投稿者: Mitsuhiro

言論統制

 中国武漢で発生したと言われる新型肺炎の報道についてはいろいろと考えさせられます。目的は何かによって報道の中身がまったく変わってしまうということを改めて痛感しています。

 発生段階で新型のウイルスであり、大量感染の可能性があるとネットに書き込んでいた武漢の医師は当局でデマ拡散の行為により処罰されていたとのことが報じられています。これが事実ならば予防線を張る機会を人的に奪ったことになり、当局の判断ミスは重大です。デマによる人心の撹乱と、危険察知のどちらが重大かを考えなくてはなりません。中国は言論統制がしやすい政治体制にあることは知られています。ただ、これは共産主義国家でなくても起こりうるケーススタディになります。

 武漢から帰国した邦人に対する報道についてもマスメディアやソーシャルメディアの報じ方について注目すべき点があります。人権と公共の福祉とのバランスをどのように考えるべきか。この問題も臨機応変の判断が求められていきます。

 以前の新型インフルエンザ流行のときにも行き過ぎた報道が問題になりました。私たちは適切なメディアリテラシーと判断力とを持たなくてはならないようです。

コワーキングスペース

 自宅の近くにコワーキングスペースというサービスが登場しました。リモートオフィスともいうべき貸職場スペースです。レンタルルームよりは安く、カフェのようにBGMで集中できないということもないのが売りのようです。

そのほかWi-Fiが完備しているほか、フリードリンク、コピー機の設置があり、追加の費用で個室の確保、私書箱設置なども可能だとか。もし起業するとしたらこういう場所から始めるのもいいのかと考えています。入会金が年間10000円、使用料はフルにつかうと月間10000円で、夜10時まで使用できるとか。ランニングコストを考えると事務所を借りるよりもいいのかも。もっとも自分の家でできればいいのですが、様々な誘惑やしがらみがありますからこういう商売が成り立つのでしょう。

 満員電車に乗らなくても仕事ができるのならばこれほどいいことはありません。あとはこういうところでもきちんと稼げる才覚を身に着けることです。

修理屋の栄える時代に

 エネルギー問題が深刻化していく現状において、いかにエネルギーを活用するのかは大きな問題です。太陽光や地熱、潮力などの新しいエネルギー源を開発する技術に関してはもっと進めるべきであると思います。

 それと同時に今あるエネルギーをいかに効率よく使うのか。無駄な手順をどのように変えていくのかということは同時に行わなくてはならない工夫です。個人の力でもできることは実に些細な省力にしかならないのですが、それでも多数の人が実行すれば大きな数値になります。例えばごみの捨て方なども、あるものをすべて捨てるのではなく、使えるものを再利用したうえでどうしても使えなくなっただけ捨てていくようにこころがければ焼却にかかるエネルギーの節約になるわけです。そういうアイディアを共有してよいものは互いに真似しあうというのが小さな省力化の原点になります。

 我が国がかつて国内生産だけでほぼすべてをまかなっていた前近代の社会事情をみるとリサイクルやリユースとみなされる様々な工夫がなされていました。廃品回収を生業とする職業が多かったのも少ない資源を最大限に活用していたことを表すものです。もちろん、江戸時代と現代では生活の水準が異なり、過去の方法をそのまま復活することは困難です。

 また、大量消費に支えられている産業があることも事実です。多くの人が消費を渋り、リユースに傾いたら産業衰退につながるという考え方もあります。ただ、なにを優先すべきなのかを考えるならば、よいものを長く使うことの方にシフトするべきでしょう。壊れやすいがとにかく安い、壊れたものはゴミになる、という製品から少々価格が高くても想定できる耐用年数が長いものを尊重し、メンテナンスの方に商機を見出す、という流れが必要なのでしょう。

 大量生産、大量消費、大量廃棄という段階を越えてメンテナンスを充実して長くものを使う時代に転換するためには修理屋の社会的地位をあげていく必要があります。壊れたら頼りになるメンテナンス関係の技術者を増やし、彼らの技術を高めていくことがこれからの時代の重要課題になります。

氷雨

 今朝は雨でした。南岸低気圧がこの時期に接近すると関東地方はかなり神経質になります。

 もしかしたら積雪で交通機関に障害が出るかもしれない。昨夜の気象ニュースは警告に満ちていました。実際には冷たい雨です。寒波が雨を雪に変えるほど強くはなかったことが要因のようです。関東の雪はメカニズムが複雑で諸要因が揃わないと降りません。今回も何かが足りなかったようです。

 ただ見て楽しもうとしていた人には残念でしたが、元来降雪に弱い関東のインフラと人々の行動様式からすれば雪にならなかったことは幸運でした。怪我をせずに済んだ人が何人もいるはずです。

 暖冬傾向が続いていますがまだ雪の降る日はあるやもしれず油断はできません。

セルフィ

 携帯電話の普及で新たに生まれた習慣といえば自撮りであると思います。かつては少し高価なカメラが一家に1台あり、その撮影担当は大抵父親でした。構図を決めてピントを合わせてから一発勝負で撮影する写真撮影はわずかな緊張を伴うものでした。

 ところがデジタルカメラの普及で取り直しがいくらでも可能になり、さらに携帯電話の機能の一つになると。撮影は身近なものに変わりました。さらに自分の顔を自分で撮るというそれまでにはなかった習慣も誕生したのです。

 旅行先での記念写真でその地にいった証拠として己の姿が入った写真を撮るというのなら分かります。それほど特別な場面ではないのにセルフィを撮る人は結構いるようです。

 おそらくそうした人の行動を単にナルシズムで考えるべきではありません。その人を自撮りにかりかてるのはもっと別の情動が働いているはずです。私は自己確認の欲求によるものとみています。自分がどのように見えているのか、自分が何者なのか。私たちにとって永遠のテーマであるアイデンティティの確認作業の一つの現れなのではないでしょうか。

 私自身はめったに自分の写真を撮りません。しかし、自分に関心がないわけではなく、思っている自分と現実の姿の悲しいほどの乖離を認めたくないからなのです。

アイドル推し?

