月: 2023年2月

みんなで支える

 日本のアドバンテージを考えるとみんなで支えるという考え方に親和性が高いということではないか。現代人はかなり利己的だが、それでも仲間に対する思いやりには長けている。これは人種とか地域性とかではなく仲間と認めたものに対する気持ちだ。

 これは同時に仲間でないものを斥ける排他性と表裏一体である。中根千枝氏の先駆的研究が指摘する通り、他所者に対する冷たさは日本人のもう一つの側面だ。この事実を忘れてはならない。我々は仲間としないものにはかなり手厳しい。理論的に反目しているならばよいが理由なく相手を認めないことも普通に行われる。

 民族論者ではないがこうした国民性を活かすことも考えるべきことだろう。仲間に対する優しさと仲間でないものに対する冷淡さはいかにして活用すべきだろうか。様々な答えが考えられる。

 結果としてみんなのために貢献できる国民性は地球市民としては益となる。つまりは地球市民という概念を獲得することが日本人の強みになる可能性があると感じている。遠い目標だが、達成不可能ではなさそうな気がする。それが日本人のポテンシャルだろう。

和食

 よく和食は健康にいいと言われる。概ね正解のようだが、それだけでもないらしい。最近は高齢者も積極的に肉を摂るべきであり、和食だけでは健康年齢を伸ばせないと言われている。西洋的な食事だけならばよくないが、和食だけでもよろしくないということなのだ。

 思えば和食とは日本の文化の反映だ。日本文化は時代とともに海外の良いものを取り入れ、独自にアレンジしてきた。平安時代の食事と現在のそれは全く異なる。だから、時代の要請に基づいて新しい調理方法や素材を用いることは和食の伝統にもなりうるのだ。これこそが和食であり、それ以外にはないという考え方はJapanese Styleの本質ではない。懐の深さこそが日本文化なのだから。

 だから、いわゆる和食にこだわり、海外の食生活を忌避したり、逆に和食の欠点を論いその本質を考えないのは的を射ていないということになる。これからどんな和食が誕生するのかそれが楽しみである。







早咲き

 隣市の公園に行ったところ、咲き始めた桜を見つけた。早咲きの種類らしい。カワヅザクラかその亜種のようだった。

 その樹の下には何人もの人たちが足を止め、枝先を見つめていた。言葉を交わす人もいる。まだ寒い日が続いているが、間もなくそれも終わりであろう。ソメイヨシノの咲く頃にはこの樹のことは忘れているだろう。

 早咲きの桜に何か心躍る一時であった。

短歌を教える

 授業で短歌を教えることがある。古典和歌ではなく現代短歌をおしえるときには文学性はもちろんだが、もっと違うものを引き出すことを考えている。

 国語の授業は最近ますます情報処理の方面に近づいている。書かれていることを正確に読み取り、それを短くまとめるという能力だ。実用的な文章においてこれは大切であり、必要不可欠な要素であることに相違ない。ただ、これはいわば機械でもできることだ。ちなみにChatGPTに短歌を中高生が学ぶ意義を尋ねたところ、

 日本語の美しさを学ぶことができる:短歌は、五・七・五・七・七という音数の制限の中で、豊かな表現力を持った日本語の美しさを表現することができます。短歌を通じて、日本語の響きや表現力に触れることができるでしょう。

 感性や思考力を養うことができる:短歌は、短い詩であるため、それぞれの言葉が持つ意味や表現力が重要となります。そのため、短歌を書くことで、言葉をより正確に選ぶ感性や、自分の思考を深める力を養うことができるでしょう。

 文化や伝統を学ぶことができる:短歌は、日本の伝統的な詩形であり、古くから多くの人々に愛されてきました。短歌を学ぶことで、日本の文化や伝統を理解することができるでしょう。

 創造力を発揮することができる:短歌は、自分の感性や思考力を活かして、自由に詩を書くことができるため、創造力を発揮することができます。

OpenAI

 以上のような実に模範的な回答が得られる。しかし、実際に短歌を作ってほしいと頼んでみると即座に「木漏れ日 きらめく枝先に 小鳥の 歌声響く 春の息吹」という作を披露してくれた。残念ながら短歌ではなかった。定型が守られていないのは存外として、これでは詩としての感動がない。春に小鳥というよくある取り合わせを並べたものに過ぎないのだ。

 なぜ(いまのところ)機械と人間との創作に差があるのかと考えれば、やはり意味の理解の差にあるのかもしれない。私たちは言葉の背景にある意味を考え、その言葉が取り合わされたときに生じる意味も考える。「春」に「小鳥」が「枝先」で「歌」うのは統計的に非常に多いものであり、それを短歌にしても感動は生まれない。でも例えば先ほどの短歌を、

