投稿者: Mitsuhiro

国別対抗

 オリンピックが国別対抗になっていることには歴史があります。古代オリンピックの時代は休戦期間でもあったといいます。ただ、少なくとも先進国にとってはもう国という縛りは要らないのではないでしょうか。

 選手が国のために戦うのは確かに大きなモチベーションです。巨額の支援を受けている選手にとってはいわばスポンサーでもある訳ですから、不可欠であるともいえます。それを踏まえた上で、やはり国家別の競技は減らしてもいいのではないか。少なくとも表彰式で個人競技なのに国歌で表彰することは止めてもいいのではないかないでしょうか。

 団体競技は複数国籍の選手がいてもいいのではないかとも考えています。スポーツの祭典であるオリンピックが変われば他の大会にも大きな影響を与えることができる。国ではなく人が競い、応援する大会にいつの日かなってほしいのです。

考える基準

 自由に考えてもいいと言われても私は困惑するばかりです。自由に考えるというのは無から何かを生み出すくらい難しい。

 何かを考える基準として例えば宗教的な知の枠組みとか哲学者の言葉とか、歴史的事実とかは確かに役に立ちます。さらに身近な人たちの言葉も大きく影響しているのは事実です。

 なんらかの基となる言説があって私たちは自分の考えをまとめることができる。まとめるまでは無数の試行錯誤の繰り返しです。それをある言葉にまとめあげたときに、さらなる命名前の体験に挑戦できるようになるのでしょう。

ネット記事の基本型

 文章読解力の低下が懸念されています。PISAの試験は子どもに対して行われましたが大人も例外ではありません。低下した読みの力に対応するかのようにネットにあがる記事も劣化しているように感じます。

 コラム風の文章には明らかに基本型ともいうべきものがあります。まずセンセーショナルなタイトルは字数制限で途中で切れてもいいように肝心なことは後半に書きます。切れたところに何があるのか関心を惹きます。

 文章の前半は具体例です。多くの場合、筆者が目にした事例やデータを点描するもので、よく読めばいくらでも反例が上がりそうな緩い事例紹介です。これがいくつもあがり、文章の大半を占めることもあります。

 結末の少し前に識者の意見などが紹介されます。インタビューの体裁で済ませてしまうこともあります。そして「いかがだったでしょうか」などで括り、読者に注意を促すといったものです。

 こうした基本形に沿った記事はあまり集中して読まないネット読者を意識して書かれているのでしょう。型はあるので一見文章として成立しているかのように思えます。気になるのは多くの場合、内実が少なく、最後まで読んでも印象に残るものが少ないのです。結局何が言いたいのだろうとか、それならもう少し短く述べられるのではないかといいた感想を持ってしまうのです。

 ソーシャルメディアの短い文しか読まないから読解力が落ちるという人がいますが、字数制限がない文章の世界にも読解力不足の影響が出てきているような気がするのです。文章表現力と読解力は表裏のものですので、書き手側の問題も考えていいのではないでしょうか。

院生時代

 時々思い出スイッチが入ることがあります。突如過去が脳裏を専有し、またすぐに消えていくのです。

 今回は大学院生だった頃のことを思い出しました。朝から晩まで図書館にこもっていた毎日でしたが、夜には先輩や後輩と飲みに行きました。何を話したのかは実はあまりよく覚えていません。あまり学問の話はしなかったと記憶しています。院には進んだもののその先がまったく見えないことへの不安を必死で紛らわしていたのかも知れません。

 その頃は先輩がすべて払ってくれていました。いい時代であったと思うと同時にあれほどタフな時間はもう送れないと考えるのです。

冷え込み

 今朝は寒波が戻りかなり冷え込んでいます。立春を過ぎたばかりですが早くも寒の戻りです。

 天候だけでなく景気も低調になっているのは、やはり新型肺炎の大流行による経済への影響が懸念されるからでしょう。欧米の一部ではアジア人差別にも発展していると報道されていますが実のところはどうなのでしょうか。

 個人的にもこの時期は気持ちがふせぎがちになります。花粉症による憂鬱が大きいのですがそれ以外にも年度終わりの多大な業務を考えると心がめいるのです。

 万葉集の大伴家持は春愁を表現しました。心躍る季節にあっても晴れない心情を陳べたといわれますが、春が単なる明るい季節ではなかったのは奈良時代から、そして大伴家持が学んだ漢詩文の時代からの伝統であったのです。