 若い世代でアイドルのお気に入りのことを推しと言うそうです。数年前から耳にはしていたのですが、その意味をはっきりと把握できていませんでした。

 アイドルは類型化された一種の理想像です。自分の理想のルックスなり、性格の近似値を実際の芸能人の中に見出したときに、推しと認識することになるのです。

 きわめて個人的な思い入れが特定の芸能人に向けられたときに熱烈なファンが誕生する訳です。ただ、これが常軌を逸してしまうと異常行動につながります。

 贔屓の芸能人をあたかも自分だけのものであると考えて他人を排除しようとしたり、中傷したりすることです。さらには贔屓しているはずのアイドルそのものに憎悪が向くこともある。自らの想いと現実とが釣り合わなくなったときには考えられない行動になるのです。

 愛憎関係は非常に不思議な繊細なものだと考えています。

融通

 あることに関して規則を厳格にあてはめて処置をするのは、ルールのある社会では当然のことです。ただ、そのルールが社会的通念とかけ離れているときには、考慮がいります。

 ルールとは次元の異なるマナーという規範があります。ルールが外圧として機能するのに対して、マナーは内側からの規制として意識される点に違いがあります。マナーを重視すれば社会常識との齟齬は少なくなります。

 ただし、マナーは明文化されないことも多く、文化差、集団差、個人差が生じやすい。その点を考える必要があります。

嵐の中で

 発熱はありませんが、咳が止まらす寝不足気味のまま出勤することになりました。昨日よりはましな感じはあります。

 風邪をひいてしまうと思考の糸が何本か切れてしまうような気がします。大切なことが置き去りになっています。動けなくなっているのは身体だけではありません。

 心身が同一の船に乗っていることを改めて感じています。荒れた海の上では冷静な判断が難しいのです。

 いまはこの嵐から脱することに専念する他ありません。

病みの中

 完全に風邪に罹ってしまったようで咳とくしゃみの繰り返しに苦しめられています。高い発熱はないのでインフルエンザではなさそうです。解決しなくてはならないことが山積しているので相当の焦りもあります。

 風邪は思考力にも影響を与えるので少々厄介です。元来あまりない集中力を容赦なく奪います。マスクをして視界が狭まるのもよくありません。

 栄養を取ることが解決策になるかもしれないということで昨日からいろいろ食べ過ぎています。この時期太るきっかけは風邪対策という大義名分によるカロリー過多にあります。背に腹は変えられず、しばらくは食べることにします。

 いろいろなトラップは乗り越えなくてはならない。あまり深刻に考えずやり過ごすことにします。

騙されないための読解力

 日本の子どもたちの読解力が低下しているとは最近よく言われるニュースです。OECDが行う生徒の学習到達度調査であるProgramme for International Student AssessmentいわゆるPISAの結果に日本のメディアはかなり敏感に反応します。そして教育界もこの数値をかなり気にしているのは事実です。

 昨年参加した教員向けのセミナーのほとんどでこのPISAの話題がでました。これに対応する能力をPISA型学力などということもありました。今話題になっているのは2018年の調査で日本人生徒の読解力が参加国・地域の15番目となり、著しい低下と捉えられました。萩生田文科相もこの点について「判断の根拠や 理由を明確にしながら自分の考えを述べることなどについて、引き続き、課題が 見られることも分かりました」とコメントしています。そしてこの調査がコンピュータで行われていることなどから、コンピュータに対するリテラシーも関与していると判断されたようで、学校での一人一台コンピュータの実現を目標に掲げています。

 ところでこの「読解力」を測るテストはどのようなものかといえば、ある大学教授のブログなるものやアマゾンや楽天などで見られるブックレビューのような記事をを読んでそこに書かれている内容を読み取るものでした。詳細は文科省のページから読むことが可能です。

 ここでいう読解力は情報を正確に読み取るという能力であり、いわゆる行間を読むとか空気を読むというものではありません。日本人が一般的に考えている読解力とは少々次元が異なるものです。非常に基礎的で根本的な能力といえます。逆に言えばこれほどの読解力が低下していることに危惧を感じるのです。

 おそらくここでいう読解力は意図的に悪意のある情報源からうそを見抜いたり、勝手に誤解して誤った行動を起こしたりしないための能力のことをいうものと考えられます。その意味ではメディアリテラシーのレベルの話であるといえます。その点を踏まえておかなくてはなりません。

 ソーシャルメディアの普及で私たちは文字に接する機会が増えましたが、断片的で不十分な情報のやりとり、もしくは一方的なつぶやきに終始することが問題なのでしょう。相手の言いたいことを時には批判的にしっかり読み取り理解する能力は意識しないとつけられないのかもしれません。騙されないための読解力を馬鹿にしてはいけないのかもしれません。

 私のような国語教師にとってはこの段階の読みを読解力と呼んでほしくはないという気持ちがどこかにあります。ただ現実と向き合うことは大切なのでしょう。情報にあふれながらその処理の仕方をいまの子どもたちは実はきちんと教えられていないのかもしれません。