月: 2022年5月

 北陸では弁当忘れても傘忘れるなという言い伝えがある。天候の移ろいやすい風土の住民の生活の知恵の一つだ。私はしばらく彼の地に生活していてその金言に助けられたことが多いため常に鞄に折りたたみを持ち歩くことにしている。

 ところが、今日はうっかり忘れてしまった。鞄の整理をしていたときに入れ忘れたのだ。今日は曇天。降り出しそうな気配がある。こういうときはかなり不安になってしまうのだ。

 習慣というものは多くの場合、日常の助けとなる。しかしそのそれが崩れたときの応用力も必要だ。最近は傘のサブスクサービスもある。第二の選択肢をいつも用意しておくこともまた弁当よりも必要かもしれない。

五月も下旬

カワラナデシコ

 五月も下旬になって早くも曇りがちの天気が続いている。梅雨の気配なのか。

 そんな中でもさまざまな花が咲き始めている。今日見つけたのはカワラナデシコだ。なでしこの在来種と言われている。万葉集に秋の七種とされ、大伴家持らによく詠まれたなでしこはどのような品種だたのだろうか。なでしこの命名からして子・娘に例えられてきた優美な花である。大和撫子は日本女性の形容としてもよく使われる。秋の草花とされるが実はもう咲き始めている。

 五月の穏やかな天気の中で心は緩むばかりだ。でも今日はその柔らかな感覚の中で時を送りたい気がする。

外来種

アカツメクサ

 近くの公園を歩いてみた。意外に多くの野の花が咲いていた。雑草に分類されるものも含めてよく見ると見どころがある。この中の多くが近代以降に渡来した外来種であることが分かった。

 そもそも公園という空間自体が人工的なものである。そこに自然を見出すのはおかしい。しかし、誰か外来が意図的に植えたものでなくとも外来種で溢れている。アカツメクサはすでにどこにでも見られる。ヒメジオンは歳時記に載っているし、最近増えたベニバナユウゲショウは園芸店で売っても売れるかもしれない。

ベニバナユウゲショウ(アカバナユウゲショウ)

 何をもって外来種というか。その定義は意外に難しい。生態系を荒らす新入りについては厳しい目が向けられるが、それとて人間がもたらしたものである。

 どこからか天の声がする。そなたもかつてここにはいなかった。新入りが新入りを難じていかんとす。

マスクを外す

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 政府が条件付きでマスクの着用をしなくてもよいケースを発表している。十分に距離が確保され、会話が少ないという状況ではマスクをつけなくてもよいとするものだ。コロナの呪縛から逃れることができるのはうれしいが、まだ不安もある。もっと不安なのはウイルスより人間の方だ。

 マスク警察とか自粛警察と呼ばれた人々の行き過ぎた行動をしたことは記憶に新しい。集団ヒステリーの一種とも考えられる。マスクをしていない人に過度に注意をしたり、暴力的な言動をする人がいた。さらに県外ナンバーの車を傷つけるといったことも行われた。全く無意味な行動に走ってしまうのが人間というものである。

 今回は政府が外してもいいという見解である。ここでまた曖昧な状況が起こる。価値観の異なる人たちが自分の基準で行動すると過剰反応をする人が出てくるのだろう。自分の常識は他人の非常識、その逆もまた真ということが分からない。同調性の強い国民性である日本人にはこうした考え方が理解されにくい。

 集団で生きるしかない人間の定めから起きる問題である。

記憶の中の人物像

思い出の中ではどんな人?

 人の性格や行動は実はかなり複雑だ。優しい人にも厳しい一面はあり、陰険と思われている者が影では善人であったりする。本当は一言では言い切れない。それを強引に分類していまうのが私たちの日常である。

 こうした人物像の簡略化は、時間とともに進行するのかもしれない。相手との交渉がなくなると、過去の記憶の中でその人物を想起する。その思い出の人物像はすでにまるめられており、時間とともにさらに末端が削られる。故人に対してはもう出会う機会はないから、時間とともに固定していく。

 写真に例えてみる。撮影の時点でその人の典型的な姿が選ばれる。それでも何枚もの写真の中にはその人物の様々な一面がほのみえる。ところが時間とともにその中の写真の大半は失われ、数枚だけがその人の思い出として残るのだろう。

