月: 2022年5月

時間の概念

ちょっとお時間を名古屋に行って来ます

 リニア中央新幹線の建設が進んでいる。完成すれば東京品川と名古屋を最速40分で結ぶという。必要性や環境問題の議論が尽くされないまま建設が進んでおり、もはや多くの人的物的投資がなされている。

 仮に完成したとする。すると時間の概念に大きな変化が起こる。関東に住む多くの利用者は、最寄りのリニア新幹線駅までと到着後の目的地に着くまでにかかる時間の方がリニア新幹線に乗っている時間より長いことになる。近いのに遠く、遠いのに近いという逆説が出現することになる。

 もちろんこうしたことはこれまでもあった。新幹線に乗って奈良にでも行くようならば、新幹線駅までと京都から奈良までの時間とがのぞみに乗っている時間より長いこともある。リニア新幹線はそれをもっと極端なもののようにしてしまう。

 所要時間を尺度にした地図を作ればかなりいびつなものになるだろう。都民にとって名古屋はすぐ近くにあるが、千葉の館山は遥かに遠くにあるのだから。

 時間と距離の感覚が崩壊した後に何が残るのだろう。リモートという擬似的な距離飛躍もあるがこれはあくまで現実ではない。適度な距離が安定を保証するという古来からの知恵がなくなったら、どんな世界観価値観が人々を包み込むのか。想像しているところである。

気持ちの説明

小説を教えることに意味はある

 国語の問題の笑い話に、登場人物の気持ちを答えさせる問題というものがある。作者自体が答えられなかったというエピソードとともにこの種の設問を揶揄するものである。

 小説の世界は作品全体を通して形成される。それに対して国語の問題文は短く、切り取られた場面の中だけで完結させなければならない。多面性のある人物像のある一面だけが切り出され、その部分が強調される。そこを質問のポイントに設定すれば全体像を創造した作者の意図しない人物像が出来することもあり得る。

 人物の気持ちを問う問題の難しさはこのような点にあるが、それでもこの行為自体は避けるべきではない。人の気持ちという目に見えず曖昧さを含むものを言葉で説明することはこれからの時代に求められる能力の一つだ。他者との協働が不可避不可欠な今日の状況において、心情を察することは大切だからである。

 だから、登場人物の気持ちを問うことはこの力の養成に繋がるものと考えるべきだ。小説の精読はその機会としてふさわしい。新しい高校の指導要領で文学が軽視されてしまったのは残念だ。現場の教員はうまく立ち回るべきだ。文学作品を読ませることに躊躇すべきではない。

フィンランドに学ぶ

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 フィンランドの社会制度や教育制度に関する紹介をした新書を読んだ。フィンランドの教育には以前から注目が集まっており、私もいくつかの本を読んでいた。しかし、どうしてあのような高福祉国家なのに(つまり恐ろしく税金が高いということになる)国民の幸福感が高いのかについては今一つ理解できていなかった。今回の読書で少しそれが分かった気がする。

 その一つはフィンランド人のものの考え方にある。北欧の小国という自覚が強く、ロシアに接する地勢上の問題もあって、きわめて現実主義であるという点である。国家として存在できれば個人の利益は譲ってもいいという考え方がある。これは極めて大切な観点だ。一定の緊張感のもと利他的な精神が保たれていることになる。

 今の日本人が学ぶことといえばまずはこのことであろう。アジアの辺境に位置する日本が国家として体をなすためには種々の苦難が伴う。そのことを忘れているのではないか。苦難を乗り越えるためには大同団結できるはずなのに、今の日本人にはその自覚が欠けている。アジアの先進国という自負が真実の姿を認識できなくしていると言える。

 フィンランドが理想の国かといえばそうでもなさそうだ。高福祉国家の宿命であるといえるサービスの平準化がある。最低限の質は保たれるがそれ以上は望めない。平等を重んじるあまり、特異な才能は見逃してしまう。伝統的な絆に関しては崩壊の可能性を常にはらむ。そういった危険性を持っている文化である。

 それでもフィンランドに学ぶことは大きい。私はもう少し学びたいと思った。サンナ・マリン首相が有能な若い女性であることが象徴するように、日本にはないなにかを学び取れることができれば、ダウンサイジングする日本にとっては有益な道しるべとなるはずだ。

