とても矛盾した言い方だが、私たちは体と頭を知らないうちに別のものとして扱う傾向にある。首から下の人間と揶揄する人たちは、本当の知識人ではない。脳もまた体の一部である。それどころか最も身体性の強い機関であるのだ。

 だから、体力がないと能力(脳力)も落ちる。これは最近私が日々痛感することだ。認知症という身体現象以前に、考えることそれ自体が体力のたまものであることをある程度歳を重ねると痛感することになる。

 私が若い世代に言いたいことは勉強はもちろん大切だが、身体も鍛えなくては脳の力を発揮できないということだ。その意味で現代人は大丈夫なのか少々心配なのである。今はいいが将来体力が衰えたとき、できなくなるのは階段を上ることだけではない。考えることそれ自体が衰退すると人生のすべての質が下がってしまうのである。

 スポーツ選手が引退を意識するのは視力の衰えによるものという意見がある。視力の老化はトレーニングでは防ぎにくく、経験による補完が効かなくなるとトップレベルでは戦えないのだという。アスリートの限界は視力にあるが、一般人は脳の力の維持によるものが大きい。それを維持するためにも若いころの身体的な鍛錬が必要だ。そして日々の活動でも身体に関心を持って適度な運動を続けることだろう。唯脳論者ではないが、やはり人生の質を守るためには脳の保全が欠かせない。そのためにももっと身体を鍛えておけ、と後進には伝えたい。

カニかま

 擬似食品としては高い市民権を得ているカニかまは安くて美味しい庶民の味方である。主原料はスケソウダラなどの白身魚でそれにカニのエキスで味付けしている。

 調べてみると海外でもかなり消費されているらしく、フランスはサンドイッチなどの具材として普通に使われているそうだ。アメリカ発の巻き鮨、カリフォルニアロールにも欠かせない。中国やタイなどのアジア諸国でも使用されている。

 そういえばソイミートなどもその類であり、目的はさまざまだが代替食品は今後増えていきそうだ。気になるのは加工食品が抱える安全性への懸念である。これを克服できれば、食糧問題の解決の助けにはなりそうだ。

 日本にはがんもどきや湯葉などの精進料理の伝統がある。多くは昔、中国から輸入された製法が元になっていると言われる。それが日本でアレンジされるとさまざまな可能性が生まれる。魚肉すら使わないカニかまもあるというから驚きだ。

強風

 今日は時折雨を伴う強風が吹き荒れた。駅の案内板が大きく揺れ、少々不安になるほどの不安定さがあった。電車は止まらなかったが、何かあれば大きな被害が出たかもしれない。






 九州南部は梅雨入りしたそうだ。最近は梅雨入りした後、長い晴れ間を挟んで集中豪雨があり、その繰り返しの後に猛暑がくるという展開が多い。梅雨という季節の概念が別のものになっていると言える。

 そんな季節の変わり目であるからなのか、かなり体調が悪く疲れやすい。毎年のことと自分に言い聞かせつつ、年々それに対する抵抗力が落ちていることには困っている。

ソ連館のメダル

 1970年の大阪万博には連れて行ってもらえなかった。当時の親の収入では家族を大阪まで連れて行く余裕はなかったのだろう。でも、父は仕事で出張したついでに行ったらしく、お土産としてソ連館のメダルをくれた。ソ連が当時は敵対する国としての印象が強かったことから、もらってもあまり嬉しくなかった。

 いま行われている関西大阪万博にはかなり関心はあるが、訪問は躊躇している。その一つが経済的な要因にあることは確かだ。この歳になってそんなことを言っているのだから、親のことを悪くは言えない。

 もし行けたとしたら、何を土産にするのだろう。キャラクターグッズよりは、その時にしか得られない何かを求めた方が価値がある。いつでもどこでも買えるのもよりはその時、その場所でしか手に入らないものの方が価値がある。

 ソ連館のメダルを買って来た父はその意味で素晴らしい土産をもたらしたのだった。残念ながらどこかに埋もれてすぐには見つけられないのだが。

ユウゲショウ

 以前も書いたことがあるが帰化植物のアカバナユウゲショウは実に愛らしい雑草である。雑草という分類自体がおかしいのだが、過酷な環境においても繁茂する生命力という点においては雑草そのものだ。