 人物像はこのような仕組みでできている。さらに英雄伝説に誇張がありがちなように、このわずかな印象も変質を始めていく。本当はどんな人物だったのか容易には分からなくなる。人を考えるときにはこうした仕組みを思い出さなくてはなるまい。

新聞

新聞とっていますか

 教科書の単元に新聞の投書を書くというのがあった。念のために家で新聞配達を頼んでいるのか聞いて見るとクラスの四分の一くらいがとっていないと答えた。私の常識は通用しないことが分かった。

 比較的裕福な家庭からの通学者が多い学校でこの有り様だから、実は新聞の宅配率はかなり下がっていると推測する。もっともほとんどの家庭が新聞を購読する国は実はそれほど多くはないという。ネットニュースなど報道に触れる機会はいくらでもある。無理にとる必要はないということなのだろう。

 すると投書というものがイメージできない生徒が相当数いることになる。部分的で扇情的なコメントが投書と混同されている可能性は高い。自分の意見を読者を意識して書くということは、難しい行為ということになる。

 国語の教員の出番はまだありそうだ。

立ち直り方

 スランプに陥ったとき、その脱出方法というものがあればいい。そう思うがこの歳になってもそれが分からない。情けないことだが事実だ。あえて言うのなら解決しようとしないのが解決法と言えるのかも知れない。

 ラグビーやフットボールの選手を見ていると倒されてもまた立ち上がる。鍛えているからだろう。とても羨ましい。倒されることが当たり前になっている競技は立ち直ることも練習しているのだろう。

 人生の現実はそう簡単にはいかない。ちょっとしたことでダメージを受ける。これもそうなることが当たり前だと思うことにしよう。倒れることを恐れてはならない。

 周りから学ぶことはいろいろある。それが面白い。

文語調

天下の険

 中学唱歌の「箱根八里」は私の好きな歌の一つだ。箱根を天下の険と言い放つ潔さは爽快だが、この歌を支えているのは七五調の文語詩である。

 古典文には源氏物語のような優雅な文体と、平家物語のような和漢混淆文も持つ歯切れのよい文体とがある。後者は現代日本語の礎となっており、読んでいて共感しやすいのはそのせいかもしれない。

 箱根八里の最初のフレーズでは険、函谷関などカ行の音が印象的だ。つぎの部分では万丈、千尋などザ行、聳え、支ふ、などのサ行音が際立つ。漢文由来の難解な語も一度その意味を知れば代えがたく感じる。

 文語調の歌曲を歌う機会は子どもたちの世界から急速に消えつつある。箱根八里はかつての子どもたちにも難解だったはずだ。卒業式の定番、仰げば尊しや蛍の光もその意味を説明できる高校生がどのくらいいるのだろうか。

 時代遅れと排除するのは容易だ。ただ、それによって古人の叡智を切り捨て、日本語の可能性を狭めていることに気づかなくてはなるまい。

メンテナンス

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 印象的な物言いで恐縮だが、最近メンテナンス不足による小さな事故が起きる可能性が増えているように思う。一度完成させたものは常に管理しなくてはならない。そのためには技術的な問題もあるが、第一は人の目である。それが人材不足や意識の変化によっておろそかになっている気がする。

 過去に作られたインフラは更新の時期を迎えているものがある。景気が低迷し、メンテナンス作業に手が回らなくなったものは放置されているものがあるようにしてならない。熟練の職人たちが大量定年の時期を迎え、経験が生かされなくなっているのも原因のようだ。その分を機械制御で管理すると言われているが、コンピュータには与えられた指示以上の行動はできない。愚直なほどの意識がなければ予測不能の事態に備えることは難しい。

システムの保守には注意を払うべきであるし、そこに従事する人にはもっと敬意を持つべきだと考える。効率主義のなかでひそかに切り捨てられるものがこの部署であるとしたら、突然の崩壊に備えることはできない。

雨の朝

Rainy morning

 今日も朝からかなりまとまった雨が降っている。ラニーニャ現象が影響しているのだろうか。

 この季節の雨は若葉を洗い緑を磨くのはよい。晴れたときに日差しが反射するのは感動的な光景だ。ただ蒸し暑くなるのは困り物で不快なだけてはなく体力わ消耗させる。

 ガラス窓にはりついた雨粒越しに見る風景はソール・ライターの写真を思い出す。雨の日にはそれなりの楽しみもあるし、それを探さなくてはなるまい。