投稿者: Mitsuhiro

それに見えてくる

 古代遺跡の人物塑像などを見ていると何とも稚拙なと感じることがあります。そしてそれが造形技術や空間把握の未熟に原因があると勝手に考えます。これを当時の人々はどのように捉えていたのでしょうか。

 古拙と感じるのはあくまで現代人の感覚であると想像されます。私たちは写真や3Dプリンターで現実のコピーを造ることができます。その視点から人間にすら見えない古代の美人像を見ても幼稚にしか見えません。これは恐らく現代人も将来同じ評価を数十年後の未来人から受ける可能性を示唆しています。

 例えば土偶ならば、どんなに精巧に作ったとしても土の塊であることには変わりません。それに美女なり勇者なり、豊饒な大地や広大な宇宙を感じるのは人間の想像力によるものです。古代の人々は我々から見れば稚拙に見えるものを、現実と重ね合わせる想像力を持っていたのです。

 その時代の人々のものの考え方に寄り添って考えることが、古いものを見るときには必要です。すると見えない何かが見えてくるはずなのです。

関係性

 私たちが何かを分節化する際に、もっとも働くのは関係性の把握です。これが何であるのかを知るためには、これが他のものとどのように違うのか、他との関係はどのようになっているのかを知ることが必要と感じます。新しいものの発見はそれがいかに斬新なものでも既存のものとの関係性で把握されるのです。

関係が分からない場合、もの自体を把握できないということもあります。目に見えたものは何でも存在するのではなく、存在を認められたものだけが存在出来るのです。

IR以外の施設を

 横浜市の林文子市長はIR(Integrated Resort)の誘致に積極であるというニュースがありました。この施設にはカジノが含まれ、そこに多くの収益性を見込んでいると考えられます。

 カジノの持つギャンブル性が依存症を一定数の人にもたらすことは世界の先例が示すとおりであり、それによる治安の悪化や地域のイメージの低下も不可避であるといえます。それよりも少子高齢化で税収が減少する一方の市政に益するという判断なのでしょう。私はこの判断には基本的に賛成できません。

 横浜にはカジノがなくても人を呼べる資源がたくさんあります。その活用を考える方を優先すべきです。複数の観光資源を有機的につなげることや、そこに集まる人が楽しめ、お金を払うにふさわしい観光産業を創設することの方にまず注力するべきなのではないでしょうか。

 カジノのないIRならば人は呼べないのでしょうか。また収益は上がらないのでしょうか。その点の懸賞をすべきです。道を誤ると取り返しがつかない方向に進んでしまうような気がしてなりません。

発信重視

 ネットに浸っていると情報の洪水の中で何かが麻痺してしまいます。画面に表示された情報に接しているだけで自分が満たされているような錯覚をしてしまうのです。

 冷静に考えれば画面上に表示されたことはすべて他人にとっての出来事であり、私自身とは関係がないものです。関係を持つかどうかは自分の判断がはたらいた後で起こることであり、表示されただけでそれがまるで己の世界のことのように考えてしまうのは大いなる錯覚というものでしょう。

 このような状況に陥らないためにも、自らの言葉で世界を語る努力を私たちは怠ってはいけません。自分のつたない言葉で描ける世界は確かに少ない。でもそれを続けることで、自分という人間を世界の中に位置づけることができるのです。私が発信にこだわり続けるのはそういうことにあるのです。

台風の置き土産

 関東地方には直接の影響はなかった今回の台風ですが、その置き土産として異常高温が今日明日にもたらされるとの予報が出ています。

 日本の北に位置する台風に向かって南風が吹き込むことからこの現象が起きるようです。すでに北陸地方では山越えの乾燥した風が高温をもたらしています。フェーン現象を風炎と当て字したのは中々の才知でした。

 関東の場合は海上から受けた湿気を含んだ風が直接吹き付けるために、蒸し暑さをもたらします。温度変化以上に注意したいのはこの点にあります。

現状は恒常ではない

 私たちは現状に基づいてものごとを判断します。それは当然のことであり、だれしも今の状態の把握や分析から何か別の次元のことを考えることになります。ただこの際気をつけなくてはならないのは、現状はこれまでずっとそうであった不動点ではないということです。

 他国のことを批判する際に、日本は高潔であるかのように述べる人がいますが、日本もかつて同じことをしていたという事実を知らないのなら問題です。現代日本の常識と言われているものは実はかなり短い期間で出来上がったものであり、それが昔からずっとそうであったかのように論じるのは間違いです。

 現状もまた常に動いていることを前提に、これからのことも現状だけにとらわれず時には歴史を学びあるいは現状分析を動的にとらえて未来の予測をするべきでしょう。現状は決して工場ではない。諸行無常は私たちの精神的根底にある世界観と考えられますのでこういう考え方をするのは得意であると思います。

終戦

第二次世界大戦の事実上の終戦の記念日です。74年目というのです。わたしの生きた時間より長い歳月の流れの中で日本は大きく変わりました。

戦争の犠牲者は日本人だけではなく、敵として戦った人や戦場で巻き添えになった第三国の人々や日本の占領下で苦しんだ人々など多様な在り方があります。その個々の記憶が風化したり変化したりしたものがあり複雑です。

戦争の犠牲者という面だけではなく、当事者としてこの問題をどのように捉えることが出来るのか。それが年々困難さを増しているような気がしてなりません。

飛び立ちかねつ

 人間の悲劇というものは己の姿を俯瞰して見られないことにあると最近つくづく思うのです。

 私たちは自分の経験と知識の中で生きています。それは誰でも同じことです。自分以外の誰かになることはできないし、どんなに想像の翼を広げても自分の見た風景以外のものを実感として捕らえることはできません。だから、自分の経験こそが世界のすべてであるかのようにふるまい、それが間違いと分かってもどうしようもないのです。

 哲学者は俯瞰することを常としています。人間は…という大ぶろしきを敷くことが哲学では大切なのです。でも、私たちは結局自分の見たものしか見られないし、聞いたことしか聞けない。それ以外のものを知覚することすらできないのです。メタな認知をすることが大切だと知識人はいいますが、そもそもそれができるならば苦労はない。私たちは自分の経験のバイアスの中で世界をとらえるしかないのです。

 だから、私たちの考え方は根本的に独りよがりで利己的です。それを自覚することは大切だとつくづく思うのです。ネット社会は検索という便利な手段を提供してくれました。その陰で情報の一つ一つは結局、個人の経験が生み出した見解であるということが忘れ去られようとしているのです。

 もう一度根本に立ち戻るならば、自分の考えはあくまでも自分の正義の産物であり、それは必ずしも他の人に当てはまるとは限らないのであるということです。鳥ではない私たちは自分の姿を見下ろすことはできません。それが様々な悲劇をもたらしていると考えたのです。

多様性を認める寛容性

ものごとの流れが一つに纏まり過ぎるようになったときに危機を覚えてしまいます。多様性を認める社会こそ持続可能だと思うのです。

過去の歴史や生物の在り方を鑑みると、環境に適応した集団なり種族は繁栄しますが、環境の変化が起きると対応できずに一気に絶滅に向かいます。あっけないくらい脆く崩れるのです。

そうした事態を避けるためには、多様性に対する寛容さが欠かせません。気に食わないこと、嫌なことでも排除はしないのが賢い生き残り戦術なのです。最近の世情はこの寛容さが失われているのではないかと心配になります。