 月見草の仲間らしく、その名の由来は夕方に開花することにあるらしいが、実際は一日中開花している。ピンクと赤の中間のような花が咲くのでとても目立つ。小ぶりではあるが、園芸品種といっても疑われない出立ちだ。

 ところが庭に生えるとすぐに広がり、他の植物を駆逐してしまうらしく、ガーデナーたちにとっては駆除すべき対象の一つだという。かわいいだけではないのである。

 通勤の途上にアスファルトのわずかな隙間にこのユウゲショウが咲いているとこ ろがあり、毎朝確認するのが日課になっている。まだ抜かれていないようだと安堵なする。雑草扱いにしたり、鑑賞の対象としたり、人間は勝手な価値基準がある。

選挙ビジネス

 最近、選挙をビジネスチャンスとして考え、利益を得ている人たちがいる。選挙制度の見直しが検討されているが、本来こうしたことは起きてはいけなかった。

 選挙で選ばれるべき人は社会的常識を備え、利他的行動ができると仮定されていた。しかし、どうもこれは甘い想定であったようだ。候補者としてもっともらしいことを述べ、自らの正義を縷々述べるのに、実は本当の目的は立候補することによって得られる利益である。これが公費から支給されているのだから、有権者としては意義を申し立てるしかない。

 問題なのは真っ当な政治家であっても、現行の制度下では一定の利益を得られる仕組みにあることかもしれない。日本の国会議員の報酬は海外と比べて高額であり、さまざまな補助金もある。選挙がビジネスであるのだけではなく、当選した末に得られる利益も莫大なものがあるのだ。

 そろそろ私たちは、ビジネスとして税金を横領し、民主主義の根幹を揺るがす行いをする似非政治家と訣別しなくてはならない。既成政党の不甲斐なさはそれとして、だからといってその隙間に漬け込む政治家ライクな実業家諸兄には別の仕事を探していただかなければならないだろう。

 彼らの撒く毒は少しずつ民主主義を破壊していく。そのことをもっと取り上げてほしい。

月やあらむ

 時々思い出す古歌に

月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして

 がある。伊勢物語では業平と思しき人物が后がねの女性に恋してしまった悲恋の話の中に印象的に登場する。

 そういう上つ方の話はそれとして、この歌にある月も春も循環するものなのに、おのれは着実に年老いていく様を歌ったのものとして捉え直すと、この歌のもたらす感慨は計り知れない。地球の寿命と、人間一個人の人生とは桁違いに異なるので、その差異に感嘆せざるを得ないのである。

 それでも私たちは人生の中に何らかの節目を作ろうとする。そうすることによって、人生が単調なものではなく、一定の意味を持つものとして理解できるようになるのである。尺度が変わると人生の見方は大きく変わる。

 そのくらいヒトにとつて重要なものは、自分が生きている生活の期間というものなのだろう。日本人の場合、それが80年程度という微妙な期間がさまざまな意味を持つ。

 古歌の趣きにかえって、自分だけが時間の流れの中で疎外感を感じているという世界観に思いを馳せよう。そこに広がる華やかな世界はそれとして、その中で人間のエリート達がいかにも振る舞うのか。そういったことを関心の片隅におきながら考えてみよう。

あの時の表情

 昔の友人か見せた何気ない表情がふと脳裏に浮かぶことがある。日常の風景の中で時々見せた表情は、何かを訴えるのでもなく、ごく普通の状況で出会った。

 ずっと忘れていたのだが、なぜか急に思い出してしばらく低徊している。もう二度と会うことのない表情、それがあった時代、その周辺の世界、といったふうに感傷的な気分が広がる。

 もう少ししたらその表情の意味が分かるのだろうか、故人の面影を追うことにブレーキをかけてしまう私の安全装置を解除したら何が起きるのだろう。そんなことを瞬時思っては、取り下げることが続いている。

受け手が作品を作る

いろいろな創作にある寓意を発見するのは楽しい。実はそういう意味があったのだと気づいたときに謎が解けたような気がする。そして、より深く作品を味わえる気分になる。

 ただ、それが作者が意図して作り込んだのかといえばそうとも限らない。本来は別の意味で書かれたものが、受け手側の解釈によって異なるものと映ることがある。世代的、世相的な変化でそう感じることもあるかもしれない。

 作品は作者によって作られるが、読者や観客によって意味づけされ、完成する。それも享受者が変わることで何度も意味づけされ、その都度変わっていくものらしい。