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速読だけではなく

 いかに速く本を読むかという能力に対する魅力は大きく、さまざまな速読術なるものが公開されている。私もかつては通勤電車の中で吊り革につかまりながら文庫本を速読する技を身につけようと試したことがある。

 確かに少し速く読めるようになったが、その分細部への考察がおろそかになり、大切な問題を読み落としている気がしてならなかった。電子書籍をスマホやリーダーで読むときも同じで身につく読書になっているのかついにわからなかった。

 私は読書ブログに読んだ本の感想を書いているが、感想を書くときも速読した本は通り一遍のことしか書けなかった。つまり速く読んだが読めてはいなかったということではないかと考えている。

 速読だけではなく、時には遅読、精読も必要だと思い、本によってはメモを取りながら立ち止まって読むことも必要だ。文庫本にいろいろ書き込みながら読んだ学生時代のような読み方をこれからは時々してみよう。

冬越しの読書

 マフラーを着けるとやはり暖かい。首は寒さを感じやすいらしく、ここを管理することがだいじなようだ。そういえば夏はここを冷やした。

 急に寒くなり、しかもしばらく低温傾向が続くという。少しずつ体調が悪く、疲労度が増えている。こういうときは心にもマフラーがいる。現実から少しだけ目を逸らして全く関係ない本を読んでみることにしている。先日は海賊の話、その前は天気予報の話、戦国時代の皇室のことを書いた本といった具合に。

 何かのためと思わずに読む本はなぜか面白い。そして、内容が理解できるのは不思議なことである。

読書案内

 全国学校図書館協議会が本年度の学校読書調査で、教員が本を推薦していないことが読書量減少の理由の一つであるとのまとめがあった。真実だとしても読書量減少の根本的な理由ではない。読書の推薦は一つのきっかけにはなるが、勧めれば読むようになるわけではない。

 読書量の減少はやはり本を読むことのメリットを実感できないことにあると考えた方がいい。本を読まなくても不利益なく過ごすことができると多くの人が信じている。だから世の中に存在するさまざまな他者の見解を知ることへの関心が失われ、結果としてさらに本を読まなくなるのだ。これでは強制的に読めと言われても心が動かない。

 本を読むことの実利、楽しさを知っておいた方がいい。それは教師とか家族とかが強制的に提示しなくても進んで読書をする生活習慣をつくることによって達成される。これは学校だけではなく、家庭でもしくは地域で読書の意味を様々な言葉で訴えるしかない。読書不足は誰かのせいではなく、社会の在り方そのものが関係している。

美しき日本

 ラフカディオ・ハーンの「日本の面影」に彼が赴任した島根の師範学校の様子が描かれている。学生の規律と勤勉さが賞賛されているのだが、現代の師範学校と言える大学の教育学部の学生との差はかなり激しい。

 ハーンの見た師範学校の学生は軍隊的な規律で統一されていたという。学費と一年の兵役を免除されていた学生たちは、それと引き換えに極めて自己抑制的、集団主義的な立ち居振る舞いを心がけていたようだ。ハーンはそれを美意識で捉えているが、現代の日本人からすればかなり窮屈で偏向した価値観に映る。教員となるものがかような一元的価値観で生活して良いものなのかと考えてしまうところである。

 ハーンはしばしば欧米との比較を行い、日本文化の独自性と優位性を論う。どちらが優れているのかという判断は個人的なものであるからそれ以上言うことはない。ただ、ハーンの見た日本のありようは晩年に精神的な理想郷を見ようとした心の作用の影響にあることは間違いない。

 ハーンにとっての島根時代がいかに豊かで素晴らしいものであったのかを、この「日本の面影」は伝えてくれる。ここに描かれた美しい生活は今の日本にあるのだろうか。

短期記憶

 短期記憶は読書の際にも大切だ。筋を追って読んでいく際に、ワーキングメモリーはフル活用される。歳をとるとそれが衰えている気がして残念だ。こればかりは諦めずに食い下がるしかない。メモを取りながら読むことが多くなったのはそのためなのかも知れない。

読解力を身につける方法

 文部科学省が今年4月に実施した2024年度の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の結果を公表した。中学校の国語の平均正答率が過去最低の成績になったという。数値にどれほどの意味があるのかは疑問がある。テストの正答率とか偏差値を教育関係者は使いたがるが、数学的な意味は果たしてあるのだろうか。テストの内容も母集団も違うものを比べても参考程度にしかならないと思っている。数学に詳しい方にはご教示いただきたい。

