タグ: 自己啓発

もっと簡単に

コンピュータを毎日使う日々が来ることは私が中学生の頃は想像できなかった。一部の科学者とか、特殊な職業の人だけが使うものであると考えていた。それが今は誰でも使う。おそらく一人一台では済まない。多くのコンピュータを使っている。

いわゆるパソコンというものはその中の代表だが、これに関してはいまだに操作が難しい。かつていちいちRUNなどと入力して始めていた頃に比べれば雲泥の差だが、それでもまだ難しいのだ。加えていま高齢者が使いこなせるパソコンがあるかといえばかなり難しい。自分が歳をとって分かったのだが、画面の文字の小ささだけでもう難しくなる。キーを叩くことも障害が出始めると難しくなる。音声認識もしわがれた声でどれほどできるのかが問題だ。

PC操作はいまはできても

コンピュータが人間の要求に答えられるようになるためには一段と開発が必要になるだろう。今はAIによる補完という考え方が主流になっている。衰えた認知力や記憶力、運動機能などをAIが予測して提供するというものだ。これにも様々な問題はあるが方向性としては間違っていない。杖か車椅子のような役割を果たすものを開発していく必要がある。

杖に例えたのは、あくまでも歩くのは人間であるということを言いたかったまでだ。車椅子の比喩もしかりである。あくまでも主体は人間でありそれを補助する道具としてコンピュータが活用されなくてはならない。

化けの皮

 これからは専門が一つという人よりも二つ以上の専門がある人が求められる。ある人が語っているのを聞き、最もだと思った。しかし、専門が二つというのは敷居が高い。

 でも、この専門という定義をどこに置くのかで話は変わってくるのかもしれない。資格があるというのは自分以外の認証であり客観性もある。ただ、自分が専門だと主張すれば専門になりうる分野もあるのではないか。ならば、多少大げさでもいいからこれもできると言ってしまうのも手ではないかと考えた。

 そういうはったりはすぐに化けの皮が剝がれる。しかし、はがれる前にその皮を自分のものにしてしまえば何とかなるのかもしれない。私の職業以外の専門は何だろう。まずは化けの皮を張る所から始めようと考えている。

少し郊外に

 私の住んでいるところは急速に人口が増えている。人口減少の時代に逆行しているのは、都心へのアクセスがほどほどよいのと、鉄道会社のイメージ戦略が成功しているからだろう。私は脱出を考えている。

 確かに便利なのは助かる。ブランド品やそれに準じるお洒落なアイテムも容易に見つかる。ただ、それが本当に必要なのだろうか。もっと大切なのもはないのだろうか。

 通勤の束縛がなくなればいっそのこともっと郊外に移りたい。関東地方である必要もない。そこそこのインフラがあればいい。いまはそんなふうに考えるようになっている。

 そのためには準備と蓄財だ。そろそろ真剣に行動計画を立てることとしたい。

成人

成人の日は私にとってはもう刺激のないものになっている。成人の定義がまったく現実とあっていない。精神年齢的にはもっと上の年齢を設定すべきだと思うし、経済的にはもっと下でもいい。早く独立して稼げるような仕組みもあればいいと思う反面、しっかりと人格形成をしたほうがいいとも思う。つまり成人の境は非常に曖昧で難しい。

日本の少子化は全く収まりそうもない。この後の時代には大量の高齢者がなんとか自活をして生き、そして力尽きていく。若者はその煽りをうけて苦しい生活を続けるか、もしくは画期的な方法でこれまでにない社会を作る。私は後者になると考えているが、そのためにはあまり年寄りが出しゃばらないほうがいい。

Sasin TipchaiによるPixabayからの画像

新成人には申し訳ないがいまの日本では黙っていても幸せになれるような状態ではない。自己開拓で新しい時代を作るしかないのだ。起業独立を考え続けてほしいし、過去にとらわれてはならない。誰も知らないことを始める必要がある。

ただし、踏み外してはならないのは利他的な観点だ。自分さえ良ければいいというのは成人の先輩たちが犯してきた大失敗だ。一見良さそうに見えるが実は致命的な結末がある。他者を不幸せにする方法はすぐに自分に跳ね返る。だから、自分を含めた周囲の人を幸せにするという視点を持ち続けるべきであるし、その範囲を広げていかなくてはならない。

