投稿者: Mitsuhiro

カラスの準備

 2日ほど前からハシブトガラスの群れが早朝から騒がしい。この地域のゴミ出しの曜日でもないのにどうしてだろう。

 地域のゴミ回収日にカラスが狙うのはどこにでもあるはずだ。ゴミ袋を鳥にとっては見にくいといわれる黄色にしたり、ネットをかぶせたりしても巧みにつつきだし散乱させてしまう。しかし、その時点ではゴミ出しの曜日までは数日あった。

 集まっていたのは近隣の蜜柑が目的であったようだ。それまで見向きもしなかったのに今朝見るともう枝には残っていなかった。そして路上には大量の食べかすがある。なぜいまになってと思う。

 思うに今週の大寒波の到来を知っているのではないか。寒さによる消耗を見越して多めに食べているのではないか。それが拙い推論である。

 動物の行動が天候急変の予兆になることは数多く報告されているので、私も記録しておくことにした。

最低気温予想

 今週は文字通りの大寒の節気であり、最高気温が二桁に達しない日が多いという。ピークは明日から明後日のようで、特に水曜日(1月25日)の気温はかなり下がるようだ。最低気温の予想をみると、‐3~0℃の幅で各社が予報を出している。氷点下になることは確実だ。さらにこの日は最高気温も4~6℃の予報であり、この地域としては極寒の日となりそうだ。

 私にとっては寒さはそれほど苦ではないが、乾燥した北風がいろいろなことを狂わせる。おそらく一番の難関はこの乾燥であろう。コロナウイルスが5類相当に格下げされることがほぼ確実なようで、少しずつマスクを外すひとが出ている。しかし、このインフルエンザの季節が終わるまではしばらくは変わることはないだろう。さらにそのあとの花粉症もあるのでいつマスクが外せるのか個人的には分からない。

 今週はマスクは防疫の目的以上に防寒具となりそうだ。

失われた感触

 時代が変わるとなくなるものがある。現代社会は進歩が速いためにそれを人生の中で感じることができる。私でさえそれをいくつも感じることがある。

 視覚的なものは大きく変わり続けている。街の風景は刻々と変わり、少し前のことを思い出せない。もっと前のことを考えてみる。いまは住宅地として有名な場所もかつては雑木林の連続であった。薄暗さのなかに踏み込みにくい雰囲気があった。うっかり足を入れると不可思議な動物に襲われるかもしれないなどと、子どものころは真剣に考えたものである。

 耳で聞く感覚にもなくなったものは多い。駅の改札で聞こえていた改札の際の鋏の音はある世代以下の人は知らない。原宿駅の改札にも駅員たちが並んで鋏を入れていたことは記憶の隅にある。客がいなくても空うちをしていたので、常に鋏の音が響いていた。その後、紙の切符を機会に入れる方式となり、今は非接触型のカードやスマホ、スマートウォッチをかざすだけなので音は出ない。確認の電子音がわずかに響くだけだ。非接触を信じられない人がカードを読み取り機に当てる音が耳を驚かすことはあるが。

 嗅覚も変わった。かつては下水道の普及が足りないところがあり、どんな町にもどぶ川があって悪臭を放っていた。今はめったにない。これはいいことだが、使ったものは適切に処理しなくてはならないと思う気持ちが人任せになっている。ものを大切にしない気持ちがどぶ川よりも社会悪を発生させる可能性がある。

 触感もなくなったものがたくさんある。ダイヤル電話を回すときの指先の緊張感を私は覚えている。回すときは思い切ってやらなくてはならない。躊躇してしまうとうまくストロークが計れないらしく間違い電話になってしまっていた。

 味覚は常に変わり続けているから、逆に変化には気づけない。昔のお菓子はもっと甘かったし、何か体に悪そうな合成的な味がした。そういうものは今は少ない。おそらく、子どもの自分に今のお菓子を食べさせたらおいしさに感動するに違いない。その代わりに砂糖の代用甘味料などが入っているので、人体に将来どのような影響が出るのか分からないともいう。昔と今とどちらがいいのか分からない。

 失われてしまった感覚はいくらでもある。時々それを思い出すことで、いまの生活を客観できるかもしれない。

IT産業の苦境

 アメリカのハイテク産業が不景気の波に飲まれている。アルファベットやマイクロソフトなどが大規模な人員削減を行うというニュースが流れている。私は強い違和感を覚えている。

 ITを牽引している技術者の皆さんは省力化のために新しいシステムを立ち上げ、実現してきた。少ない人数でも経営できるための手段を切り拓いているのだ。しかし、他ならぬその成果のために、自分の職が奪われている。100人で動かせる会社を10人で運営可能にすれば、90人は不要になるのだ。

話を単純化しすぎているが、一面の真実は捉えているはずだ。人を幸せにするための科学技術が人を疎外する。何か理不尽を感じるのだ。

機械に話そう

 AIの発達により、人間の言語に近いコミュニケーションができるシステムが完成しつつある。日常会話ならば機械に話しかけると自然に感じる程度の返事をする。映像やロボットなどと連動させれば、あたかも機械と会話しているかのような気分になれるらしい。

 規則性のあるものや、パターンが決まっている文章作成能力はあるようで、ビジネス定型文章や分析を中心とする文章は得意で、論文も書けるとの報告まである。

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 無料で試せるオープンチャットを試してみた。これはテキストでのチャットの形で行われている。英語版だったので、拙い英語で問いかけてみた。すると長めの答えをしてくる。例えば、AIは人類にとって有益なのかと聞けば、多くの利点があるが、場合によっては人間に危害を与える危険性も含んでいると答える。また日本の文化について知っているかと聞けば、歌舞伎や寿司、漫画とアニメなどがあるなどと答える。検索して答えるのと違うのは、AIが選んできた答えを、話しかけられるような形で得られるということだろう。