 木漏れ日のきらめく枝に小鳥らの歌声響くことのない春

とすると、趣が変わる。なぜ春なのに小鳥は鳴かないのか。疑問とか不安とか正体は分からないが作者の一度限りの感情が読み取れてくる。

 おそらく短歌の教育で教えたいのはこういうことなのだろうと考えている。詩という形式が何をもたらすのか。それは論理的な読解だけでは表現できない、情動なり空気なりをぎりぎりの段階で言葉としてつかみ取る方法なのだということを気づかせたいと思う。

開花予報

 ソメイヨシノの開花予報が発表された。東京都千代田区は3月22日ということだ。昨年と同じで平年より2日早い。このところ開花の時期は次第に早まっている気がする。かつては4月に満開を迎えたが、最近は3月末に満開し、入学式まで持たない。

 開花が早まっているのにはやはり地球規模の気候変動が影響しているのかもしれない。長い冬と長い夏に挟まれて春秋は存在感をなくしつつある。桜は日本の季節感を示す大切な指標の一つだ。それが現れる季節がずれれば、生活感も影響を受ける。

 近い将来、桜は入学式の花ではなく卒業式の花となるかもしれない。私にとっては違和感極まりないが。

なかったら

 最近、これがなかったらという仮定を頭の中でよく行うようになっている。生活に欠かせないあるものを、もし存在しないとしたらどうなるのかと考えるのである。これは、新しい考え方を引き出す手段になりそうだ。

 実は短い演劇のシナリオを書こうと考えている。やり方はいろいろあるが、いま考えているのは現実から引き算した世界で何が起きるのかをテーマとすることだ。発達や発展は可能性を拡大するが、逆に他の可能性を消してしまうこともある。それを形にしてみせたい。

 普段とは異なることを考えることにはエネルギーがいる。でも、有意義なことだと思う。

雪のにおい

 雪が降り出す前には様々な兆候がある。確かにかつて雪の降る地域に住んでいたときにはそのいくつかを感じることができた。においはその一つだ。具体的にはいえないが何かが変わったような気がした。

 関東で暮らすようになってそれが思い出せなくなっている。五感で感じた天気の変化が分からない。すぐにスマホの天気予報サイトを見てしまうのがいけないのかも知れない。

 もっと感覚を大切にしなくてはコンクリートの内側で日常を完結させてはならないと反省している。

寒気

 バレンタイン寒波と命名されているようだが、確かに昨日から気温が下がった。今朝は風も結構強い。季節の行き合いの一進一退だ。

 それでもそろそろ梅の開花はまもなくだろう。また今年も梅園に行ってみようか。帰りにはまた公園の茶屋に寄ろうかなどと呑気なことを考え始めている。

 数日前から花粉症対策薬を飲み始めた。春は楽しむべし。それを喜べるための寒気と心得る。

昔話の力

 昔話は話し手が時間や空間の保証をしないという点において独特の世界を語る。それゆえに発揮される力というものがある。

 昔、ある所に、爺がいた。昔話の始まりはこのような感じであり、時代、場所、人物に関する詳細情報は省かれる。それを追究しないことが昔話の読者もしくは聞き手の条件になっている。この曖昧さは汎用性として機能する。

 昔話で語られる内容の中には非現実的なものもある。誇張もあるし、虚妄としかいえないことも含まれる。ただ、その中には一面の真実と言えるものも含まれており、教訓として味わうこともできる。それが昔話の力なのであろう。

 閉塞的な時代は昔話のエネルギーを利用してもいいかもしれない。そこから得られるものは最新の情報より有益なこともあるかもしれないから。

共有されていく生活

 縮小する日本の生き残り策としてシェアハウスはもっと増えるかもしれない。個々の生計が成り立たないならば契約を結んだ者同士で共同生活をすればいい。そう考える時代が来るのかもしれない。

 光熱費や各種の税金は個別に支払うより、割安になる。いまいうシェアハウスはどちらかと言えば若い世代の仮住まいだが、今後は高齢層もこの形態に絡んで来るかもしれない。制度上の問題点を解決できれば一挙に進む可能性もある。

 寝室などのプライベートスペースを除いて多くが共有される。これは現在の価値観ではかなり無理を感じる。個々人の主義、趣味嗜好が異なるのに最もプライバシーを要求される家庭までもが共有化された空間にあるという風景は想像しにくい。しかし、価値観そのものが変化を遂げるなら話は変わってくる。今後、様々なものが共有化され、それが当たり前になっていく時代が来るかもしれない。