投稿者: Mitsuhiro

翻訳されやすく

 長く続けているといいこともある。このブログは私の日々の雑感を書き連ねているので、そんなに役に立つ情報はない。あくまで一人よがりの考えが並んでいる。それなのに時折、海外からのアクセスがあり、リアクションをいただけることもある。うれしいことだ。

 その方のサイトを訪問すると当然ながらその国の言葉で書かれている。英語ならなんとか読めるが、ロシア語やイタリア語、スペイン語になるとお手上げである。そこで機械翻訳を使うことになる。

 ラップトップのパソコンでブログを読むと、翻訳の提案が飛び出すので、それに従うと大体の意味は分かる。明らかにおかしい日本語は推測で解釈する。細かいニュアンスは読み取れない。これを割り切ればスペインの教育関係者のブログも読める。

 自分の日本語が機械翻訳でどのように訳されているのか心配になってきた。私の文章は多分に生硬、不明瞭なところがある。故意に曖昧な言い方をすることもある。これを訳せるのだろうか。

 そこで考えた。ときにはやさしい日本語を使い、極力機械翻訳でも誤訳されない文章を書くべきではないかと。今日の文章などはそれに当てはまるまい。本当は英語、イタリア語などで書ければいいにこしたことはないが、せめて分かりやすく書くことにしようかと思う。そういう文を書くときは断りを入れることにしよう。

 その前に誤入力、誤変換をなくさなくてはなるまい。老眼にはきつい作業であるが。

観梅

 近隣の公園に観梅に行った。五分か六分といった咲き具合だが、十分に楽しめた。

 毎年訪れる場所だが、ここ数年では人出が多く、なおかつ余裕がある雰囲気がある。コロナ自粛時代が終わりつつあることを表しているかのようだった。

ピッチクロック

 アメリカのプロ野球、MLBでピッチクロックというルールが加わった。これは投手がボールを受け取ってから走者がいないときは15秒以内に投球しなくてはならないというものだ。時間短縮とテレビ等での視聴者拡大のために導入されたようだが、いまのところ改悪のように思える。

 野球が時間がかかるスポーツだということはかつてから言われてきた。ほかの団体球技と違って試合時間の大枠が決まっていないため終了時間が読めない。だから、放送メディアにとっては厄介で扱いにくかった。サッカーやバスケットボールなどある程度終了時間が読めるスポーツにはそれがない。

 投手がボールを受け取ってから、捕手から送られるサインを確認し、自分の意見と照合して投球する。場合によっては気の短い打者をじらす方法をとるため、捕手が待てのサインを出すこともあるそうだ。これで時間が使われる。野球が好きな人はこの駆け引きも含めて楽しむことができる。相撲でいう立ち合いの駆け引きだ。わずかな間を使って相手の調子を狂わす。

 打者もそうだ。わざとゆっくりと打席に入ることで投手の調子を狂わせる。今回のルールでは8秒という制限が設けられ、プレシーズンマッチで遅延行為のため三振という例がすでに生まれているという。だから打者側からの駆け引きも限られてくる。

 ルール変更があるならば、過去はよかったなどと言っていられない。高校野球のようにテンポのいい試合にも私たちは慣れているので、プロがこの方法をとっても違和感はない。ただ、チームが考え、観客に考えさせる戦略的なスポーツである野球の醍醐味が減少したことには間違いない。もっと頭の回転を速くする必要があると言われればそれまでだが、情報処理優先病はこういうところまで侵食してきているのかと考えてしまう。

 むしろ、チームによる作戦を遂行する際に監督の指示をいちいち伝達することはできなくなるかもしれない。フィールドに立っている選手が即座に判断し、次のプレーを決めなくてはならなくなる。組織の在り方が変わる可能性もある。

 コロナの影響で制限されていた様々なことが変わったスポーツ界であるが、これもその一つなのかもしれない。日本のプロ野球でも早晩これに習うことは明らかであり、これから野球選手になりたい皆さんには指示待ちではなく、自主的な思考が必要になると考えていただきたい。

ブランド

 デパートはかつては特別な空間だった。いろいろなものが同じビルの中で手に入るというだけではない。少し高めの価格設定でほとんど割引もしないが、デパートで買ったというだけで満足できる何かがあった。ブロの接客や、高級感のある包装の仕方などがそれを支えていた。

 デパートにいま行くとその感覚は薄い。生活雑貨や衣料や家電の量販店が階ごとテナントとしていることろも増えた。こうなるとショッピングモールと区別はない。一つの建物に限定される分、むしろ大型のショッピングモールよりはるかに見劣りしてしまう。販売員も他とは変わらないので、デパートの優位性というか異空間性というべきものはほとんど失われている。

 デパートがデパートして生き残るにはやはり、この特別意識をいかに演出するべきなのかを考えるべきだろう。ほかにはない商品を扱うという方法もあるが、いろいろなものがコモディティ化している中では高級ブランドも実は需要が少なくなっている。必要なのは買い物空間としてのブランド化である。そこに行くと特別な購買体験ができるという経験を商品化するしかない。そのためには接客のプロや商品選びのプロが必要だ。人件費がかかり、その結果商品の価格も高額になる。でも、量販店や、ネットショップでは得られない特別な体験を演出できれば存在する価値がある。

 買い物という行為そのものに対してどれだけこだわることができるのか。世の中が安く手に入ればそれでいいと考える風潮があるなかで、あえてそれに反する商法を行うことで存在意義を見出せるかもしれない。

