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送り火は再生の儀式なのかもしれない

 かなり前に京都で五山送り火を見た。前日に銀閣寺の裏手の山を登ると、送り火のための準備が進んでいたことを思い出す。16日の夜、ビルの屋上から見たいくつかの送り火は厳かで印象に残った。

 送り火はこの世に訪れた祖霊を冥界に送り返すためにともされるらしい。大文字のような大規模なものではなくても、かつては軒先で焚火する光景を見かけた。

 学生時代、先祖祭りの行事をいくつか見たが、その多くに祭りの終了を印象づける所作があった。片付けることも含めて祭祀になっているのだ。祖霊には期間が終われば確実にお帰りいただかなくてはならない。送り火もそのためのものなのだろう。

 祖霊を返し、再び褻の時間に戻ることは新たな日常の再開を意味する。祖霊祭りは、実はこの世に残された者たちの再生のための手段なのかもしれない。

七夕の願い

 新暦の七夕である。梅雨の只中で天の川の邂逅は目撃できないはずだが、今年は異常気象もあつて可能かもしれない。日本ではこの日、短冊をつけた笹を飾る。その短冊に願い事を書くのが習慣になっている。

 日本の七夕行事は恐らく根が深い別系統の棚機つ女伝説や、本来夏越の祓に関係する禊や祓えの行事が集約されているものと思われる。短冊に願いを書くことは江戸時代以降らしい。

 願い事は元来、文字の上達など、学業や芸事の向上が願われていたらしい。だから、金持ちになれますようにとか、推しの誰々に会えるようにとかたのまれたとしても天帝は処理に困るだけだ。

 私は「いつまでも自分の頭で考えられますように」という願いを見えない短冊に書いて飾ることにする。もちろん認知症が発症することを少しでも遅らせたいということもある。それよりも何でも機械任せにして考えなくなっていることへの自戒を込めてこの願い事を掲げよう。

 叶えてくれるだろうか。

春土用

 立夏の18日前からを春土用というらしい。土用というと夏のものばかりを思い浮かべるが、実は四季の全てにある。

 今年の立夏は5月6日なので春土用が始まったことになる。土用は陰陽五行説の土のエネルギーを獲得する期間とした雑節の一つであり、何らかの食べ物の摂取を推奨する。春の土用は戌の日に「い」から始まる食べ物か白いものを食すののが吉とされるらしい。

 迷信と言われればそれまでだが、身近なもので元気になれるのならばのってみてもいい。

人形

 新暦ながら今日は上巳の宴の節日です。本来は禊の日であったとも言われる古代からの晴の日です。

 この祭事の中心的な役割を果たすのが雛人形です。かつては豪華な雛飾りを置く家庭もあったのですが、最近は減少傾向にあります。豪華な雛飾りは代々受け継がれる財産であったのですが、本来人形は人の罪や穢をかわりに受けて、遠くに流しさる形代としての役割がありました。雛流しの民俗がある地域も存在するようです。

 現在、蔓延しているウイルス禍もできれば人形に持ち去ってほしい。持ち去るのはウイルスだけではなく、恐怖心やその前に常軌を逸してしまう弱い心も加えてほしいなどと考えるのです。

国別対抗

 オリンピックが国別対抗になっていることには歴史があります。古代オリンピックの時代は休戦期間でもあったといいます。ただ、少なくとも先進国にとってはもう国という縛りは要らないのではないでしょうか。

 選手が国のために戦うのは確かに大きなモチベーションです。巨額の支援を受けている選手にとってはいわばスポンサーでもある訳ですから、不可欠であるともいえます。それを踏まえた上で、やはり国家別の競技は減らしてもいいのではないか。少なくとも表彰式で個人競技なのに国歌で表彰することは止めてもいいのではないかないでしょうか。

 団体競技は複数国籍の選手がいてもいいのではないかとも考えています。スポーツの祭典であるオリンピックが変われば他の大会にも大きな影響を与えることができる。国ではなく人が競い、応援する大会にいつの日かなってほしいのです。

イブ

 クリスマスイブです。キリスト教徒でもない人がこの行事に右往左往するのはおかしいなどという人はほとんどいません。八百万の神々を容認する我が国においてはさまざまな点で寛容です。

 クリスマスが冬至の祭祀と何らかの関連があったことは容易に想像できます。太陽のエネルギーの復活を祈る祭りは、神の誕生と結びつくのは明白です。続日本紀にも冬至の祭を行った記録があります。東アジアにもこの辺りの日を特別に考えていたことが伺えます。

 かつて冬は過酷な季節だったはずです。その中での切実な願いが発露される祭祀だったはずです。今日のように大量消費の日になったことを古人はどのように思うのでしょうか。

カボチャたちの素顔

 ハロウィーンは日本ではその意味も理解されることなく、商業利用や個人的な遊興として受容されています。ただその奥には切なる願いがあるのかもしれません。

 仮装を行う年中行事は京都の節分お化けが知られています。地域では悪鬼の厄を逃れるために敢えて普段とは異なる姿になると伝えているようです。祭の時に晴れの衣装を着用し日常とは異なる振る舞いをするのも広く考えれば一種の仮装行事といえます。異装には厄除けの意味があるといえます。

 現代人にとってはさらに意味があるように感じます。いわゆる変身願望の代償行為です。自由平等の建前の現代社会の内実には格差と分断が進行しています。越えられない何かが巧妙に姿を隠しながら確かに私たちに影響を与えている。それに抵抗するのが外見上の意図的変更なのではないでしょうか。

 もちろんハレの日は常に祭とともに去ってしまう。翌日には厳然たるケの日の秩序が現れます。その中を生きぬくためのささやかな抵抗が仮装という形で表現されるのです。この仮説が正しいならばおどけたカボチャたちの内側には切実な思いがあることになります。