 このシステムは従来の検索システムを凌駕するともいわれている。資料がただ提示されるのではなく、AIのアレンジが加わっているからだ。利用する側からすれば便利である。一層、考えなくてもよくなるからだ。

 ただ問題点も大きい。現時点ではAIは意味の世界まで踏み込んではいない。聞かれた質問に対してもっとも可能性の高い回答を多数の検索データの中から抽出しているのに過ぎない。だから、表面的には整っていても根本的な間違いを犯していたり、正解であっても人道的道義的には許されないといった不文律のようなものは反映できないのだ。

 機械に話しかけるというと実に寂しい人間のようだが、これからはそれが当たり前になる。そのうちの脳波を読んで先回りして答えてくれるような技術が生まれるのかもしれない。ただし、意味とか価値観といったものをどのように機械が獲得していくのか。今後に注目したい。

大寒

 今日は二十四節気の大寒に当たる。このところ寒い日が続いているが、本格的な寒気は来週訪れるらしい。関東でも降雪の可能性があるともいわれる。

 富山ではこの頃、積雪が起こりやすく、注意しなくてはならない時期である。この時期の楽しみとして寒ブリがあった。脂身を多く備えた刺し身は高級魚扱いで簡単には食べられなかったが、なにかの宴てごちそうになったときの感動は忘れられない。ブリのような高級魚でなくても寒の頃に食べるスケソウダラやナンダ、ゲンゲなどの鍋は楽しみだった。もちろん立山や銀盤、幻の瀧といった地酒は欠かせない。

 寒の話がどこかに行ってしまったが要するに寒中にも歓ありということだ。こわばらず楽しくいこう。

短歌アプリ

 時々使っていた短歌の投稿アプリの「うたよみん」が終了するそうだ。無料で使わせていただいたので発言する権利はないのかもしれないが、残念と言うしかない。

 短歌のような短い文学はTwitterやLINEなどのソーシャルメディアでも十分に対応できる。私も短歌専用のアカウントを作ったこともあるが、どうも長続きしない。短歌を書くのは専用のノートにしたい。雑記帳に紛れ込ませるのは何か違う。うたよみんはできる機能は限られているが、短歌よみの集まるところであり、そういう人に評価されたいという思いを満たす。

 短歌は感情を乗せる器として優れている。多くは語れないが、可能性は大きい。伝統的な型の力が働いて、少々内容が不足してもそれなりに文学作品として成り立ってしまう。俳句のような約束はなく、定型の短詩に過ぎないのだ。最近私は文語だけでなく口語でも、そしてそれらを混ぜることもある。なんでもいいのだ。

 はじめはスクリーンに横書きで歌を書くことに強い違和感があった。いま私はそれは克服したが、できれば縦書きにしたい、また宇宙と書いてソラと読ませたりする当て読みも短歌にはよくある手法だ。うたよみんはそれらの欲求に答えてくれていた。終了は惜しい。とりあえずはしばらく中断してしまっている短歌専用のブログにこれまでの作品を少しずつ移すことにしようと考えている。

その人らしさ

 絶対的な正解がある場合は全力でそれに近づくことを目指すべきだ。それが努力というものであり、この行為は必ず報われる。だが、正解のない問いの場合はどうだろう。

 世の中の大半のものは実は正解が分からない。現時点では正解と思うものが、実は間違っていたということはいくらでもある。暫定的な正解をあたかも真実であるかのように。考えるのは錯覚というものだろう。

 だから、かならずしも合っているとは限らない正解だけで判断するよりも、その問題に如何に向き合い、どう結論したのかということを評価の対象とするべきなのだ。プロセスを見ることの大切さを忘れてはならない。

 現状では結果ばかりを重視する状況にある。結果から遡及するのがよいとも言う。しかしこの考えでは新しい考えは生まれない。手っ取り早く多数派の意見にたどり着いたほうがいいのだろうか。私は中長期的にはそうではないと考えている。

 大切なのはその人らしく何をしたのかということなのだろう。単なる比較の問題ではない。そういう評価がどうしたらできるのかを考えるべきだ。

値上がり

 買い物をすると会計のときに値上がりを実感する。一つ一つの品物は僅かな値上がりでも、それが集まると大きくなる。当たり前だが事実だ。

 このちょっとおかしいが毎日続くとさらに大きな負担になっていく。私たちはしばらくインフレを経験していないのでこの違和感を理解するのに時間がかかる。

 収入の方は上がらない。経営者にはここで考えてほしい。金が回らなくなると結局自分の商売に返ってくる。人件費や投資をケチってはならない。

充電は学校で

 子どもに電子端末を持たせる活動は時代の流れとしては止められないことだろう。ただこれは学校だけで完結するべきではないか。家ではノートに手書きで書かせるべきだし、検索して終わりという思考法に落とし込むことは避けるべきだ。

 そのためにも長期休業期間以外は生徒の端末を学校で預かり充電も済ませる設備を設けることを提案したい。中等教育まではこれでいいのではないか。

 デジタルの世界で活躍するためには非デジタルの分野でどれだけ頭を使ったかが肝要だ。大人になれば日々の作業に追われる。子どもの頃は脳を活用して考える力を養うべきだ。家でもパソコンやスマホに頼る小学生や中学生の未来は暗いのではないか。完璧にではなくともとにかく自分で考えたという実績を積むべきだろう。

 そのためにも家庭ではデジタルの呪縛から逃れるべきだ。それが結局本人のためになると思う。