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俳句の精神

 俳句はかなり前から続けているが、上手くなろうなどと考えていないから、全く上手くならない。駄作の連続だ。それでもいいと今でも考えている。

 景を以って情を映すのが俳句だと心得ている。切り取った風景を表す言葉にすべてを託す。言葉足らずでも、読者の想像力に任せて作品を投げ出す。それがこの文芸の根本である。

 この歳になって細かな細工ができなくなるとかえって俳句は都合がいい。文学としての俳句はもちろん、様々な点において俳句的発想や、行動が今の状況には適している気がする。

思っています

 最近少し気になっているのが「思っています」という表現の拡張である。この言葉自体には新規性はなく、むしろありふれている。自分がある考えを継続的に持ち続けているということで、「と思う」に比べてある種の立場なり主張を言うときに使われる。

 気になっているのは「(私は)〜と思っているので」のように話の前提として思っている現状を提示する用法である。私の日頃の思考形式はこうなのでということであろう。つまり自分の立場を相手に先に伝えて、自分の主張を理解してほしいという先回りの手段だ。実際の文脈で聞く限り、私はかくかくしかじかの立ち位置にいるから、これから私の言うことはそのつもりでお聞きいただきたいということが言いたいらしい。

 この用法は用語としても文法としても間違いではない。私が覚える違和感は「思い」の表明が相手への説得の前提になっていることにあるのかもしれない。私の立場はあなたとは違うかもしれない。でも、私はこのように「思っている」のでそこは譲れない。どうかこのことはお察しいただきたい。そういう手続きが感じられるのだ。

 説得の戦略としては一応成立している。ただ、相手は当然自分の立場を理解してくれるという楽天的な前提があることは確かだ。これは日本人の日常の会話形式と親和性が高い。ただかつてはこういうことは言葉には出さず、当然の前提として話が展開することが多かった。そのためうっかりすると相手の真意を掴みかねることもあるのが日本型コミュニケーションの難点であったといえる。その意味では「私は〜と思っていますので」という表現はその常識が共通概念であるのかの確認であるということもできる。

 少し前に「それはあなたの感想でしょう」という自己撞着した相手への批判があった。これはそのまま発言者に跳ね返せる。感想ではない発言がどこにあるのかといいたい。でも、言われた当座はかなりインパクトが強く、なるべくならそう言われたり思われたりはしたくない。おそらく先入観とか誤解というのを朧化しているのだろう。この「と思っている」はこのような批判への防御線として頻用されているのかもしれない。

メリハリ

 感情の高ぶりを大声で示すことは分かりやすい。自然な感じがする。でもよく考えると実際はそうとも限らない。本当に感動したときには声が出ないこともある。

 舞台で大きな感動を表現するのでも絶叫だけが手段ではない。むしろ声や音響、照明の効果を使わなくても感動を表すことはできるはずだ。ただ、それには演技力がいる。立姿だけで感動を表すことは容易ではない。

 絶叫は何度か繰り返されると見る方に用意ができてしまう。不意打ちと変化こそが効果的なのだ。そのためには構成にメリハリをもたせることが不可欠だ。

間を置くこと

 演劇の世界では台詞をいかに観客に届けるのかということに拘る。一つには声量を大きくして、滑舌よく話すこと。これが最低条件だ。ただそれだけではない。あえて何も発しないことも大切な表現手段とされている。

 何かを伝えるときに一本調子だと聞き手は次第に刺激を失う。熱心な聞き手ならそれで構わないが、多くの場合、聞き手は気まぐれでわがままだ。彼らの耳目を集めるには工夫がいる。その方法としてマイナスのメッセージがある。つまり何も発しないことによって注目させるという手法だ。

 これはうまくやらないと失敗する。情報を発しないのは空白を作ることだ。それに耐えるのは発信者にとっては忍耐がいる。間を置くと一言ではいうがさほど簡単ではない。一度コツを覚えるとこれが効果的な情報伝達法であることを知る。若者にはこの経験を持たせたい。

 そのためには演劇を体験させることが必要なのかもしれない。学校で演劇をさせることは以前からその意義が語られている。それなりの指導ができる教育者もいる。

難読漢字

 ネットのニュースサイトの読み物記事に難読漢字の読み方というのがある。外来語や外国の地名に対するあて漢字はそれとして、「質す」「亘る」「覆う」「躓く」「跪く」などの訓読みはクイズとしては難問に入るようだ。

 中にはほとんど使わない当て字の問題もあるが、かつての日本人であればほとんどが読めたはずの文字が現代では難読になっている。それにはかつての活字文化ではルビ(読み仮名)つきでこれらの語が印刷されていたため、知らないうちに読みを覚えてしまうということがあったのだ。デジタル表記でもルビを打つことはできるが、それほど一般的ではない。

