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風景の中に感じ取るもの

 風景の中に人情を感じ取ることは詩人だけの特権ではない。誰でもそれはできるのであって、心の中にしみじみと広がる感慨を覚えるのである。ただ詩人と違ってそれを言葉にできないため、感覚はたちまちのうちに移ろい保存することができない。優れた詩歌に接するとその時浮かんだ瞬間の感覚を再現してくれる。だから感動を覚えることがあるのだろう。

 自然をどのように描くのかは積年の伝統があり、それに則ればある程度は達成できる。しかし、いつでも同じ表現では新鮮味に欠けるだけではなく、その時のほかとは交換不可能な心情を表現することができない。だから詩人は新しい表現に挑戦する。あまりにも的から離れたものであると理解ができないので、この挑戦は必ずしもいつも成功はしない。それが詩作というものなのだろう。

 風景画も同じように見ることができる。ただ光学的に変換して風景を切り取っているだけではない。そこに明らかに画家の解釈が介入し、その中にはしばしば風景にまつわる人生が隠されている。自然を描きながら、実は描いているのは画家自身の心理であり、周囲の人々との交流の中から生まれた心の在り方なのだろう。

 私たちの日常は分かりやすく効率的にという暗黙のルールに支配されている。だから考えなくては何を表現しているのかわからないのは悪例となってしまう。しかし、場合によってはそのような悪を侵さなくては世界をつかむことができなくなってしまうのだろう。その試みに触れることが芸術を見るということだと考えている。難解な作品に出合うたびに、その真意を考えてみる。理解には届かなくても少なくとも考える時間を持つこと。それが貴重な体験となる。

 風景の中に何を読み取るのか。それも私たちが長年行ってきた芸術鑑賞の方法である。田園風景の中に隠れた孤独、都市の景観に隠された狂気、広大な山水、怒涛に何を感じるのか。まずは自分がそれを意識することが大切だ。言葉にできなくても、絵に描けなくてもまずは読み取ることをしてみようと思う。

小さな感動

 私は昔からいろいろな言い訳をしてきた。だからこれもその一つである。ただ、これから私の年齢に達する人たちには聞いていただきたい。老いの繰り言と聞き流していただければそれでいい。

 恥ずかしながら、いま私は小説や脚本を書こうと思っている。しかし、これがなかなか進まない。その原因の一つが感動できないことにある。感性の鈍化と言うのが近いのかもしれない。

 詰まらないことに感動することは若者の特権だ。ただそれがつまらないなどと誰が決めたのだろう。それこそが老いのもたらす弊害だ。感動することはいくらでもあるのに、それを予め過去の経験と照合して類型化してしまう。その結果、目の前にある出来事をそのまま受け取ることなく様々な測定値のもとに数値化してしまうのだ。

 創作にとって必要なのは小さな感動の積み重ねだと私は思う。それがあるからこそいままでにない世界が創れる。それを過去の経験にいちいち照らし合わせてマッピングするのは世の中には測定できないものはないといっているのと近い。

 私が感動できるものの範囲は年々狭まっている気がしてならない。恐らくいまの安定的な境遇が崩されるときがいい機会だと思っている。思春期ならぬ思秋期もしくは思冬期は創作の機会としては意味がある。小さな感動を敢えて過去の出来事と結びつけない。それでいろいろな創作ができそうだ。

AIの描く絵

 WordPressのサイトでブログを書いているのだが、ここにも様々なAIのテクノロジーが使われるようになっている。これまでに内容の要約を作成するのに使ってきているが、今回は画像の生成をやってみた。上の絵を作るのに使ったプロンプトはMay,Sky,Treeの3語であった。

 確かに5月の青い空と、新緑が見える樹木がこの指示を具現化しているともいえる。と同時にどこか絵本のような、現実離れした絵でもある。天空の二つの球体が何を意味するのかも謎がある。逆にそこから何らかのストーリーを考え意味付けしたくなるほどだ。

 どうしてこのような絵が描かれるのかは分からないできたものに何らかの意味を考えてしまう。これがAIのやることと人間の頭脳がやることの違いなのだろう。意味がなくても物が作れるのが機械であり、逆に私たちは意味なしで物事をとらえることはできない。

芸術は長し

 フジコヘミングさんが亡くなられた。数年前、コンサートでその演奏を聴いたことがある。ラカンパネラなどの難曲を含む演奏に感動した。ピアノに辿り着くまでは歩行補助具を使っていたのに、演奏になると雰囲気が変わる。もちろんミスタッチもあったが、そんなことが気にならないほどの表現力とオーラがあふれていた。そのとき90歳であった。

 天国でも演奏を続けられるのだろうか。演奏の記録と記憶はこれからも長く残るはずだ。ご冥福をお祈りします。

虚構を味わう意味

 小説や詩といった創作を私たちが行うのはなぜか。また人の作品をときには対価を払ってまで読んだり見たりするのはなぜだろうか。演劇やドラマ、映画といったものも程度の差こそあれ人為的な虚構の世界だ。こういったものにも思えばかなり高価な代金を払っても厭わない。むしろそこから得るものに大きな期待を持っている。