侵攻1年

 ロシアによるウクライナ侵攻が今日で1年目になるという。おそらく現地の人たちにとってはとても長く苦い毎日を過ごしているのだろう。当初はもっと短期間に解決するかと思っていたが、ロシアの執拗な攻撃と、それに対抗する国々の軍事支援のために戦闘は長期化し、いまだに解決の糸口は見えない。

 ロシアの立場からすればウクライナ国内のロシア系住民の救済という大義名分があるようだが、どうもそれだけではなさそうだ。資源にあふれるウクライナの国土を少しでも獲得することや黒海の貿易権を確保したいという伝統的な政策もある。ただ、かつてのように国境線の変更は容易ではない。二国間の衝突に見えて、実は親ロシアと反ロシアの世界的対立である。21世紀の世界大戦はこのような形で行われるということなのも知れない。

 国家権力者の暴挙は許しがたい。前線の兵士たちは今日も傷つき死んでいっている。戦争のために経済状態は悪化し、国際的な活躍をするべきタレントの人生の可能性を奪い続けている。芸術やスポーツの方面の停滞も人類にとっては損失だ。もう終わらせてもいいのではないか。

 ここまで対立してしまい、被害を拡大した以上、怨恨はどうしても残る。ただ、これ以上の犠牲者を出さないためにもロシアには停戦に応じてほしい。またウクライナの傷は世界的な援助で癒す必要がある。戦犯国にすべとを負わせるとどうなるのかは第一次大戦で世界は学んだはずだ。

 日本はこの戦争を機に、軍備拡大の方面に進んでしまっている。隣国の急成長や、意味不明のミサイル連射を見せつけられているからある程度は仕方がない。ただ、防衛は武器だけでなく、言論の面でも強化すべきだ。世界に通用する交渉人を育成すべきだ。この方面で世界貢献しよう。

バスを待つ

 バス利用者にとっては当たり前かもしれないが、私のように電車にしか普段乗らない身にとってバスを待つのはかなりスリルがある。

 都会のバスならいざ知らず、地方都市のそれも郊外を走る路線は1時間に一本か二本あればいいほうだ。前に住んでいた町など1日二往復しかなく。朝駅に向かうのと夕刻戻ってくる便しかなかった。こういう路線はざらにあるはずだ。

 すると乗り過ごすという意味が変わる。時刻表通りにバスが来るとは限らないから少し早めにバス停に着き、定刻を過ぎても待ち続けることになる。何かの事情で定刻ぎりぎりにバス停に着き、なかなか来ないときは、もしかしたらもう通り過ぎているのではないかと心配になる。他にハスを待つ人が誰もいないときは特に不安だ。

 こういう来ることは分かっていてもいつ来るのか分からないという存在は人生の様々な場面に似ている。幸せも不幸せもいつかは我が身を通り過ぎる。その中には病も死も含まれる。時刻表は非常に大雑把だが必ずやってくることには相違ない。

 時々バスに乗るときいつもこのことを思う。

離れる

 時々は少し離れたところに行ってみることが大事なのかもしれない。日常の枠組みの中にどっぷりとつかっていると、世界はどんどん狭くなり窮屈に思えてしまう。それは錯覚なのだろう。

 現実世界は窮屈でもなければ閑散としてもいない。ちょっと離れてみればそれが分かるかもしれないのだ。私たちはそのことを思い出す必要がある。当たり前だがすぐに忘れてしまう。

 離れるために何をすればいいのかを考えよう。ただ、戻ってくることも忘れてはなるまい。逃げるのではなく離れるのだ、

知音

 知音とは親友のことである。中国の故事によれば琴の名手が弾く演奏の意味や込められた心情を見事に言い当てる者がいた。よき鑑賞者であったことになる。この人物が死ぬと、琴の名手は二度と演奏をしなかったというのがこの語の背景にある。

 親友とはなにかといえば、自分の心をこのように理解してくれる人なのだろう。利権や一時期の感情で結ばれたわけではなく、もっと深い相互理解に基づくものなのかもしれない。このレベルの友人となると一人いるかいないかの話になる。

 ソーシャルメディアでいう友達はこれとは全く異なる。相手のことなど何も知りはしないが、とにかく関係性を持っていたいと刹那的に思えば友達になる。友達になるのは1回のクリックで、友達をやめるのも同じ行動で可能だ。こういうのが実人生のいわばもどきであり、現実とは全く異なるものであると認識できる世代はまだいい。もしかしたら、私の世代も含めて、この軽薄な友人関係が人生の価値のように考えている人が増えているのではないかと心配する。

 知音は人生の中で会えることはもしかしたらないかもしれない。でも、そういう存在を求めることや、自身が誰かの知音になるときがくることは考えておくべきではないだろうか。

 

ハリセン

 国会で居眠りしている議員にハリセンを食らわすと言っていた議員がまだ公約を果たしていない。彼自身が国会に参加せず、居眠り以上の失態を続けているからである。いかなる理由があっても議員が無断で国会を欠席することは許されることではない。

 彼自身が巨大なハリセンを受けるときがきた。議員の報酬を受け取ることは自ら拒否していただきたい。そして国民に謝罪するべきだ。貴方が自分の保身を優雅に行っている間に日本の国民は物価高と時代的閉塞感に苦しんでいる。ユーチューバーならいざ知らず、国会議員ならば国会で自説を論じるべきだ。

 あまり期待していないが、今からでも間に合う。このままだと少数政党はだからだめなのだという証にしかならない。国会であなたの影響力を発揮すべきだ。得意の暴露は今度は自分に向けるといい。正直な人柄に惹かれる人もいるかもしれない。

 今のままでは日本の民度の低下の象徴にしかなれない。帰国しても逮捕されるはずがない。そういうふうにできているのだから。議員になりたくてもなれなかった人のことを考えて登院すべきだ。