だから独立することがだけが能ではない。場合によっては協働し協力することが必要になる。お互いが目的をもって協力すれば相乗効果でより素晴らしいものが生まれるはずだ。もちろん意志をもった者同士が意見を言い合えば衝突もある。それを乗り越える方法も確立していくべきだ。

みなが幸せになるためには何が必要なのか。今何が足りないのかを考えればそこに自立の緒がありそうだ。実は私自身もそれを常に探している。成人になるというのは社会や世界を考えながら生きるということではないかと考えている。



孝行のこと

古典の世界では親孝行が一つの普遍的テーマになっている。儒教の影響だろう。親孝行は無条件の命題だ。だから若い世代がいかなる犠牲をはらっても親に奉仕することが美徳とされている。

では実際にすべてがその理想にかなった人ばかりだったかといえばもちろん否である。孝行話が称揚されるということはそれだけ孝行をすることが困難であったことの裏返しであったはずだからである。姥捨伝承のような棄老伝説はそれが極端化したものであろうが、現実にはそこまではいかなくても完全な高齢者庇護が実現できるわけはあるまい。厳しい現実がこれまでもあったのだ。ただ孝行が社会全体の徳として認識され、実現できるか否かは別として行動規範として共有されていたことは事実だ。

それでも自然のなりゆきで老人が他界し、後継者がその後をつぐという人生の循環がなされているうちはよい。個々の人生には厳しい局面があるが、社会全体としては安定が保たれているのだから。現代の高齢社会のあり方を考えると、孝行するべき若い世代が極端に少なく、老いていく世代が多すぎる。孝行は理想を超えて、非現実的なファンタジーになっていく。もう孝行の幻想からは逃れなくてはならない。

近世の孝行譚を読んでいると共通するのは滅私の考え方である。自分の快楽を犠牲にしても親に尽くそうとする人の姿が描かれている。それを支えていたのは儒教的な精神環境だろう。今の私達にはその考えはない。それぞれの個人には幸福を追求する権利があると考えられ、誰かのために自分の人生を差し出すことは好まれない。これでは社会はバラバラとなり強者が弱者を踏み台にして利益追求をしていくことになる。現代生活はそれを具現化しているともいえる。

自己をなくさず、自分本位にもならないという選択はあるのだろうか。自分の幸せを追求することはすばらしいと考える段階ではこの道は開かれない。他人のことを考えるより、自分の将来を考えることに精一杯だからだ。

そのためには私達の考え方が進化しなくてはならない。個々人の幸せは一人の幸福追求では達成できないということを知識ではなく行動で実践できるようなるべきなのだ。地球環境の問題はそれを可視化する。自分さえ良ければいいと思ってやっていることが、やがて環境そのものを破壊し、自らの首を占めることになるのだ。

孝行の対象が自分の親だけではなく、地域や共同体、世界全体に及ぶようにしなければ私達は立ち行かないのだということを毎日の行動で示せるようにならなくてはならないのだろう。すでに知識としては獲得できている。しかし行動は別になっている。自分の人生をすべて捧げる必要はないがだれもが自分以外の存在のために何らかの行動を常に続けること。それができるようになれば、人類の歴史はまだ安泰かもしれない。多くの生物が進化に行き詰まり絶滅したことを考えると、人間が同じ轍を踏むことも考えられる。ただまだ分からない。

エッセンシャルワーカー

 コロナウイルス感染者が急増して再び世間は自粛モードに戻ろうとしている。オミクロン株の影響なのか今回は感染力が強いらしく、医療機関従事者の感染も多いと報じられている。最近のキーワードにエッセンシャルワーカーというのがある。どうも社会インフラの基盤を動かす人たちのことをいうらしい。

 医療や福祉、衛生関係の仕事についてはこの定義があてはめやすい。警察、消防なども同様だ。他にも運輸、流通なども含まれる。世の中は相互依存の関係にあるので何がエッセンシャルなのかは実は分かりにくい。

