台風を動力源とする梅雨前線のために昨日は猛烈な雨になった。退社時間が早まったのは良いがわずか10分あまりの駅までの道で文字通りずぶ濡れになってしまった。雨が真横からふり傘がまったく役に立たなかったのだ。
結果としてシャツとスラックス、そして通勤用の靴が使い物にならなくなった。乾くまでは使えない。靴は適当な予備がないから今日は少しカジュアルなデザインのものだ。仕方がない。
6月早々の大雨に驚くばかりだが、このあともこんなことがあるのだろうか。心配になる。
日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro
雨の日に気になることの一つに走行する車の近くを歩くときの水はねがある。何度も被害にあったことがあるので、雨の日は色の薄い服は着ない。この水はねは実は道路交通法違反で罰金が規定されている。
車から水はねの被害を受け、因果関係が証明されると普通車では6,000円の罰金ということだ。実際には証拠を残すことが難しいため、泣き寝入りになることが大半というが、街中に防犯カメラがありカメラ付きスマートフォンが普及したいまでは証拠写真や動画か撮られている可能性は高い。それ以前に道義的問題として考えるべきだ。
JAFの実験によると、時速40kmで水溜りを通過すると身長の高さの飛沫がタイヤから2m位まで飛ぶという。時速20kmでも下半身を濡らす水はねは起きる。時速10kmまで落とすとほとんどはねないということだ。もちろん水溜りの状態や道路の形状、車種などによって状況は変わるはずだ。
一番厄介なのは水溜りが運転手から予測できない場所にあることで、この場合減速しないで走ってくる。おおきな飛沫を上げることになる。
歩行者としてはよく水はねが起こる場所を把握して車が接近しているときには近づかないことが肝要だ。運転者はまとまった雨が降っていて歩行者を見かけたら念のため減速する配慮がいる。道路設置者には水はけの悪い場所を改善するか警告の表示を施すことをお願いしたい。
6月には祝日がない。ある意味、規則正しい生活ができる月だ。かつて日本人は働きすぎで仕事中毒だと揶揄されたこともあった。いまはそれは当たらない。働くことに疑問を感じる人々が少しずつ増えてきている。
長時間働いても賃金が上がらない。株式投資したほうが儲かってしまうという現実を日本国民は苦々しく感じている。金が入る喜びは刹那的なものだが、仕事の達成感は得られない。儲かった金で社会還元できるならばまだいい。投資家の多くは私腹を肥やす以外に興味がないから、結局金が回らない。これはおかしい。
長雨の季節に私たちは何かを考え直さなくてはなるまい。自分が豊かになるためには周りの人も豊かにならなくてはならない。がむしゃらに働いても誰かを幸せにできない。何よりも自分自身が不幸に思える。
こういうときは少し視点を変えよう。雨はこういう時にはいい間になる。
台風の影響で今週は荒れる天気となりそうだ。沖縄県は台風の直接の影響を受ける。本州はこの台風がエネルギーを供給する形になる梅雨前線が長く強い雨を降らせそうだ。
週間予報では関東は金曜日に大雨となっている。台風の速度が遅く、その影響が長期にわたって続きそうなのが不安である。今回は暴風よりも豪雨に注意すべきだと考える。
都会に住んでいると、河川の氾濫はあまり話題には上らない。過去には一級河川の氾濫により大被害が出たこともあるので油断はできない。それよりも深刻なのは、地下階への雨水の侵入をいかに食い止めるのかであろう。過去に浸水の経験のあるところには土嚢が用意されているところもある。蟻の一穴の比喩のごとく、こまめの手当てが求められるので関係者には点検をお願いしたい。
荒天時は無理をしないさせないことも防災の基本だ。勇気をもって防災情報を発信してほしい。
富士通の携帯電話関連事業が事実上終焉したというニュースがあった。残念だが、日本企業の考え方と携帯端末との相性はよくない。それが具現化してしまった。
