昨夜はかなり長い間強風が続いた。天気図によれば西高東低の気圧配置だ。しまがまだ南北になっていないので、本当の冬型とはいえないのかもしれない。寒気が入り込んでかなり気温は下がった。
風の音て時々目が冷めた。少し布団を厚くしなければならないとも感じた。季節は進み、この月も中旬になっている。やるべきことは少しずつ、だが確実に進めていこう。
寒いのはいろいろ困るが、心が研ぎ澄まされる気がするのはいいことなのかもしれないと考えている。冬になるのも悪いことばかりではない。
日々の思いを言葉にして
タグ: 自己啓発
昨夜はかなり長い間強風が続いた。天気図によれば西高東低の気圧配置だ。しまがまだ南北になっていないので、本当の冬型とはいえないのかもしれない。寒気が入り込んでかなり気温は下がった。
風の音て時々目が冷めた。少し布団を厚くしなければならないとも感じた。季節は進み、この月も中旬になっている。やるべきことは少しずつ、だが確実に進めていこう。
寒いのはいろいろ困るが、心が研ぎ澄まされる気がするのはいいことなのかもしれないと考えている。冬になるのも悪いことばかりではない。
買わなくてもいいものを買ってしまうのはなぜだろう。一つには習慣の効果が大きい。時間、場所、前後の出来事、その他いろいろな条件が揃うと買い物をしてしまうことがある。これはかなり意識して止めなくては繰り返す。
現状把握が不十分なのも問題だ。今足りないのは何か、不足をきたさないためにしておくことは何かを考えておくべきだろう。思ったより不足はなく、むしろ使われることを忘れられているものが多いものだ。
買わずに済んた喜びを記憶しておくことも大事だ。買い物がストレス発散になるというが、買わずに特をした喜びは自覚しにくい。それを言語化することは買いすぎを防ぐ手立てとして必要だ。
最近の苦しみの一つは入力過多にある。いろいろな情報を入手するのはいいが、それを自分なりに消化し、言語化しえていない。わかったつもりになっているが、実は何も理解できていない気がする。
この悩みを解消するためには、未消化であっても自分の考えを言葉にしなくてはならない。これは難しいことだが、それをしなくては前に進めない。言葉にするにはどうすればいいのか。それは完成形をすぐに求めないことが必要だろう。
作家の草稿を見ると結構多くの書き直しがあることがわかる。作家だけではない画家でさえもたくさんの習作を重ねてやっと作品にたどり着いている。私達は最終形態しか見ていないのであたかも最短距離で作品ができあがっているような感じになる。でも実際は底に至るまでの様々な習作があり、試行錯誤しているのである。
このブログはその習作を臆面もなく発表する機会と考えている。本当の作品はいづれまとめることにして、今は考えたことをひたすら文字にしていく。出来損ないの集積であるが、よろしければお付き合いいただきたい。
学生時代は『万葉集』をよく読んだ。国文科の学生であったからそれは教材であり、研究材料でもあったのだが、いまは心の拠り所のようなものである。
職が変わり日々の業務に忙殺されている間に古典文学を教材としてしか扱わなくなってしまった事に気づいた。文法やその他の知識を生徒諸君に伝達することは教員として大切な役目だ。それを効率的に行うことで仕事の評価がなされることにもなれてしまった。相当な違和感を常に感じながら。
古典を読む意味は試験に受かるためだけではない。むしろそれは二義的なもので本道から外れる。それに気づいていない教員が多いのはとても残念だが、教員がそうなのだから世間の人々の大半は古典文学は単なる受験の一科目くらいにしか考えていない。
しかし、古典は様々なことを考える切っ掛けであり、道標でもある。過去の人々の心の足跡に触れることで現状を捉え直すことができることがある。とても大切なことではないだろうか。最近古典文学の文庫本をもう一度開くことにしている。一部は何度も開き壊れそうになっているのでまた買い換えよう。
相変わらず読んでもわからない部分がある。解釈できない部分さえもある。それでも何度も付きあているうちに読めてくるときが来るかもしれない。それは自分自身の読解力の向上だけではなく、精神の成長に関係するのではないかと考えるのである。

ニューノーマルなどという言葉が独走したが、気がつけばもとの生活が戻りつつある。安堵するとともに危機感も覚える。塩梅を間違えると後退にたどり着く。毎日の点検が必要であると最近は痛感するのだ。
東京では文化の日は穏やかな晴天だった。かつては天長節であったこの日はなぜか晴れの特異日の一つであるという。それが文化の日となった経緯は興味深いが今日はその話題にはしない。文化とは何か、そして文化を伝えることの重要性を実感しているということを述べたい。
日本には日本の生活様式なり、思考の形式というものがある。それは特に優れているというわけではなく劣っているわけでもない。私は日本人なのでそれに対して誇りをもち、優越感を感じることもあるが、これはあくまで相対的なものであることも知っている。どの民族の文化もそれが成立するまでには洗練を繰り返しており、全てが素晴らしいはずだ。理解するのが難しいのは文化が違うことが要因なのである。
それでも日本の文化を海外に広めたいと思うことが多い。こんなふうに考え、行動すれば大変興味深い効果が生まれる。それを多文化の民族にも知ってもらいたいと思うのだ。おそらく多くは奇異と思われ、中には評価する人も出てくるはずだ。その一部の人にでもいい。日本の文化を知ってもらいたいのだ。