 最低かどうかは分からないが、読解力の低下は経験的に気になることがあることは確かだ。その原因が読書量の低下や、デジタルデバイスの長すぎる使用時間、短時間で答えを求めすぎるテストの増加などにより、子どもたちがしっかりと読み取ることをしなくなったことにあるのではないか。これも科学的な根拠があるわけではないが、可能性が高い仮説であるとは考える。

 読解力を身につけるためにはどうすればいいのか。一般的に読書をすればいいといわれるが、そもそも読解力のない人は読書をしない。日頃走ることがない人に速く走るためにはとにかく走れというのと同じような気がする。まず柔軟体操をし、ジョギングをして徐々に体を作っていく。そういうランニングと同じように読解力を身につけるためにはどうすればいいのか。

 私はまず読む前に語彙力を増やすことが必要だと考える。いわゆる書き言葉(文章言葉)で用いられる言葉は、意識的に読まなくては身につかない。新聞のコラムや、軽めの文化的な記事などを読むことで文章言葉を身につけることをしていくのがいいと考える。短い文章で行うべきだ。

 次に、それらの記事の内容を文章言葉で簡単にまとめる練習をしていく。要約というとハードルが高いが、そこまでまとめなくてもいいのでどんな内容なのかを書くといい。これによって文章の大意を掴む方法を身につけていくといい。メモ帳などに数行でまとめると達成感も生まれる。

 次は、これは誰でもできるとは限らないが、読んだ内容を他人に話すことにあると考える。読んだ内容を他人に伝えることで内容の整理ができる。他の人の話を聞けば自分が気付かなかった内容を知ることもできる。読解力は最終的には他人の考えを読み取ることにあるのだから、一人で完結する学習法よりは複数で行った方がいい。これは学校教育が最も効果的に行える段階だ。

 次は、自分で読んだ内容を記録していくことだろう。書評までいかなくてもいい。簡単な読書感想文で構わない。それをとにかくためていくのがいい。インターネットの読書記録サイトも有益だ。私の場合はブクログという読書記録サイトを使用しているが、こういうサービスを利用して読書をする励みにすることは大切だろう。

 入試の現代文のテストは読書量がなくても高得点を取る人がいる。いわゆるテストの答え方にはコツがあり、博学な知識は必ずしも必要ではない。出題形式も型があるので、それらを覚えていけばある程度通用する。このようなテストで点を取ることを読解力と考えるのならば、入試参考書を繰り返し学ぶ方がいいだろう。私としてはあまりお勧めしないが。

 読解力の低下は個人の読書経験の減少という問題が大きいが、そもそも読書にさほどの価値を見出さなくなった現今の風潮も大きく影響を与えていると考えられる。検索によって断片的な知識を得られればよいとか、生成AIが導く答えで満足しているとますます読解力を得る機会は減っていかざるを得ないだろう。残念ながら世の中の動きは人の読解力を奪う方に流れている。だからせめて初等中等教育では読解力の基礎を固めることに注力していくべきだと考えるのだ。

比喩で描く現実

 古本屋でたまたま手にしたイタリアの作家、ジャンニ・ロダーリの小説『猫とともに去りぬ』を読んでいる。掌編小説集だ。

 ストーリーは荒唐無稽なもので、ファンタジーというジャンルになるのだろうが、そこに強いアイロニーが込められているのが面白い。たとえばフィレンツェが水没しかけているので、魚になることを選択した家族は、海に入って無事に魚になるのだが、魚体のまま人間とのかかわりを続けていこうとする。そしてある時、海底に大量に遺棄された未解決案件の文書を発見し、それを取り除くと海底にある栓が抜けて無事に海水面が下がったという。そんなような話だ。

 社会の現実を描こうとするとき、詳細に描きとろうとするとディテールの煩雑さに本質を見失うことがある。このような小説の手法をとると、伝えられることは限定されるものの、本質は伝えられるといえる。小説の持つ力のようなものを感じている。

心内語の能力

 心の中で思うことを言葉にするのが心内語である。この能力は当たり前に備わっているもののように思えるがそうではあるまい。例えば本を声を出さず読む黙読という読み方が我が国に定着したのは明治時代の後半であるという。江戸時代から貸本などの個人的読書の機会があったのにも関わらず、黙って読むことはできなかったようだ。

