月: 2019年11月

秋になると

 朝晩の冷え込みが強く感じられるようになりました。あの暑く長かった夏が嘘のように感じます。秋になると感傷的になるという人がいます。もののあはれは秋こそまされ。伝統的な考え方なのかもしれません。

 日照時間の減少が体内物質の変化をもたらすという意見もあります。そうなるとすべての人に共通する現象となるはずですが、どうもそうではなさそうでもあり、難しいところです。

底堅く

 効率化や省力化が社会的な風潮であることは否めません。少子高齢化が進行する中でますますこの傾向は高まります。

 いままでと同じ方法は使えないということは明らかです。場合によってはかなりやり方を変えなくてはならない。それを模索しているのが現状です。できることは機械にやらせる。できないことは切り詰めるというのは不可避なのかもしれません。

 そのような時代を生きるには基礎となる知識をしっかり身につけていることでしょう。自分の考えを相手に伝えられること、文章が理解できること、論理的思考で判断できること。形を変えた読み書き算盤が必要になっていると感じます。

 知識、知恵の底固めをすることが私たちにとって欠かせない課題であると考えます。教育の現場で何ができるかを模索していきます。

朝日の影

 朝日の影が伸びて見えることに気づきました。冬が近いことを実感します。

 職場に向かう道は東に進むために、朝日を正面に受けます。恐らく夏はすでに上った太陽の下を歩くので気にならなかったのでしょう。日の出の方向も変わったせいなのか最近はかなり眩しく目が開けていられないほどです。

 さらに前を歩く人の影が長く後方に伸びていることに気づきました。夕陽を見る時に見た風景が朝にもあったのです。当たり前ですが季節ならではの発見です。

つるべ落とし

 日没の時間がどんどん早くなっているのを感じます。この歳になっても季節ごとの日照時間に関する感覚がつかめないのはなぜでしょうか。

 午後5時になるとかなり暗くなり、町の灯りが煌々と輝きます。夏至の前後は7時を過ぎても明るいことを考えればかなり大きな違いがあるといえます。これだけの変化を私はなぜ日々実感できないである時急に気づくのか。それは私が天体の運行による自然現象に向き合って生きていないからに違いありません。

 私たちは毎日の生活を時間という人工的に作り出した物差しを基準にして過ごしています。地球の公転と自転運動に基づいた目盛りであるのは確かですが、そこにある意味を付託し、独特の感覚を見ようとするのは人為的な営みです。時計がなければ太陽の位置を基準に生活が組み立てられるはずですし、日没後は平板で底の知れない、しかし必ず終わる夜があるはずです。

 私たちはそういう感覚を忘れたために秋の日短さを感じるのではないでしょうか。

ノートの誘惑

 このブログも含めて最近はキーボードやスマートフォンのスクリーンを使って字を書くことが大半になっています。でも、定期的に手書きノートの魅力に誘われることもあります。

 私は仕事では万年筆を使うことが多いのですが、それも採点や添削など一部の業務に限られています。普通の文章を書く場合はどうしてもデジタルで行ってしまいます。書き直せることと、保存、検索が可能であるという魅力はどうしても捨てがたい。

 ただ直感的に字が書けることや、レイアウト、図などの自由性からやはり手書きの利点は大きい。いわゆるバレットノートの方法を知ってからは、日々の記録と思い付きノートは一冊にして時系列順にどんどん書きこむというスタイルにしてます。あまり整理しようと考えないことで、かえって思い付きの蓄積が保てるようになりました。何よりもパソコンで仕事をしているといろいろな業務がマルチで同時多発的に襲い掛かってきて、さらにいろいろな誘惑も一画面上で行えるため分裂的な精神状態になってしまう。紙面だと書くことに集中できるという利点があります。

 デジタルとアナログと用途によって使い分けることが大切なのは分かっています。しかし、私の場合はしばらくするとエントロピーの増大が現れ、やり方がごっちゃになり始めます。自分で決めた方針がなかなか守られない。それこそが問題なのです。時に現れる手書きノートの誘惑は、記録と思考という原点回帰を促すものとして私なり貴重なものだと勝手に考えています。

形から変えてみる

 形から変えてみることも大事です。膠着状態を破るきっかけの一つにはなります。

 現状の打破がなかなかできないときには内容よりも外見を変えてみるという手もあるのではないでしょうか。外見が変わればそれに伴う環境に多少の変化をもたらすことができます。付け焼き刃でもしばらくは効果があります。そのうちに中身が追いついてくるかもしれない。それを待てばいいのでしょう。

 長らく使った衣装を着替えることは勇気が要ります。これまで培ったイメージを捨てることになるかもしれない。それでも次の段階を目指すためには、場合によっては評価を一変させる手段が必要になるのです。