 教員も含まれるらしい。確かに教員の罹患はいろいろ面倒なことになる。特に真面目に教育している教員ほど他に替えがたい。学校が止まれば、家庭にも影響するから、社会にも多大な影響がある。

 誰もがエッセンシャルワーカーだとは思うが、教育関係者である以上、健康管理には留意しようと考えている。

現役エンジニアから学ぶならテックアカデミー

仕事始め

 今日から仕事を再開する。年が変わっただけのことであるが、時間に区切りをつけて気分を変えるのは人類の叡智と考え、それにあやかることにしたい。

 やるべきことを書き出してから始めることにしようということは、昨年も途中までやっていた。いわゆるバレットジャーナル風ノートに書いていたのだがどうも続かなかったので、今年はスマホやタブレットのタスク管理アプリで行う。自分もこうしてデジタルの世界に取り込まれていくのだと実感している。

 毎年思うが今年も自己改革したいと考えている。挫折するまでは。

数学的思考

 ある人のインタビュー記事を読んでいたら、多くの人には数学的思考がなさすぎるという。そのために事実誤認が生まれ、さまざまな悪影響に繋がるというのだ。

 確かに私は物事を経験的な感覚でしか捉えていない。そしてその多くは間違っている。だか、私以外の人も同じような間違いをおかしているので困らないのだろう。

 日常些事ならばそれで済む。ただしこれが累積し、継続性を持つようになると大きな問題になる。科学的思考がとれなくなると、思い違いで酷い結果が増幅してしまう。それは損失以外の何者でもない。

 不利益を受けるのが自分だけならば自業自得だ。それが他者に影響するとなると問題は別次元になる。後生に課題を残すならばさらに問題だ。SDGsよりも大切なのはまずは思い込みによるエラーを減らすことにあるのかもしれない。

 数学の理論を学び直すのは容易ではない。ただ、単純な算術でもよいから、理をもって考える癖をつけなくてはならないと痛感する。

今年の目標

 このブログは主に自分を励ますために使っている。読者の皆さんにもこの自己暗示が何らかの役に立つのではないかと考えて公開を続けている。お付き合いいただいて本当にありがたく感謝に堪えない。

 今年の目標を書いておこう。言ってしまった限りやらざるを得ない。そういう状況に追い込むのが目的だ。

 まずは古典文学の紹介サイトを作りたい。長年、国語の教員をやってきたが最近はその場しのぎの消耗する授業ばかりになっている。このあたりで受け手の心に訴える話を残さなくてはならないと考えたのだ。さしあたっては大人向けの古典文学再入門のコンテンツにしたいと考えている。もちろん最終的には有料サイトにすることを目指したいが、とりあえずは多くの方に見ていただけるものにする。いまご覧になっているブログにもリンクをはる。

 次にボランティア活動の開始だ。多忙を理由に地域との繋がりがまったく築けていない。私のようなシニア予備軍世代でもできることを少しずつ始めよう。何をするのかは具体的には決まっていない。少しでも私の経験を活かせるものがあればやってみよう。

 そして、最後は健康の維持だ。これが他人に迷惑をかけない最善の策かもしれない。何もしないと衰えてくる身体のあちこちを健全に保つためにやるべきことを続けよう。ブログでもこの点を話題にしていこうと考えている。

 ほかにもいろいろあるが風呂敷を広げ過ぎるのもなんだと思う。この記事の読者の皆様には願わくはこれらの記事が空しくならぬよう少しだけ関心をお持ちいただければ幸いである。

年頭のごあいさつ

 2022年が始まりました。新年明けましておめでとうございます。

 おめでとうというのは予祝の呪術と学びました。まだ何も祝福すべきことは起きていなくても、めでたいと言うことで周囲にそのような状態をもたらすというのです。これが正しいのなら私は何度も言いたいと考えます。

 パンデミックが始まってから2年が経過しいまだ安心のできない日々が続いています。真夏のマスクを2回もしなければならないとは思いだによらなかった。それでもなんとか耐えてここまできたのです。この事実だけでもめでたいと言うべきかもしれません。

 予祝の意味を込めて、さらなる幸せが皆様の周りで重ねて起こりますように。

 明けましておめでとうございます。