 黙読するためには読んだ言葉を自分の言葉に変えて、それを解釈しなくてはならない。かなり高次元の脳内活動がなされていることになる。語彙力や文法に関する知識などは別に獲得しておく必要がある。だから、予想以上に高度な技能である。

 発達障害で黙読ができない人もいる。難読症といわれる人は一定数おり、彼らの知的レベルは必ずしも低くはない。ただ、文字を見るだけでは理解ができないので音読が不可欠になる。

 心内語の未発達は独り言の多さにも表れる。独り言をいうのは誰にでもあることだが、度を過ごしている場合は何らかの障害が疑われる。よく電車に乗っているとやたらに独り言を言う人がいる。恐らくその人にとっては自然に過ごしているはずだ。独り言を話している意識もない可能性が高い。周りにいる人はその人の心の中の声が聞こえてしまっているのだ。

 心の中で言葉をもつことは実はかなり高度な行為なのだった。それは後天的に習得しなくてはならないものなのかもしれない。その力は小学校や中等教育で身につく。この時期に黙読力を身に付けなくては生涯の損失になる。読書を阻害するデジタルデバイスはその意味でもほどほどにしなくてはならない。

速読と熟読

 普段の読書を通して速読と熟読は意識して行うべきだと思う。それが間違っていると本を読むこと自体が面白くなくなる。

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 速読というのは別に必要以上に速く読むということではない。かつてパラパラとページを送るだけで内容を理解できるというような本が売れたが、これは少なくとも私のような一般人には無理だ。そうでははくて、多少分からないことがあっても大筋をつかむように読むということである。

 説明的な文章には常套的な構造があり、多くの場合は問題提起、分析、結論という順になっている。だから、最初と最後に注目すればある程度の内容はつかめるのだ。この方法に従ってざっと通読してしまうというのが、ここでいう速読だ。小説の場合はそれほど単純ではないが、場面の変わり目に注目して読むと同じようなことはできる。ただ、創作的な文章の場合、速読は勧めない。

 熟読は分からない言葉に出会ったら、それにこだわりながら読む方法である。たいていの場合、抽象的な表現のあとに「つまり」などの言葉で説明が入るが、中には読者へのサービスがよくないものもある。その場合は辞書も引きながら読むという方法である。そして、メモを取りながら読むこともする。

 速読と熟読は目的が異なる。楽しみながら知識を増やしたり、引き出しの数を増やしたりするのなら速読がよい。一方で読書を通してその内容を習得する場合は時間をかけて読むべきだ。本が嫌いな人はこの方法を間違っていることが多い。概要をつかむ読み方と内容を理解するのとでは違うと考えた方がいい。

戦争の残すもの

 「戦争は女の顔をしていない」というドキュメンタリー作品を読んでいる。第二次世界大戦においてナチスドイツと戦ったソ連の女性たちの戦争体験を聞き書きしたものである。かなり大部であるが、惹きつけるものが大きすぎて非常に印象的だ。

 ソ連軍には多数の女性兵士やその支援部隊がいた。あまりにも多くの犠牲者がでたソ連軍は女性の動員もせざるを得なかったのだ。ただ、この作品を読む限りかなりの女性は自ら志願して戦地に赴き、中には最前線で戦ったという人もいる。多くは死に、生き残った人たちもその心身が傷ついた。悲惨さは文章からは完全にわからないはずだが、それでも心に迫るものがある。

 女性たちを戦地に向かわせたのは家族を殺された憎しみもあるが、当時の指導者の国民の洗脳も大きい。国家のために戦うことを子供の頃から教えられ続ければ、兵士になるのは当たり前だ。このあたり我が国の歴史に共通するものがある。

 生き残った女性たちの証言は様々でそれが戦争の悲劇を多方面から証すのである。男以上に戦果を上げた兵、同僚の命を何人も救いながらも、同時に多くの死を看取った衛生兵、敵に辱めを受けても屈しなかったパルチザンもいれば、敵兵を憎みながらも怪我の治療をした人もいた。

 戦争はさまざまな悲劇を同時多発的に発生させ、憎しみの連鎖を巻き起こす。敵国だけではなく同胞の仲間からも排除されることもある。だから、やはり戦争は避けなくてはならないのだ。

 この作品の当事国であるロシアがいまも戦争をしていることは大きな皮肉というしかない。現在も多くの悲劇を生産し続けている国があることを傍観するしかないのだろうか。