 もう一つの理由が漢文の素養の低下なのだろう。漢文は高校時代に学習し、大学入試で読む以外には接することがなくなりつつある。中国の古典に対する知識も庶民レベルで低下している。「三国志」や「水滸伝」などに接していれば、漢字文化への親和性は保たれていた。

 漢字は同音異義語が多い日本語にとって、意味のニュアンスをかき分けるツールになる。知っておいて損はない。ただ、スクリーンに文字を読み書きする毎日のなかでは習得できる機会は減っている。

詩を作る余裕

 下手くそなを書いている。最近一向に詩が書けない。創作をするためには時間と余裕が必要だ。時間はあればいいというものではなく、精神の解放ができる時間の塊が必要なのだ。

 それが今はない。空いた時間はぼうっとして浪費してしまう。恐らく問題はフィジカルな局面にある。体力的な余裕がないと心を飛ばすことができない。

 言い訳と言われれば反論はできない。逆境の中で創作を続けた文人たちに敬意を禁じえない。

把握

 若い世代がよく使う「把握お願いします」は何かおかしい。把握はこの場合、理解するということなのだろうか。

 資料をいくつか示されたあとでこの把握をお願いされた。これは理解しておけということなのだろう。ご承知おきくださいではなぜだめなのだろう。承知に上下関係を感じるのだろうか。知っておくことを超えた把握を求められているようだ。

 把握の意味が異なるのかもしれない。いろいろ言いたいことはあってもとにかく一掴みで飲み込んでくれというニュアンスがあるのだろうか。ならば新しい表現だ。承知置くにも十分な威圧感はあるが、それより大きいのかもしれない。

ショートショートの手触り

 掌編小説には言葉足らずを楽しむという読み方がある。短い作品なので細かな設定は書き込まれないことが多い。作品世界にとって必要な情報だけが述べられ、あとは読者の想像に任される。それが小説の魅力であり、味わいである。

 もちろん作品として完結している中長編小説の方が味わいが深い。いわゆる短編小説もまた魅力的だ。ショートショートは不完全なだけに破綻も起きやすいが、そのほころびのようなものを楽しむことができる。

 短歌のようには手軽には作れないがでもまず小説を書くのならばここからと思わせる。でも意外と難しいのは、俳句が始めると奥深いのと似ている。

ある枠組みの中で

 様々な人間の生き方を共通するある枠組みの中でとらえるという手法は文学などの創作の世界では常套的だ。たとえば同じホテルに宿泊した人たちの人間模様を描くグランド・ホテル形式はいろいろな作品にみられる。この変形としては建物や乗り物ではなく、特定の地点の話としたり、特定の祝祭や行事を枠とするものがある。

 この方式で描く群像劇はそれぞれの人の違いの書き分けが肝要だ。同じ場所にいても個人の属性やおかれた立場が異なれば行わることは大きく変わっていく。年齢、性別、職業、直前に起きた出来事、人間関係など、それらのどれか、または複数が変われば大きく結果が変わっていくことになる。

 私たちはこういった作品を見たときに、いかに人生は多様なものであるのかを知り、そこに感動のポイントを見出す。個々人に別の今日があることは当たり前なのだが、日常生活の中ではそれを意識できない。むしろ自分と同じような毎日を過ごしている人が大半なのではないかとなんとなく考えている。そう考えることで安心もする。自分が自分だけの生き方をしているという自覚は時に大変な緊張をもたらすものだ。

 枠組みを決めて世界をみることで見えなくなるものがたくさん増える。その一方、見えてくるものも生じる。気づかなかった要素が浮き上がってくるのだ。

分かりにくい説明

 何かを説明するときにどうしても自分本位になる。自分が言いたいことをいうのだから当たり前なのだが、それが相手にとって分かりやすいのかという点に関しては検討しなくてはならない。自分にとって分かりやすい説明が、必ずしも他者にもそうなのかは分からないのだ。

 筋道を立てて説明すればいいという人いる。たしか論理性は必要である。話術もあった方がいいに決まっている。ただ、こうしたテクニックだけでは説明の分かりやすさは生まれない。おそらく根本に触れていないからだろう。

 説明の有効性を高めるのは相手の視点なり立場なりを想像し、それに沿って話すことにある。どんなに立派な説明でもこの線を外れていれば十分に機能しない。相手のことを知るためには準備がいる。聞き手の立場で説明を組み立てるのは当然であるが、意外に忘れられていることがある。中には相手の理解度が低いなどと嘆くこともある。それは実は出発点を誤っている自分のミスであるということを認めなくてはなるまい。