出力しやすく

 素晴らしいアイディアは天災によって偶然生まれる。確かにそうかもしれません。歴史的がそれを証明するという人もいます。ただ、それだけではないのではないでしょうか。

 何かが生み出されるとき、結局残らなかった失敗作が大量に作られています。その中でとびぬけた何かが含まれるものが画期的な作品になるのです。ということはブレークスルーを生み出すには作品を生み出しやすい環境を作り、多くの駄作を生み出す環境が必要だということになります。たくさんの失敗を許す寛容性が与えられなければ革新的な何かは生まれないのです。

 私たちができることは何か。まずは失敗を恐れずになにかを作り続けることです。もちろん素晴らしい成果を期待して作るのですが、結果的に失敗しても仕方がないと割り切れる気持ちが必要です。次に作品を作ってみようという環境をつくることです。成功しか許さないという雰囲気の中では挑戦者は減ってしまう。厳しすぎる環境下では完全に委縮してしまって何もできなくなります。また、作品そのものへの評価も大切ですが、それに至るまでの行動や方法論などへの評価もなされるべきです。結果だけがすべてではないと考える風潮も大切です。

 失敗の中から素晴らしい成功作品が生まれるためにはたくさんの出力があり、それを支える環境が必要だと考えます。

文化

 文化の日が単なる祝日になってしまっているのは文化が何であるのかが分からなくっているのに原因があります。文化という言葉自体に多義性があり、懐の深い概念であるからかもしれません。

 昨日終わったラグビーワールドカップ日本大会ではラグビーというスポーツ種目を通して文化を考えることができました。スポーツとして勝敗を決するためのテクニックやスキル、さらには戦術にもチームごとの文化のようなものがあるようです。そのチームごとに培われてきた伝統のようなものが動きのなかに反映されています。

 国別の対抗と言いながら選手は多国籍であり、同じチームの中でさまざまな背景をもった選手がいます。今年の日本代表にもニュージーランドや南アフリカ、サモア、韓国などに国籍があったり、ルーツをもっている選手がいました。文化は国境を越えて形成されることがある。グローバル文化のようなものの可能性を見ることができました。

 伝統的な地縁による文化と、現在進行中の同じ目的をもつ者が形成する新しい文化のありかたとをどのように扱っていくのかは今後の大きな問題になります。理想的には両者のいいところを取るべきだと思うのですが、そう簡単にはいかない。昨今の政治的な自国自民族優先主義の流れの中で、文化の扱いはますます深刻な問題になると感じるのです。

ビデオ授業の幻想

 教え方がうまい講師の授業を聴くと能力が上がるといわれます。果たしてそうなのでしょうか。何かおかしくないでしょうか。

 いわゆるカリスマ教師の授業をネットを通じて動画で受講するというスタイルは今日一般的になっています。ネットにつながったディスプレイのある個室を用意して各々視聴させるというスタイルの学習塾もあります。また、家庭でもみることができる授業サイトが有料無料の色々なスタイルで提供されています。

 視聴した生徒は学校の先生より分かりやすいなどという感想を持ちます。恐らく教えることに専念できる動画先生の授業の質は高いのでしょう。私もいくつかの動画を見ましたが、確かに分かりやすい。

 ただ、それが成績に結びつくのかというとそうでもなさそうです。ビデオ授業の効果が実証されているならばもっと劇的な変化が起きてもよさそうなのにそれはありません。数ある教育手段の一つの選択肢なのです。

 恐らくいかなるカリスマ教師が授業を行おうとも一方的なメッセージに過ぎないことが問題なのでしょう。そしてさらなる問題は授業空間に一人の人間しか存在しないことがあると考えます。私たちの学習意欲は集団の中で発動するのではないでしょうか。

 ビデオでいい授業をみれば学校は要らないという極論はごく一部の人だけに当てはまるのです。

英語の外部検定

 萩生田文科相の不適切発言が決め手になったのか大学入試における外部委託制度の適用が延期になりそうです。

英検やTOEFL、GTECなどの英語能力の民間検定試験を入試に組み込もうという動きは、来年度から始まる新しい入学試験の改革の目玉でした。話す、聞くといった要素の測定が従来の試験では不十分だという反省に基づいています。

 ただ、企業としての民間検定試験機関に大学入試の一端を任せるのには大きな問題があります。決して安くはない検定料の問題、試験会場が大都市にしかないというもっと大きな問題があります。試験を受けるために会場のある都市まで移動し、場合によっては宿泊して、試験料を払う。それだけの余裕がなければ成らないことになります。

 東大を始めとする多くの国立大学がこの試験に求める水準は実はそれほど高くはありません。決め手にならない外部委託試験に高い費用をかけることも大きな問題でした。英語の4技能を高めるという理想と運用に関する問題が埋められていないのです。

 身の丈に併せて進路を選べと解釈される大臣の発言は教育界ではもっともなされてはならないものです。