タグ: 自己啓発

どこまで

 緊急事態がまた延長されるようだ。感染者人数が減らないから仕方ない。ただ、ワクチン接種は少しずつ進みつつあり、夜明けは見えてきた。

 明確な基準なり判断をくださない限りこの事態を変更することはできない。さらに決定したら責任を負うことになる。その責任は個人のレベルでは到底負えない。

 決められないことを前に私たちは思考停止する。このことについては日本人は得意だ。数多くの理不尽な状況をそれで乗り越えてきたのだから。

 私はこれも生きる知恵なのかもしれないなどと諦念を持ち出している。ただ、事態が変化したときに何をするのかを考えておかなくてはなるまい。次を考えよう。

資格

 思い立ってある資格を取るための準備をはじめようと考えている。この歳になって資格などほとんど意味などないはずだ。だが、実益よりも自己啓発の具として使いたい。

 資格認定とは用意された知識やスキルを修得することにあり、吸収型の学習だ、これはこれまで長年身につけてきた方法である。ただ記憶力は着実に低下しているからそれは学習量で補う必要がある。

 年寄りの冷や水に過ぎないがやってみることに意味がある。

矜持

 変化が激しい時代において過去の蓄積が評価されにくい状況が訪れている。手作業の中に折り込まれる経験やストーリーよりも効率や結果ばかりが求められると息苦しくなる。

 過去にとらわれないとか、前例踏襲主義は悪と言うことは簡単だが、それは過去の否定ではない。まったく新しいことなどできるはずはないのだ。

 これまでの実践には誇りを持つべきなのだ。他者に認められないのなら、少なくともいまの自分が過去の自分を認めることから始めよう。そこから次の段階が見えてくる。

5月半ば

 5月も半ばになった。昔からこのあたりの季節には心身の不調を訴える人が多いという。真偽のほどは不明だが少なくとも私は警戒すべき期間だ。過去に何度か危機に陥ったことがある。

 生活のリズムが変わることもあるが、気温が上がり、日較差も大きいことが体調管理を難しくするのだろう。一見、活気を帯びて見える自然の推移も自分の調子を超えてしまうとオーバーペースを招く。

 意欲的に突進したいところだがまずは少しずつ呼吸を整え、気持ちを高めてからにしたい。無理の効く年頃ではないことは確かだ。

働く意味を考える

 かつては労働者の日といわれた今日だが、私にとっては子供の頃からすでに過去の行事であった。労働が給与をえるための行動であるという認識しかなかった。そこに働き甲斐を感じるのは付加的価値であり、贅沢な願望というのが実際的な理解であった。

 私の人生を考えると高度成長期が終焉し、バブルからその崩壊後の閉塞的な低成長時代を送ってきたことになる。運良く自らの興味のある仕事につくことができ、初期の頃は分不相応な仕事までさせていただいた。しかし、不景気になるとその夢は消え去り、職場も失いかけた。運良く今の職について私なりに労働の価値を感じ続けている。

 ただ、働くことが疲弊につながると考え出しているのは私が高齢化したからだけではない。労働に余裕がなく、自分の人生を豊かにしているという実感が損なわれてきているのが問題なのだ。目標志向はよい、企業としては当たり前だ。ただそれがあまりに自分の価値観と離れすぎているときには別の問題を生じる。

 この連休は心身の休養ということはもちろんだが、働くことに関しての視座を見直すきっかけにしたい。

発展しない戦略

 いわゆるSDGsに関してはかなり周知されてきている。目標としては魅力的であり、多方面にわたる配慮は素晴らしい。ただ、やはり画餅の感は拭えない。

 最近読んだ本にも開発、発展を前提とした考え方の危険性を訴えていた。真の意味で持続可能性を考えるならばまず開発を止めなくてはならないのだろう。

 ただ、私たちは程度の差こそあれ何かを変えながら生きている。それを止めることは種の継続に関わる大問題だ。発展を限りなく緩やかにし、その都度現状を把握することが大事なのだろう。そんなことはできるのだろうか。大きな疑問符が脳裏を回転し続ける。

 知らないうちに頬に引っ掻き傷を作ってしまった。心当たりが無いので寝ているうちに何かにこすったのか分からない。

 顔を気にする歳でもないし、そもそも私の顔などさほど注意している人はいない。それに加えて始終マスクをつけているのでそもそも見えない。私が傷に気づいたのも恐らくできて数日後のようだ。

 ずぼらな男の話として笑い飛ばしておけばいいことだが、少し視点を変えると、自他の顔への関心が下がり過ぎているということになる。これは少し恐ろしい。リアルな印象をもたらすはずのものが軽視されていることになるのだ。

 もっとリアルに関心を持たねはと自分に言い聞かせる。

言語化

 人から相談を受けたとき、適切な助言をすることは難しい。何を答えるべきか、話題にしてはならないことは何かを考えていると身動きが取れなくなる。

 もっとも相談する相手ははじめから答えを求めてはいない可能性もある。いや、大半の場合回答の有無はどちらでもいいようだ。ならば、大切なことは答えることより聞くことにある。

 傾聴はカウセリングの絶対条件だという。家族ではない他人が耳を傾けることで相談者は安心と僅かな満足を得るようだ。助言はその上のことで極論すればなくてもいいのかもしれない。あるとすれば相手の悩みを分かりやすく言葉に変える手伝いをすることかもしれない。言語化できれば対象化でき、解決に近づく。

伝達

 教育とは何かを考えるときいつも考えることがある。伝えることの方法は多様であるということだ。

 私自身の体験からすると学びの基礎は学校にあったとしても、主体的な学びの発動は自己の中にあったように感じる。何かを学びたいと思ったとき学びは効果を発揮する。

 教育とは何か。知識の伝達はもちろんだが、それは本当の目的ではない。大切なのは学ぶことの意味を気づかせてその行動を発動させることだ。人によりそのきっかけは異なる。それを注意深く探し、ボタンを押していく。教員の役割はそれかもしれない。

春の雨

 春の雨の一日になりそうだ。路面が少しずつ湿っていく。強くはないが確かな雨だ。傘を開くか迷っているうちに髪も上着も露のベールを被される。存在を主張しない湿りは油断は禁物とささやいているかのようだ。雨の向うに今日の生業が待っている。歩みを止める余裕はない。春の雨に少し感謝したい。自分の位置を教えてくれたのだから。