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命名

 最近の命名は男女ともに2音節か3音節らしい。私の世代では女性は3音節、男性は4音節が多数派だった。日本人の名前は短くなっている。

親がつける名前について本人は拒むことが出来ない。いわゆるキラキラネームが人生の行く末に影響を及ぼしたとしても、本人はそれを克服するしかない。名前は所詮記号の一種であり、という一見正論に見える論理を展開してやり過ごすしかない。

でも、名前のもたらす影響は意外に深いのかもしれない。つよしと名付けられれば、心身根性のなにかは分からないが強靭であらねばならないと考えるのだろう。実態はどうであれ、心がけとして、強くありたいという気持ちが内包される。

最近の名前は意味よりも音声の方に興味関心があるようだ。漢字を取り合わせて外来語を表現するのはユニークだが、無理があるものもある。譲治や賢人はそれだけで英語のようだが、舞久や実希を男子の名として使うのは抵抗がある。日本語は外来語に寛容な言語であるから、人命に関してもさまざまな可能性があるのだ。

江戸時代の人の名前を奇妙に感じるように、未来の日本語話者は21世紀の人の名前をクラシックとして感じることになるのだろう。彼らはどんな名前になっているのかと想像すると少し楽しい。

死という言葉の意味

 タレントがソーシャルメディアで不用意に使った死という言葉が話題になっている。他人に死を促すこと、しかも公然とそれを発言することにどんな意味があるのかを再考させられる。

 言霊を信じていた時代、死ねということは一種の呪いであった。和歌を読むと死ぬほど愛しているといった恋愛の表現はあるが、本当の人の死は婉曲的に表現されている。それほど気を使う言葉だった。

 それがいま、人に平気で死ねという人がいる。それだけ言葉の価値が暴落してしまったということなのだろう。誰かに死ねということは、自分の存在が社会に不適合の状態にあることを漏らすようなものだ。そう言わなければいかんともしがたい現実が立ちはだかっているのだ。

 死という言葉の意味を考え直したい。身近に亡くなつた人が増え、さらに自分自身もその候補にカウントされる年齢になると、死という言葉の重みはかなり変わって感じられるのである。

言葉の力

 パリオリンピックで体操男子団体で金メダルを獲った日本チームを支えた萱和磨主将の鼓舞の言葉が大きく報じられている。日本のエースの橋本大輝選手が鞍馬種目で失敗したとき、すかさず駆け寄り「絶対あきらめるな」と何度も鼓舞すると、橋本選手や他の選手も一層の団結を固め、勝利に向かう強い気持ちを高めることができていた。

 ほとんど実力差がない中国のチームとの勝敗を分けるのはミスをしないこと。しかし、そのためには強い気持ちでいかなくてはならない。その気持ちを言葉によって支えたのが主将をはじめとした選手同士の声の掛け合いであった。中継にもその一部が収録されており、こういう状況での言葉の力というものを再確認した。

「あきらめない」という言葉にどこか素直になれない昨今の風潮の中で、今回のエピソードは大きなメッセージとなった。懸命に努力することを軽視しない姿勢は多くの人に感銘を与えたに相違ない。それを支えた鼓舞の言葉を覚えておきたい。


同姓同名

 ネットで自分の名前を検索すると同姓同名が結構居ることが分かる。なかには漢字のあて方まで同じである人もいる。写真を公開している人は少ないが、その例を見る限り名前ほどには風貌は似ないようだ。

 同姓同名であってもそれぞれの人生がある。もしかしたら誕生日も一致することもあるかもしれない。でも、別の生活があり、別の人生がある。誕生日や字画の占いですべてを判断できないのはこうした例からも明らかだ。

 ならば単なる名前の一致は意味のないことなのか。そうも思えない。同じ名前で呼ばれて生きることで何らかの共通性は生じるのでは無いか。一度同じ名前の人と話してみたい。

少ない言葉で

 先に人工知能による画像生成システムの話を書いた。画像を作成するための指定が短いフレーズでできていることは驚きだった。そして、この考え方は実は人間の認知の方法そのものであると気づいたのだ。

 複雑で多彩な絵を完成させるためには多くの指定が必要だ。つまり多くの語意があることで満足できる絵が描けるようになるということだった。ただし、文学にはそれに逆行する考えもある。短歌や俳句などでは使う言葉を限定することで成り立つ短詩形文学だ。先の絵画作成アプリに例えるならば、指定できる言葉の数が限定されている。その中で何らかの絵を描く必要があるということだ。

 思い通りの詳細は描けない。ならば、最低限必要な輪郭なり、色彩なりを提示することで世界を描くしかない。限られた上限で何ができるのかを追求するのが短詩形の特徴であり、それゆえに生まれる効果が短歌らしさ俳句らしさを生み出している。描くのに多くの筆を使わず、色彩も限定する。この美学は顧みるべきだろう。

 少ない言葉で表現される短詩形文学ではあるが、その世界をつかみ取るまでは過去の経験や豊富な語彙が必要になる。多彩な材料の中から枠組みに合うものだけを厳選するというのがその本質なのだろう。

ワンチャン

You have a chance.

