投稿者: Mitsuhiro

マスクを着けて

 僅かな喉の痛みを覚えてマスクを着けることにしました。インフルエンザなどの予防の意味もありますが、喉の保湿の方が目的です。

 中国で新型の肺炎をもたらすコロナウイルスが発見され、日本にもすでに入っているとの報道があります。いわゆるパンデミックをもたらすような感染力はないとのことです。グローバル時代では水際作戦はほぼ無意味です。最新の情報を手に入れ、対処するしかありません。

 マスクが万能ではないのはよく知られています。気休め程度という人もいます。ただ、少しでも日常生活に穴をあけないように、無駄な抵抗をやってみたいと考えています。

すべて一期一会

 自らの体内組織が刻々と変化している現実を考えるならば、感知した現実もまたその時限りのものということになります。すべてのものが一期一会なのです。

 自分という視点が不動の座標軸の原点であると考えることができれば、かなり単純な数式で世界が捉えられるかもしれません。また日常的にはそのように考えています。時空を目盛において起きた現実を同一の平面に投影しようとします。大体のことはこれで事足りるのです。

 ところが実際は原点自体が常に移動しており、揺れながら対象を見ているのです。手ブレを補正するカメラのように巧みに対象を見続けてもその限度を超えるともはや同じものを見ているともいえなくなる。私たちの見ている世界はこのように変動的なのです。

 変わってしまうことを前提として物事を捉える視点を私たちは常に忘れてはなりません。昨日そうだと確信しても明日は違うかもしれません。そういう心の余裕と、世界観はこれからの現実を生きる上でかなり重要だと感じるのです。

共同体という考え方は誰が教えるのか

 世界的な社会分断が進行している中で、日本の社会も中流意識は急激に減少しつつあります。自分さえよければそれでいいという考え方に行きつくこの流れは非常に危険なものです。人間が社会的な生き物であるという考え方を誰がどのように若い世代に伝えていくのか。大きな問題です。

 私たちはこの存在に関して過大評価をしてきたのかもしれません。確かに個人の努力は重要であり、それがなければ何も始まりません。しかし、個人の業績は必ずしも自己の利益を増大するためのものではありません。共同体の福祉に何らかの好影響を与えるものでなくては意味がないはずです。自分の成功にはその周囲にいる人々のさまざまな支援や利害関係が影響を与えています。自分だけがうまくやったというのは思い上がりにすぎません。その成功を形成した社会システムがあるからこそ達成できたもののはずなのです。

 成功者はそのシステムがよりよいものになるよう、また自分以外の存在にも利益がもたらされるよう考える必要があります。自らの共同体が衰退してしまえば自分の成功の価値も目減りすることになり結果的に不幸になるのです。こうした考え方を私たちは常に持っていなくてはならないはずなのですが、そして横溢する情報社会の中で容易に得られる叡智のはずなのですが、つい忘れてしまうのです。

 我が国を衰退傾向に向かわせているのは少子高齢化などの不可避な情勢が要因ではありますが、それよりもむしろ共同体を皆で支えていこうという考え方の欠如がそうさせているのかもしれません。国のために働くという考え方は極端な全体主義として戦後日本が避けてきました。しかし、共同体意識の欠如がもたらす悲劇はそれ以上です。仲間を大切にすること、先に進んだものが振り返って周囲を助けることというのが今後の社会では特に大切になるであろうことをどのように意識し、伝えるのか。それが大きな課題になっています。

中央林間図書館

 神奈川県大和市の中央林間図書館は東急ストアなどの複合商業施設の中にあります。蔵書は少ないですがショッピングをしたついでに気軽に立ち寄れるなかなかいい場所です。

 図書館のあり方については各自治体で様々な試みがなされています。中央林間図書館の場合は気軽に利用できる点で優れています。図書館というと私語厳禁の密室的な雰囲気がありますが、ここはショッピングセンターの中にあるためかなり開放的です。図書館とタイアップした星乃珈琲店も隣接しており、おしゃべりやコーヒーと読書とを両立できる空間まで用意されているのです。

 最近は労働時間の短縮のために職場を早めに引き上げる必要がありますが、その時間で資格取得のための勉強や趣味の読書をする人も増えているようです。そんなときに気軽に利用できる図書館の存在はありがたい。私もこれからしばしば立ち寄ることになりそうです。

雪のマーク

 今日の天気予報には降雪を表すアイコンがあります。積雪にはならないようでみぞれかもしれないとのことです。

 富山県に住んでいた頃はこの頃の雪は要注意でした。積もった雪が凍結したり、逆に半融解した状況で転倒しやすくなるのです。車を運転するときはブレーキが効かなかったり、スリップに悩まされました。

 雪には様々な思い出があります。美しいものだけではありません。最近は暖冬ですが、万一のために過去の失敗を適度に思い出しておくことにします。

親譲り

 夏目漱石の『坊っちゃん』は親譲りの無鉄砲という性格の自己紹介から始まります。この主人公は自らのキャラクターを先天的要因で納得しているのです。このことをもう少し考えてみます。