文化を伝えるためのもっと良い手段はその国言葉をつかてもらうことにあると考える。ただ、それは非常にハードルが高い。私など何十年も英語を学んでいるというのに未だに満足に日常会話すらできない。でも、日本語を知っていただくことは文化理解の第一歩なのだ。このブログを海外から見ていただいている方もいるかも知れない。翻訳ツールを使えばおおよその内容はおわかりいただけるはずだ。でも本当は日本語を少しだけでもわかっていただけたほうが真意が伝わる。私も外国語の学習を続けていきたい。それが異文化への接点になるというのであれば。
脳にも体力が必要だ。最近はこれを痛感する。疲れると判断力や思考力が低下する。怠けたりさぼったりするのとは明らかにちがう。進もうとしても身体が動かない。まさにそのような感覚だ。
新しいことを発想することの難しさもここにある。よくはわからないが発想には相当のエネルギーが必要なのだろう。だから、体調がよくないと発想が湧かない。衰えた体力で発想をし、それを残すにはどうしたらいいのだろうか。その戦略を考えるべきだ。
最近、動画サイトをよく見るようになったが、これはほどほどにしなくてはならないと気づいた。分かりやすい動画を見るほど自分の脳の体力が落ちてきている。歩かずに目的地に行き続けると歩けなくなるのと同じだ。しかも、動画の結論は目的地でさえない。
自分で歩く、つまり頭を使う機会を増やすこと、そして気づいたことはまとまらなくても文字や絵図に残すことが大切だ。私の戦略は思いつきをメモすることとすることにした。このブログもその一つだ。
私ももうすぐ高齢者の仲間入りをすることを考えれば、生活のダウンサイジングを考えていかなくてはならない。もちろん、働ける限りは働きたいと考えているし、過去の実績には拘らずできることなら何でもしたい。それでも現在の収入を維持することは不可能であるし、この先の日本経済も不透明なのは不安である。
「ほど」とは程度や段階を表し、身の程とか、程の良い、といった言葉がある。ほどほどという言葉がある。これは自分にあった程度や段階ということであるとともに、身分や分際に見合ったものという意味も持つ。これから私がやらなくてはならないのはこのほどほどに生きることだ。増やすのと違って減らすのは簡単と思いがちだが実はそうでもない。特に何でも取っておきたい私のような考えの持ち主のものにとってはほどほど生活はかなり困難だ。
このブログは半分以上自分に言い聞かせるために書いている。だから、あえて文字化しておく。
興味深い記事を読んだ。他者を救済する人の割合をランキングすると日本は他国を引き離して最下位となるのだそうだ。調査項目には寄付をしたり、ボランティア活動歴、知らない人を助けた経験、支援団体の数などがあるが、そのどれもが世界の水準からかけなれて低いらしい。
日本に住む私の実感として、この調査の結果は大いに疑問がある。確かに東京に住んでいると他人に対する配慮が少ない人を多く見かける。中には相当わがままな人もいる。しかし、世界最下位になるほどの状況には見えない。秩序正しいので、満員電車の中でもめったにトラブルは起きないし、ゴミを捨てて迷惑な人も少ない。であるにもかかわらずなぜこのような結果なのだろうか。
思うに伝統的な日本の価値観にウチとヨソの枠組みがあることがその原因のひとつだろう。自分と同じ集団に所属していると意識する相手に対しては過剰なほど気を使うが、そうでない相手は無視しようとする。その枠組みがたとえば人種とか宗教とかそういうものではなく、きわめて個人的な感情に基づくので他人から分かりにくくなっている。
それを日本人の特徴と考えればそれでいいし、何も他国のそれと合わせる必要もないかもしれない。ただ、社会がグローバル化するなかでこうした小さな集団主義は不利益の面ばかりが目立ち始めている。自分の集団だけで生活が完結できる間はそれでよいが、もうどうしてもそうはいかない。集団の枠を広げていってもそれでも追いつかない。もはやヨソ人と関わらなくては何もできない。
ヨソ人に関心を持つことの延長上にボランティア活動や寄付行為などがあるのかもしれない。世界はつながっていて統一のルールのようなものがあるというのは一神教の世界では大前提にある考え方だろう。日本にはそういう考え方はない。似たようなものとしてお天道様があるが、規範性は薄い。だから、かかわりのないものへの関心が薄いのかもしれない。世界はつながっていて、他者を救済することは世界を救うことになるという考えは、日本人にとってはかなりの学習を必要とする考え方のようである。
経済的な衰退傾向も自分たちさえよければいいという考えを転換すれば好転するかもしれないと考えている。寄付でなくてもいい、他者のために金を使うのだ問う思いが資産家にあれば、世の中はよくなっていく可能性がある。人助けは自分を助けることでもある。情けは人の為ならずとはよく言ったものだ。「冷たい」日本人がこれから何をするべきなのか。実はその行動にこの国の命運がかかっている気がする。
昨夜の満月はとても印象的だった。肌寒い中で冴えわたっていた。後の月も過ぎて文字通りの秋だ。
気持ちの混乱を鎮めるには大きな光景を見るのがいい。心を落ち着かせれば見えてくることもある。何がいま大切なのかを月に反射させて大きく見直すのだ。
行き詰まりはない進むだけだ。