連日、かなり暑い。マスクをつけたままこの季節を迎えたことは初めての経験であったが一向に慣れない。苦しさが湧きあがって体内にとどまる感覚がある。
予報によればそれでも来週からは少しずつこの暑さも終息に向かうらしい。やらねばならないことの多くがそのままになっていることを思い出す必要がある。そして体調を整えてまた挑戦を始めるのだ。
猛暑で衰弱した身体は、必ず環境の好転とともに復活する。いまは耐えるべきときなのだ。
日々の思いを言葉にして
月: 2020年8月
連日、かなり暑い。マスクをつけたままこの季節を迎えたことは初めての経験であったが一向に慣れない。苦しさが湧きあがって体内にとどまる感覚がある。
予報によればそれでも来週からは少しずつこの暑さも終息に向かうらしい。やらねばならないことの多くがそのままになっていることを思い出す必要がある。そして体調を整えてまた挑戦を始めるのだ。
猛暑で衰弱した身体は、必ず環境の好転とともに復活する。いまは耐えるべきときなのだ。
日本人は自分について語るのが好きだ。その特殊性、異質性に触れる言説は特に反応してしまう。これは定期的な日本人論ブームという形で現れている。
特殊性がプラス方面にふれるときには、その優秀性や道徳心の強さなどが強調される。動画サイトをみると日本人はこんなに優れているとか、海外で絶賛されているといった情報を並べるものがいくらでもある。そしてその多くが根拠が薄く、印象批評の域を出ない。
ネガティブな内容の記事も好んで読まれる。こんなところがおかしい。間違っているというネットニュース記事のコメントをみると、反論とともに同意の意見のリアクションが多数集まる。ネガティブかポジティブかは無関係で日本人という括りで話題がなされること自体が好きなのだ。
自分のことを気にする風土はこの国の歴史と関係があるという。他者からどう見られているのかが行動の規範となることは随所で見られることだ。これが悪い訳ではないが、ややもすれば本質を見失う原因になるかもしれない。他者からの視点ではなく自らの判断でことを運ばなくてはならないのだ。
かくいう私も私はというべきところを我々はしばしば言ってしまう。日本人の平均像を勝手に作り出し、勝手に理想化する。それを他国からどうみられているのかという基準で一元化してしまう。この考え方はかなり根強いものだ。多様化する日本のあり方に考え方わシフトして、より自主的な言動を選ぶことをしなければならないのではないだろうか。
新しい学力観の目標を達成するためには自主的な表現力の養成が欠かせない。自主性を育てることは難しいが、表現力はある程度ならば短期的な教育でも伸びる。大切なのは表現する機会を与えることだ。
授業の中で主体的な表現をさせる機会に対話や討論がある。それが今できない状況にあることは深刻だ。工夫がいる。よく考えるとこれまでやってきた話し合いは効果もあったが無駄も多かった。この機会にそれを考え直すのもいい。対面して話し合えないのなら、離れてやるか、いっそのことマイムにしてしまうのもいい。言葉がいかに大切なのかを実感させる契機にはなる。
対話することの意味を今ほど考えさせられる日々はない。イノベーションを起こすならばいまだ。
株式投資などで値下がり局面で敢えて購入し、値上がりしてから売却するという手法がある。まさにピンチをチャンスに変えてしまうたくましい手段だ。
この方法の大前提として、値下がりしたものは将来必ず値を上げるという期待がある。下降したまま消滅することはないという了解だ。これは資本主義社会に対する信頼が容易には崩れないことを経験的に知っているからだ。
現今の社会情勢は極めて厳しい下げの局面にある。そして、相当の恐怖感を伴って迫っている。同時にこのまま社会が消滅すると考えている人はいない。必ず上昇局面に転じると信じている。だから、いまは慌てずに次の局面で何をするのかを学ぶべきなのだろう。それが許される状況にあることを喜ぶべきだ。
今日、年率で27.8%というGDPの暴落が発表された。リーマンショックを上回る落ち込みに多くの人がショックを受けている。緊急事態宣言で経済を止めたことが直接の原因であることは間違いない。
ただしこれは日本だけのことではない。世界的にコロナウイルスショックは大打撃を与えており、世界中が同病相憐れむ仲である。ただし、これを短期的には救済していかなくては傷口が広がる。ウイルスについては引き続き警戒が必要だが、自粛の行き過ぎにならないようにしなくてはならない。これまでの症例をもっと公開して可能なことと不可能なことを多くの人が共有すべきだ。
今後のことを積極的に考えなくてはならない。失業者の再雇用の方法を模索するべきだ。私だっていつ失業するか分からなくなってきた。再就職の準備を個人的にも始めなくてはならないだろう。そういう機会がないことを祈るが。
今は大きな逆境にある。辛いことだが、こういう時にイノベーションは起きやすい。私自身もそれを傍観するのではなく挑戦する側に立ちたいと考えている。
京都市で恒例の送り火の行事が今回は限定された形で虚構された。「大」の字に見えるように山腹の点火台に火をともす行事は京都の夏の風物詩だ。しかし今年は密を避けるという意味で6か所のみの点火となった。