 冷え込みが終わっても愁いの中で生きなくてはならない。などと大袈裟に考えてみたりしています。

集中できる場所

 自室では仕事ができないという人の気持ちはよく分かります。生活のための空間という位置づけができてしまうとそれを変えるのは難しいのです。

 仕事をする上で図書館やカフェにわざわざ出かけてやった方が能率が上がるという人がいます。私もそうでうるさくて仕方がないはずのコーヒーショップの方が読書が捗ります。恐らくいまはこれをやるときという割り切りが場所の移動によって自覚できるからでしょう。場所と意志とは連動するのです。

 わざわざ金をかけて他人の空間を借りるよりも、遥かに高い家賃を払っている自宅の方が使用されるべきであることは理屈では分かっているのです。しかし、気分というものは簡単ではありません。

 自分が集中できる場所を探すことが何かを成し遂げるには不可欠であるとつくづく考えているのです。

立春

 今日は立春です。太陽が冬至から春分にいたるちょうど中間に達したという意味らしいのですが、「春立てる日」は日本では古代から注目されており、『古今和歌集』の冒頭歌は年内立春を詠っています。春の気配を感じる時ということで、季節の変化を心待ちにする人々の心理が現れる時期でもあります。

 この春は新型コロナウイルスの発生により大変慌ただしいものになってしまいました。東京では報道されているほど神経質ではなく、一部の量販店ではマスクのまとめ売り商品が在庫切れしたようですが、7~10枚ずつ売るいつもの商品は潤沢にあり、そもそもマスクをしていない人も多数います。日本国内での感染拡大はおそらくこれからであり、おそらくその頃にはこんなに大騒ぎしなくなるはずです。

 それよりも恐れているのは毎年のことながらスギ花粉などの飛散がもたらすアレルギー性鼻炎です。もう何年も患いそれなりの対策もできるようになっているのですがやはり気になるところです。このように春は健康上の問題が発生しやすいのがちょっと残念です。

 でも、梅の花は間もなく咲き始めるでしょう。近くの園芸のお好きな方の庭先には早くも白薔薇がいくつも咲いています。冬に咲く薔薇はありますが、暖冬でないとうまくいかないとか。今年はおそらく記録的な暖冬ということになりそうです。今日からは暦上の春ですが植物はそれとは無関係に気温に反応しているようです。明後日あたりに寒波が戻ってくるそうですが、もう旬が過ぎているだけにあとは変わる季節に身をゆだねるばかりです。

差異

 資本主義の大原則は人々の間に何らかの差異があることだといいます。持てるものの格差が利益を生み出すのがすべての根源にあるそうです。

 格差が無くなりそうになると既得権を持つ人は様々な差を生み出す仕掛けを用意してきます。儲けが続くためには皆が同じものを持っていてはならないのですから。利益を得る人が常に同じであるとき、社会格差が発生します。それが場合によっては社会不安を生み出すきっかけにもなってしまうのです。

 すべての人が同じものを所有し、同等の価値観で生きるという考え方はこの格差をより決定的なものにしてしまいます。実際には多様な生き方があり、求める目標も違うはずなのに社会的同調圧力が巧みにかけられ続けているのです。

 人とは違う生き方、別のゴールを持つこと、それらは現代社会では堅持しにくい目標と言えます。人々を同じ価値観に誘導し、その上で格差を設定するのが現代社会なのでしょう。この頸木から逃れるためには、自分なりの生き方を貫くしかありません。他人からは敗者に見えても自身では幸福だと思えることが大切なのです。

極早咲き

 鉢植えのトコナツナデシコがついに開花しました。四季咲きをうたう品種ですが寒中の開花に驚いています。

 まもなく節分であり、暦上の春も近づいています。今冬も気温は高めに推移したために様々な植物の成長は前倒しになっているように感じます。花が咲くのは嬉しいのですが、あまりの変調は心配の種になります。

 

深夜の警報

 未明に関東地方で地震がありました。最大震度4のやや大きい地震であり、その前にも余震らしきものがあったそうなので、揺れが大きかった地方の人は大いに驚かれたことでしょう。

 私の住む地域では震度2であるとの発表がありました。比較的長い横揺れがあり、目覚めてしまいました。設定上、速報は鳴動しませんでしたが、これも地域によっては鳴動したようです。

 深夜にかような地震が発生すると初動がかなり遅くなってしまいます。不安ばかりが先行してはかどりません。一種の警告としてこの地震を考えることにします。