 最近、気になってきた流行語にワンチャンがある。One chance からきた和製英語らしい。元々麻雀愛好者が使っていたらしい。麻雀に無縁と思われる人も使っているから流行語なのだろう。

 機会さえあれば形勢を逆転できると言う意味がもとらしい。一発逆転と言うことだ。雀士が一発逆転を使わないのは役名に似たものがあるからだろう。ワンチャンはそのぶっきらぼうな表現からして背水の陣をひくものにふさわしい。

 ワンチャンが流行語になる原因を考えるに、昨今の状況が極めて厳しいという前提があるのではないか。ただ、そのなかにわずかな可能性を考えるときこの言葉の出番がある。諦めていないのは救いだ。無努力無根拠にチャンスを言っている向きもあるので少々心配になるが。

 閉塞的状況の把握とその打壊願望がワンチャンにあるという深読みをしてみた。若者たちがノーチャンと言い出さない社会をつくることがロウトルのやるべきことだ。

心を描く

 心情は形のないものであり、それをどのように表現するのかは芸術家の力量に関わる問題である。

 絵画において人の感情は描かれる人物の表情や所作で表現される。歓喜も苦悩も描かれた人の姿に投影される。さらに人を描かなくても心情描写はなされる風景や静物の描写でも心理は描かれる。

 さらに、色彩や線の形状だけでも感情が分かることもある。こうなると根本的な脳の機能に訴えるものなのだろう。

 小説や詩歌などでも同じことがいえる。言葉の方が伝える幅は広いかもしれない。しかし、形なきものを描く難しさは変わらない。心の描写は永遠のテーマだといえる。

他山の石

 汚職事件容疑で議員辞職した元党員に対して、党の要職にある人物が「他山の石としたい」という旨の発言をしたことが話題になっている。他山とは何事か、事件が起きたとき、辞職した議員は党員であり決して他の山ではない。あまりに無責任だと言うのだ。

 私もこのニュースをラジオで聞いたとき、件のコメントを聞いた瞬間に違和感を覚えた。しかし、すぐに次の理解に変わった。この方は反省する気はないのだと。事件当事者と自分たちは無関係ない。ただ、一応気をつけておきたい、という意味だと。

 私と同じように考えた人は多いのではないか。野党の誰かが同じ発言をしたとしても印象は変わらない。私たちは政治家をひと括りに考えているからだ。不用意に成句を使うと返り討ちに合う。今回の「他山の石」が他山の石となることは確かだ。

 ところでこの故事成語は詩経という古典の中の古典に典拠があるらしい。紀元前の文献で解釈が難しいものも多い。厳密に言えば作者の意図ははかり難い。わかるのはどのように解釈されてきたかという歴史である。

 ネット検索すると他山の石を他人を模範にせよという意味で使う人もいるらしい。原典の文脈ではこの石は宝石を磨く砥石のような存在であり、範たる存在の比喩ではなさそうだ。他人の悪行や失敗でも自己研鑽の契機にはなるというのが一般的な用法だ。

 なんでも検索し参考にする(私もしたばかりだ)現在では他者の言動の善し悪しなど考えないという価値観の変化が現れているのだろうか。

 

言葉に換える

 私が恐らく毎日苦労しているのは、今考えていることを日本語という言葉に落とし込むことなのだと感じる。いろいろなことが頭をよぎるがすぐに消えてしまう。それをどう表現するのか。他人にどのように共感してもらうのかを毎日試しているのだろう。

 脳内をめぐる刺激のようなものがやがて感情を形成するのならば、その仲立ちをするのは言葉である。言葉がなければ感覚は記憶できないし、刺激の類型のどれかとしてその都度感じるに過ぎない。それが例えば「暑い」という言葉によって、同様の刺激をひとまとめとして把握できるようになる。それらが組み合わさって単語になり、一定のルールのもとで文になる。それを組み立てて文章ができる。もちろん筆記されることはさらにその先の営みである。

 なんとなく感じている思いが言葉になるまでの何とも言えないむずむずとした感覚は、沸き起こってはすぐに消えてしまう。言葉として記憶しなければ刺激をとどめることができないのだ。私が文章を書いたり、詩歌を残そうとしたりするのはそれを何とか形にしたいと思うあがきなのだろう。それは人間という言語を獲得した生物の宿命でもある。