 主人公は2階から飛び降りたり、周囲から扇動されてナイフで指を切ってみせたり、喧嘩をしたりと凡そマイナスの側面を並べ立てそれらを親譲りと総括しています。親に関しての描写では愛情不足の様が描かれており、歪んだ少年時代が描かれています。

 ただ、主人公は父親に関して必ずしも全否定の態度ではなく、むしろ否はあるがよいところもあるという把握をしているようです。明治時代の親子関係については別に考察する必要がありますが、好悪の感覚は単純ではありません。

 封建体制を生きた親に育てられる世代であった漱石は近世と近代の間でかなり分裂した思考をしていたのかもしれません。親譲りという一言に込められた意味も複雑で深いものがあるのかもしれないのです。

カジノ反対

 IR誘致に関して贈収賄があったことでカジノ誘致に対する関心が再燃しています。私はカジノの設置には反対します。

 カジノが国と自治体の主導で始められようとしているのには、多額の安定した税収の確保が見込まれるからです。造ってしまえばどんどん金が転がり込んてくるわけですから、人口減少や高齢化で苦しくなっている財政を改善する方策として効率がよいのです。統合型のリゾートと言ってもカジノの収入以外はあまり期待されていません。

 我が国はカジノの設置を認めなかったために、ギャンブルは極めて限定的なのものになりました。競馬や競輪などのスポーツや、パチンコなどのゲームなどは公認されており、税収も期待できますが、その他の地下に潜った賭け事はあくまて闇から闇に消えていきます。それをカジノ施設が管理統括すれば飛躍的な税収が期待できます。

 ただ、すでにカジノをもっている国々からの報告をみると、どこにも必ず一定数のギャンブル依存症が存在し、それが犯行にも繋がっているといいます。それが分かっていながらカジノを造ることの不誠実を考えるべきではないでしょうか。

 税収を得るための方策は別の方法で考えましょう。一度できてしまうと安易な道に深入りしてしまう。カジノ設置には反対します。

年齢差

 自分が思う自分の年齢と身体の年齢との落差を痛感する場面が時々あります。ただ、多くの場合は、それに気づかすに過ごしています。

 昨日、晴れ着を着ていた新成人を見て、随分幼く感じました。それは自分が齢を重ねたことの裏返しです。さすがに二十歳と自分を比べることはありませんが、大抵の場合実年齢よりも自分を若く考えています。

 私たちは過去の自分を基準にすることは可能ですが経験したことがない未来を考えることはできません。現状把握ですらままならないのです。だから過去の自分がどうしても判断基準となるのは仕方ない。

 それがたとえば走らなくてはならなくなったときとか、重いものを運ぶときとかに違和感を覚えるのです。意識の中の自分と現実との乖離の大きさに驚きます。自身の中に発生した年齢差をどう乗り切るか。そこに一種の危機がおきます。

 それにどう折り合いをつけていくか。それが齢をとるということなのでしょう。

陽光

 少しずつではありますが日照時間が伸びています。季節の変化を感じるのはやはり光の量と質です。

 鉢植えの四季咲きのなでしこに蕾がついているのを見つけました。いくらなんでも早すぎると思うのですが、植物にとっては暖かい冬であることが影響しているのかもしれません。

 私と言えば最近使っていなかったソーラー腕時計に光を浴びせることに腐心しています。時計を窓際に干すというなんとも不思議なことをやっています。

察し悪く

 生徒の作文を読んでいて論理的ではないと考えながらも見逃してしまうことがあります。それは読者である私が推測という行動を多めにはさんでしまっているからなのです。言葉を教える教員としては察してはならない。文章に関しては「忖度」は禁物という話です。

 今後の国語教育の課題として自己表現力を高めるというものがあります。読解に偏重していた教育のあり方を表現に変えていくのは実はそう簡単ではありません。その方法、手順、そして評価方法などが確立していないからです。これについてはこれからも考えていきたい。このブログでもその一端を紹介することがあるでしょう。ただ国語教師としてやらなくてはならない大前提は物分かりのわるい人になる必要があるということです。

 私たちがコミュニケーションをするときには、実際には言葉だけではなく身振り手振り、テンポ、間、声の調子などのノンバーバルな側面を総合的にとらえて相手の意思を判断しています。それが円滑なコミュニケーションの基本であり、特に口頭表現の技能においてはこの側面をもっと教えていくべきでしょう。ただ、文章表現に関してはあくまで文章の記述をとおして自己の意思をつたえるのが基本です。その作文のなかでは曖昧さは許されない時もあるのです。

 生徒の作文で最近目立つのは表現の不十分さです。会話では前後関係から察することができるので敢えていわないということも、文章化するときには書かなければ誤解されるということがあります。特に目立つのは体言止めなどの最後まで言い切らない表現です。それが何なのか。何を言いたいのかを最後まで書かなければ誤解を生みます。日本語は打消し表現が最後に来ますので、最後にどんでん返しが可能です。文章で説明する時には断定の助動詞を使うまで言い切らなくてはならない。

 教員が添削するときにそれを会話を聞くかのように読者側で想像してしまうのは作文教育に限ってはやめた方がいいのでしょう。誤解を生むあらゆる可能性を防ぐために物分かりの悪い読者になるべきなのです。まずはこれが生徒に表現教育をする大前提と考えています。