アジャイル

アジャイルとは素早さという意味があるらしい
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 アジャイル(agile)とは機を見て策を変える手法のようである。ソフトウェア開発で使われていたことばが経営学的にも援用されている。刻々と変わる価値観にいかに適応させていくかを重視する方法であって、不確実性の高い現在の社会状況にまさに適応するために生まれた。

 少し前ならばこういう考え方は低く見られがちだった。一貫したポリシーがないかのように見られがちだったのだ。あるいは弱者が生き残るための必死の策と考えられ、余裕のあるものはとるべきではないと考えらえていた感がある。

 アジャイルのような考え方が主流派に加わりつつあるのは、やはり予測不能の時代への対処を何とかしたいと思っているからだろう。特にわが国には前例踏襲の伝統があるといわれ、それが発展を阻害していると言われている。私はこれには反論がある。

 日本文化は中長期的には常にアジャイルで進んできている。伝統を守ると言いながら常に新しい要素に寛容であった。よく考えてみればこの日本語自体が時代とともに様々な外来のものを取り入れて変化しているではないか。

 昨今の時代変化はこれまでとは異なり速度や影響力が多大である。それに対応するには日本列島に住んできた人たちが土着的に身に着けてきた臨機応変性を思い出すのが一番だと思う。神道的なものから仏教や儒教といった宗教的なフレームを受け入れベースにしながら、次は資本主義や西洋科学の概念を模倣し文化に取り入れた。情報化社会となった現在も海外からさまざまな考え方や物品が来ているがこれを貪欲に取り入れ、和風化し、その都度取捨選択して形を変えていく。日本式アジャイルはここにある。

 完成品ばかりを理想としてそれにランクをつけるという考え方も実は歴史は浅い。なければ自分で作ればいい。そう考えてきた。そうして次々に自分の身の丈に合ったものに変えてきたこの国の歴史的土壌に自信を持っていいのではないか。日本文化が他国のそれと比較して特に優れているとは考えていないが、先祖たちが築き上げ、いまの日本人にも受け継がれていることは確かに尊いものがある。

電話番号

 携帯電話を使うようになって確実になくなってしまったのが電話番号を覚えるという努力である。機械の方が記憶してくれるし、かけるときも番号が表示されず、相手の名前をタップするだけだから意識するチャンスがないのだ。おかげで家族の番号すら覚えていない。それどころか自分の番号でさえ時々確認している。

 このような機能がない時代はアドレス帳を持ち歩いていた。手帳の付録に番号控えがあった。よくかける人の番号は強引に語呂合わせして覚えた。何回か口に出していううちに長期記憶に入った。考えてみればいまはこれがない。登録すればあとは記憶から消える。

 これは便利な機能であることは間違いない。数年前にたった一度だけかかってきた番号でも1分足らずの作業で登録すればいつでも取り出せる。前回はいつかかってきたのかも調べようと思えばできる。

 便利さは何か大切なものを奪っていく。電話番号が覚えるべきものではなくなってしまうと、次は会話そのものの価値も無機質なものと考えるようになる。論理的飛躍があるがこれは事実だ。いつでもボタンを押せば他人と繋がると考える錯覚はこういうところから起こるのかもしれない。

疑似的俯瞰

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 地図を見ることは楽しい。最近は紙の地図を広げることはめったになくなった。それでも観光地に行くともらえる地図には心が躍る。さまざまな情報が集められているし、その地に行けばきっと何かがあることが予感できるのがいい。

 最近は車に乗るときにスマートフォンの電子地図を使うことが多い。本来ならば専用のナビゲーションが必要だが簡易的に使っている。グーグルマップでも十分に代用できる。これにはいいことと悪いことがあって、いいことは迷わなくなったことだ。何しろ渋滞状況も考慮して最短の道を教えてくれる。これでいける場所が増えた。悪いこともある。それも迷わなくなったことだ。出発点と目的地が点と線で結ばれ、その周りにあるものがすべて無目的に見えてしまう電子地図がなかったころは周囲の地形や目標物をあらかじめある程度頭に入れてから運転していた。その中で大まかな位置関係や地域の状況がわずかながら分かった。ナビゲーションを使うとそれらが頭に入らない。