携帯電話のような機械音痴を含めた誰でも使う機械は、それを踏まえたインターフェースを作らなくてはならない。日本企業にはその発想はできなかった。極めて高性能だが素人では使いこなせない。それが日本製の特徴だった。
高性能を維持するためにはある程度の収益がいるが、グローバル化によって競争力が激化すると、性能は劣るがとりあえずよく使える外国製品が選ばれ、日本製は資金源を奪われていった。高機能だが使いにくい機器から、そこそこ高機能で他の国の機器に劣るところもあるが、使いにくく価格が高いという位置づけになってしまったのだ。
携帯電話に限って言えば結局ソニーだけになってしまったと言える。シャープは台湾企業のバックアップを受けて延命しているが、最近の報道では旗色がよくない。この2社をあえて日本製スマートフォンメーカーと呼ぶならば、かなり寂しい。
富士通や京セラにもう一度この業界に戻って欲しいというのが私の勝手な願望だが、道のりは厳しい。端末を作ることは今の日本の経済風土では魅力的ではないようだ。
考えてほしいのは日本語環境に適したインターフェースの構築だ。今のスマートフォンはつまるところ英語ベースの仕組みでできており、使用者がそれを学んだ上で操作している。しかしこれは実は大きな損失なのだ。思ったことをすぐに形にできるシステムを作ることが日本語環境の急務である。
日本語環境の市場は世界的にみれば大きなものであり、なおかつ他言語の技術者にとってみれば障壁が大きい。ならば日本企業の独壇場になることは必定と言える。また、特定の言語文化への対応のノウハウはきっと他国にも応用できるはずだ。人間が機械に合わせるのではなく、機械の方が文化的要素を盛り込んで動く時代は必ず来るはずだ。
ハードの開発で遅れを取った分をソフトのイノベーションで取り戻そう。そのためにはエンジニアの皆さんには国語をもっと学んでほしい。あるいは日本語の様々な使い手と交流を持っていままでにはない使い勝手を創作していただきたい。

何かを考える際に、何らかの要素を固定してしまうという手法がある。例えば、時間や空間、その他の要素のうちで、あるものを止めてしまうと他がよく見えるようになるということで時間の流れを止めれば、同じ時代に何が起きているのかを通覧できる。場所を固定すれば。そこで起こる様々な出来事の流れを把握できるはずだ。
実際の世界は変動する要素が多数あり、相互に影響し連動するから、どれかの軸に固定するということは不可能だ。誰にも時間の流れを止めることはできないし、多様性を排除することはできない。あくまで頭脳の中での仮想に過ぎない。
ただ、そういう仮想を通して私たちは物事を整理して考え、新しいアイデアを得ることができる。仮想的に何を固定するのかが大切なのだろう。
少し時間がすぎるとなぜこんなことにこだわっていたのか分からないと思う経験は何度もしている。細かいことにこだわっていた自分が不可解な存在の様に思えてならないこともある。なぜなのだろう。
私たちはものを考える際に身近な環境の影響を受けやすい。目につくものを基準にして物事を考えていく。だから、そのときにどのような環境に置かれているかが、判断基準に大きな影響を及ぼすことになる。
その環境と呼んだものは刻々と変わるもので、常に揺れ動いている。だから、それを基準にした価値判断もまた非常に不安定なものと言える。その時は正しいと思っても、実は見方を変えればまったく別物に映るということもしばしばある。最初に述べたことは、このように価値基準が変わった後に過去を見返したときに起こる。
このようなことを書きながらも、私は日常を超越することなどできず、その都度悩み、その都度苛つき、その都度落ち込んでいる。とても残念なことだが、この繰り返しからは抜け出せそうもない。ただ、少々馬齢を重ねたお陰で、わずかながらメタ認知ができるようになっている。
このところ不調が続いており、いろいろな行き詰まりを感じている。それも本当は錯覚かもしれないと考え直すことにしている。自分が考える調子などというものほど怪しい感覚はない。だめだと思うときも、絶好調と思うときもどこかで考え直す必要がある。