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 作り話が物質的にはなにももたらさないことは事実である。小説を読んでも栄養は摂取できない。定量的な利益を測定することはできないはずだ。場合によっては生活を困難にすることすらあるかもしれない。それなのに虚構を喜んで受容するのは意味がある。

 おそらくその効用はたくさんある。しかし、私がもっとも大事だと思うことは創作を作ったり、享受したりすることを通して結局現実を考え直しているということではないだろうか。どんなにファンタジーであっても、その基本にあるのは現実世界の姿である。それを誇張したり、逆にしたり、不可能なことを可能にしたりして虚構の世界は出来上がっている。虚構を読むことをとおして実は現実を見直しているのだろう。それが直接的でない分、気づきにくい。

 現実とは乖離している作品を堪能したあと、ふと、では実際はどうなのだろうと思う瞬間がある。わざとらしくなく、ごく自然にそのような振り返りがなされる。場合によってはそれによっていままで気が付かなかった何かを発見できることもある。昔から読書は心を豊かにすると言われるが、その一つがこうした現実を見る視点を得るという効用ではないだろうか。

歴史ドラマ

 大河ドラマの最終回を見た。およそ史実からは遠いと思われる展開だった。そもそも歴史そのものではないのだから作品として完結していればいいのだ。

 そもそも歴史そのものも事実とは言えない。史書はしばしば勝者によって書かれる。自らの権力の正当性を保証するものとして書かれていくのである。だから家康は神とならなくてはならず、そのために事実が書き換えられることもあった。

 過去の人物に対する評価は、いま生きている世代によってなされる。つまりは自分との関係性で人物像が決まるのだ。だから人物の評価も世代、時代とともに変わっていく。様々な評価にも耐え抜き伝承されていく人物こそ偉人というべきなのだろう。

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庭園の表現

 とある庭園を歩いてみた。日本式に分類されるその庭園は園地も植栽も自然に近い形をしており、人為的な要素が抑えられていた。

とはいえ、庭園自体が人工的空間である以上、様々な意図が隠れており、それを考えるのが訪問者の楽しみの一つである。

なぜこの池はここで大きく湾曲しているのか、石塔にはいかなる意味があるのか。そういったことを考えるのは面白い。庭を見る楽しみである。

時代劇の効用

 いわゆる江戸物の時代劇がほぼ全滅していることは残念だ。中学生に大岡越前や遠山金四郎について尋ねたところ、ほぼ全員が知らなかった。昭和世代にしてみれば大岡捌きや金さんの双肌脱ぎの場面は当たり前だが、今の世代にはそれが通用しない。

 時代劇の価値観は決して理想的ではない。むしろ現代社会では否定されるべき要素も多い。でも、過去のモラルを比較対照の方法にするべきものとすることはできた。生活の中の古典というレベルにおいて。

 それがいまは大衆の多数派の考えに翻弄され、ようやく出てきた独自意見は個人の感想と纏められる。明らかにおかしな現実に対処できずにいる。

 時代劇の非現実性はそうした行き詰まりを打開する方法にはなっていた。正確ではないが、今の私たちの在り方もまた正解とは限らないことを明かしてくれていた。そういう役割を果たしていた時代劇が消滅していることはかなり不幸な事態ではないのか。

立秋

 暦の上では秋の始まりだ。東京は今日も暑い。酷暑に慣れてきたので、30℃は涼しく感じてしまう。大阪の最低気温が30℃と聞くとやはり今年の夏は異常であることを再認識した。

 台風の遠い影響で大気は不安定であり、複雑な雲が通り過ぎる。運が悪ければ豪雨にさらされるが、幸いその経験は7月以降はない。

 立秋と言っても名ばかりだ。将来的には秋という季節は極めて圧縮されてしまうのかもしれない。古典和歌の世界では春と秋が詠歌の季節であり、夏冬はそれぞれ次の季節の前置きのようなものだった。それが気候変動で四季は四等分されず、春秋は添え物になりつつある。

 秋の尊さを忘れないように文学や絵画に描かれた秋を大切にしたい。

脇役の大切さ

 今更言うまでもないが、演劇において脇役や敵役の大切さは非常に大きい。主役が光るためにはその周囲にいる人物が個性を発揮しなくてはならない。

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 私たちの認識というものは対比という仕組みを大切にする。比較や変化を通して物事を特定するのが私たちの考え方の基本なのである。だから、ある人物のキャラクターを考えるときは、それを知るための物差しがいる。演劇などではその物差しを極端に際立たせることで、わかりやすく人物像をつかませようとするのだ。悪役はあくまで悪に徹し、恋人は魅力的でなくてはならない。ただ、それがあまりにわざとらしいと類型的になってしまうため、さまざまなオプションを加え、変化をつけるのである。

 人生を描写したものが舞台なのであるが、舞台は人生を見つめなおす鏡にもなる。私たちが物事を判断しているのはあくまでも他との比較であり、自分の存在は他者の存在を前提としてしか理解されないということを考えるべきなのだろう。私たちは主役として生きていながら誰かのわき役にもなっている。それをどちらも堂々と演じるべきなのだ。