「大」という文字のそれぞれの画の始点と終点、それに交差点の6か所だけともされた大文字は人々に想像の炎を加えさせた。誰もが足りない部分に見えない光の線を足したのである。ある意味、非常に貴重なものであった。本来、送り火は盆に迎えた先祖の霊魂を再びあの世に送るための炎である。今日との五山送り火のような大規模なものでなければかつては日本各地の門前で同様の行事が行われたらしい。祖霊は神でもあると考えられた。
ひと時の祖霊との交流によって、私たちの祖先は鎮魂をするとともに、祖霊には浮世の我々を守護してもらうことを願ったかもしれない。その精神は今も変わらない。非科学的かもしれないが日本人はどこかで祖先が守ってくれることを期待している。そしてここ最近の災禍を顧みるに祖霊の助けにすがらなくてはならない状況にあることは間違いない。こういう時は原始的な感情を隠さなくていいのかもしれない。
テレビに映った京都の送り火を見て、なぜかこみ上げるものがあった。
日本が太平洋戦争に敗戦してから75年目となった。戦争という言葉が年々実感のないものになっていく中で、考えなくてはならないことが増えている。
75年は人の一生に相当する長さがある。戦争を実感できる年齢になるにはさらに数年を生きる必要がある。日本人は長寿ではあるが、さすがにこの年月は過去を風化させるのに十分な長さだ。
戦争が様々な悲劇を生むことは分かっている。無差別に多数の人を巻き込んでしまう恐ろしさは誰もが承知している。それどころか人類の歴史そのものを消滅させる可能性すらある。それでも人はいまだに戦いを止めない。情報化が進んで知識が敷衍しても変わることができない。
日本は世界唯一の被爆国だ。そしてこの事実はこれからも変わってはいけない。その事実は変わらなくても、そこに住む国民の考えは少しずつ、しかも確実に変化している。反戦は積極性をなくし、むしろ思考停止のきっかけになっている。学ばなくてはならない。現実的と称するあらゆる戦争論に対抗する準備が必要だ。
私が恐らく毎日苦労しているのは、今考えていることを日本語という言葉に落とし込むことなのだと感じる。いろいろなことが頭をよぎるがすぐに消えてしまう。それをどう表現するのか。他人にどのように共感してもらうのかを毎日試しているのだろう。
脳内をめぐる刺激のようなものがやがて感情を形成するのならば、その仲立ちをするのは言葉である。言葉がなければ感覚は記憶できないし、刺激の類型のどれかとしてその都度感じるに過ぎない。それが例えば「暑い」という言葉によって、同様の刺激をひとまとめとして把握できるようになる。それらが組み合わさって単語になり、一定のルールのもとで文になる。それを組み立てて文章ができる。もちろん筆記されることはさらにその先の営みである。
なんとなく感じている思いが言葉になるまでの何とも言えないむずむずとした感覚は、沸き起こってはすぐに消えてしまう。言葉として記憶しなければ刺激をとどめることができないのだ。私が文章を書いたり、詩歌を残そうとしたりするのはそれを何とか形にしたいと思うあがきなのだろう。それは人間という言語を獲得した生物の宿命でもある。
盆休みは都心部にとっては閑散期になることが多いのだが今年は様子が異なる。外出を自粛する人や猛暑の関係で抑制的ではあるものの例年のこの時期と比べるならば明らかに人が多い。恐らく帰省を控える人が多いのだろう。
不謹慎かもしれないが東京ではコロナ対策をしていると言いながら、結構自由なところも多い。マスク着用、消毒液設置は普通になされているが、それが効果があるのかどうかの検証はされていない。また、感染者の隔離というのも本人の自主性にかなり任されている。最近は連日数百人の感染者が加算されているが、その割には周辺に感染した人はいない。密なる状態の定義もあいまいであり、これを日本式というならばかなり緩い。
東京およびその周辺は多くの人を抱えたまま盆を迎えている。恐らく郷里で待つ親たちには実に残念な夏だろう。いやゆっくりできていいのかもしれないが。
複雑な時代を生きていると何が正解なのか分からなくなることが多い。というより常に正解が分からない世界に生きている。そんな私たちにとっては一つの指標がある。古典を読むことである。
私にとっての古典は日本の古典文学作品である。大学時代にこれを専攻したこともあり、私にとってなじみ深い。万葉集の歌を読むとき、中世の説話を読むとき、そこには常に発見がある。未完成で粗削りなストーリーの中に可能性を感じる。国語の教員である私はそれを教材としてのみ扱うことに常に抵抗を感じている。まるで暗号解読のように古典を読む同僚たちの手際よさに感服しつつも、それは古典を呼んではいないだろうとも思う。そして彼らと同様に、しかも少々拙く読解のテクニックばかりを教えている自分の毎日を反省する。
私はひそかに古典文学をなるべく自分にひきつけて読む意訳を最近続けている。学校では決して教えられない方法だが、日記やブログに書くのならいいだろう。その訳し方では決してテストで得点は取れない。大学にも合格できないが、少なくとも主体的に古典を読むというもっと大切なことはできるのではないか。いつかこのサイトにもそれを載せることができればなどと考えている。