 電子地図をナビとしてではなく、自分の住まいの近くを表示してみた。すると様々な発見がある。歩いているときとは少々位置関係が違って見える。実査に進むことはできないが距離的には実は離れていなかったり、遠いと思っていた場所がそれほど離れていなかったりする。知らない店の名前や、公園の所在などが分かる。自分の生活圏を俯瞰するのにこの地図は面白い。地図はどこかに行くためのものだけではなく、自分がどこにいるのかを知るためのものであることに改めて気づかされた。

 鳥のように空を飛べば普段気づかないことに気づくことができる。飛ぶことはできないが地図を使えば疑似的な感覚は得られるのかもしれない。

事後指導

テストの後からの仕事

 教員をやっていると試験の成績はとても気になる。自分の伝えていることが伝わっているのかを反省しなければならないからだ。

 生徒の立場ならば個人の努力や学習量の問題として考えることが可能だ。よく言われたようにもっと勉強しなさいを自分に言い聞かせればよい。これが教員の立場になると話が変わる。個々の生徒にどのような指導をすることが適切なのかを考えていかなくてはならない。

 その点でかつてより楽になったのが機械採点システムだ。自動採点の精度はいまひとつなので期待していない。特筆すべきなのは設問ごとの得点計算が容易にできることにある。どの問題で失点したのかを掴むことで指導方針が立てやすくなる。

 業者テストではそれが行われていた。それが数名の教員で成し遂げることができるようになったのは大きな進歩だ。それをどう使うかが大切ということになる。

インバウンド再び

 コロナウイルスの世界的流行はまだ収束していない。以前よく議論されたように収束という概念はありえないのかもしれない。そして終息は決してない。すると、この厄介な事態と付き合うしかない。

 コロナ騒ぎが始まる前、外国人観光客が日本に大挙して訪れていた。成長しない日本経済のもと、いつまでも物価が上がらない日本は買い物にふさわしい。中継貿易国とは異なり、独自の文化もあり、品質も良いとされている日本製品を買いに来る価値は大いにある。

 一向にサラリーが上がらない日本人を相手にするより外貨のほうが稼げる。しかも自分から買いに来てもらえるならばありがたい限りだ。加えて歴史的な円安だから、外国人にはバーゲンセールにしか見えない。そこで防疫のルールを見直して外国人に来てもらおうということになる。

 この流れは止められまい。昨今の日本の主要産業は観光業となりつつある。たくさん来てもらい観光地だけでなく、あらゆるところでカネを落としていただく。それが双方の利益と考えられるはずだ。

 オリンピックを機に外国人向けに作り直した様々な施設やシステムはその後どうなっているのだろうか。日本人の英語力、その他の言語への学習意欲はどうなったのか。とりあえず日本の産業が復興するまでの時間つなぎは先祖から譲られてきた日本ブランドを広めるしかない。

味覚

 何を美味いかまずいかという尺度はどのようにできあがるのだろうか。普遍的な感覚に思えるが実はまったく特殊なものだ。

 外国人が顔を背けると言われる納豆などの伝統食は確かに日本人でも嫌いな人もいる。そもそも醤油味が苦手だという人には日本は住みにくい国だ。逆に海外の料理の中には味覚的に受けつけないものがある。

 人種による感覚器の違いだという話はあまり聞かない。やはり、食文化が総体的に味覚に影響を与えるのだろう。

 味覚だけではなくすべての感覚にこうした文化的なフィルターがかけられていることは時々思い出さなくてはなるまい。同じものを見ても触っても食べても、別の感覚で捉えられていることを前提にコミュニケーションすることが必要だ。国際問題ではそれが顕著だが、隣人もまた同じ態度で臨むべきなのかもしれない。

Streak365

 このサイトを作成しているサービスにstreakという表示が出るようになった。今日365日となったから1年皆勤ということなのだろう。実はもっと前から続けていて別のサービスも入れると10年以上続けている。内容がなくとも続ければ何らかの価値は出るのかもしれない。そう信じて駄文を連ねて行くことにする。