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理想的な第2の職

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 そろそろ第2の人生を考えなくてはならない。私の場合すでに大きな転職を経験しているので実際には第3の職かもしれないが。

 私はもし経済的な支えが担保されているならば、地方に住み、才能があるが経済的な困難を抱えている子どもに希望を与える職に就きたいと思っている。志を同じくする人がいればその配下になることも厭わない。日本は教育立国であり、それがなくなればすぐに滅びていく。現在の「先進国」気取りはすべて先輩たちの努力の賜であり、その恩恵で我々はかりそめの優越感に浸っている。

 お客様気取りでサービスばかりを要求するようになってしまったいまの日本人には教育が最後の砦だ。もちろんエリート教育も大切だ。しかし、恵まれた環境になくても学問さえ積めば現状を打開できる。利他的に生きることでみなが幸せになれる。そのリーダーを養成するということは何よりも大切ではないか。

 現在の自分は日々の生活に追われ、夢や希望を大切にせよと他者には語りながらも、自身は挫折感に日々苛まれている。まずはこれを変えたい。私には資金もないし、若くもない。これから何かを始めるにはあまりにも条件が悪い。だが、それでもできることはあるはずだ。

 そういうことを実践している方がいれば、お話をお聞きしたいと思っている。そろそろ次のことを真剣に考えなくてはならない。まだできる挑戦はある。

熟考する力

深く考える余裕がないのか

おそらく多くの人が考えているのではないか。今の教育は情報処理能力にあまりに傾きすぎているのではないかと。私もその一人だ。

例えば先日の大学共通テストはさまざまな改革の末に生まれたといいながら、センター試験以来の問題数の多さを保ち、それ以上に増えた科目もある。試されているのは時間内にいかに多くの問題を処理するかということであり、反射神経や要領のよさが測定されている。

一方で、果たしてこれが正解でいいのだろうかと思う設問もある。他の選択肢が不正解であるから問題としては成立しているのだが、その正解が絶対正しいのかと考えると疑問があるものもあった。これも過去の問題と同じだ。受験生は消去式という情報処理の方法を活用すればよいのだ。なにか腑に落ちない。

ほかの局面でもよく考えずにとりあえずの正解を見出すことに終始することが多い。忙しい現代を生き抜くには必要なスキルであることは確かだ。しかし、この方面はむしろコンピューターが得意とする分野である。人間はもっと深く考えることや、いままでにない一見間違っていると思われるものを再検討する思考力の方を鍛えるべきではないだろうか。

熟考する力をどのように育成するのかは決まったノウハウはない。個人の資質に負うところが多いとされ、一斉教育の場では省略されていると考えられる。だが、もしかしたら今後もっとも大切にされる能力になるかもしれない熟考力を中等教育で教えないのは根本的な間違いではないか。せめて時間をかけても、結果が出なくてもよく考えることには意味があるということだけでも伝える機会はあったほうがいい。

筆圧

万年筆のすすめ

 私は決して字が上手くはないが書くことは好きであり、手書きする機会は一般の人よりは多いほうだと考えている。最近、痛感しているのは筆圧が肝心であり、それを意識するには万年筆で書く機会を作ることだということだ。

 筆圧を調節することは意外に難しい。鉛筆やボールペンなどは筆圧の加減をあまり意識しなくても書ける。ただ、多くの場合筆圧が強すぎると筆先の制御が難しく意図した字画が書けない。結果として下手な字と認定されることになる。

 筆圧に敏感な筆記具を使うようにすればこの事実に気づくことができる。一番いいのは毛筆だろうが、すぐには用意できない。筆ペンもよいがいつも筆ペンを使う人は少ないだろう。万年筆はその点、日常使いができるのでよい。日本のメーカーが作っているものの中には筆のようにしなるペン先を持っている製品もある。

 万年筆で字を書こうとするといつもより力を抜かないと上手くかけないことに気づく。すると、いつの間にか力が抜ける。この感覚を他の筆記具でも援用すると思い通りの字画が書けるような気になる。これが大事だ。

 安い万年筆もたくさんある。インクが途切れず出るものであれば、上記の目的は達成できる。私がようやくたどり着いた境地だ。

再起

再起はいつでもできる

 日本ではいまが入試のシーズンだ。すでに受験が終わり、結果も出たものもあるかもしれない。その中にはうまくいかなかったものもあるかもしれない。私もそういう経験をいつくも重ねているので、それなりに残念な気持ちは理解できる気がする。もちろん本人でないと分からないことのほうが多いはずだが。

 試験の結果は人生の方向を変える。それだけに結果にこだわるのだ。でも、よく考えてみれば方向はその時に変わっただけのことであり、それでも前に行きたいのなら行けばいいのだ。隘路は少々進みにくいが目標がもっと遠くにあるならば辿り着けるかもしれない。

 別の向きを見たことで開ける風景もある。あるいはそちらの方がよかったということもしばしばある。多くの場合、それは後になって気づく。

 試験の結果を人生の分岐のように言う人は多い。以上のような訳でそれは半分正解で半分は当たっていない。落ち込むより次を考えた方がよい。試験ですべてが決まるような時代はかなり前に終わっているのだから。

建国

建国記念の日といっても現在の日本人にはその意味を考える人は少ない。革命で国家建設を勝ち取ったとか、新しい憲法が生まれた日とかではなく、多分に伝説的な初代天皇の即位日をむりやり太陽暦に当てはめた末の産物だからだ。

初代天皇の神武天皇は『日本書紀』によると辛酉年春正月、庚辰朔とあり、この旧暦元旦を紀元前660年2月11日と算定したということである。もちろん科学的根拠はなく、この年に古代国家が成立していた保証はない。おそらく日本という意識すらなかったかもしれない。

神武天皇は橿原の地で即位したと言われる

自然発生的な国家においてはいつがその始まりだとは言えないというのが事実だろう。前に述べたような明確な事実があり、それを区切りとするのならば記念日はある。日本にはそれがないのはむしろ長い歴史をもっていることの誇りでもあるのだ。だから、建国記念の日の意味は他国とは異なる。

グローバル化の中で、日本という国が自立できないことが明確になったいま、あえて国とは何かを考え直すことがこの祝日の意味の一つだろう。最近、没落国家と自国を言ってはばからない人が増えたが、その中で何をすべきなのだろうか。国のために命を落とした先人たちの思いと、国を捨てて自己の利益を優先する人との間にあるのは何なのか。何が正しく、間違っているのか。それを考える必要があると思う。

自分のために

 オリンピックの長所は国や地域の一体感を実感できることにある。選手に自らの共同体の代表という意識があり、仲間のことを思う意識がある。これは同時に短所にもなる。

 成績が伸びなかったとき、失敗してしまったときなどに必要以上責任を感じるのは止めた方がいい。わざと手抜きをしたならばその責めを負うべきだが普通はそのようなことはない。勝敗は時の運であり、勝つ人がいつも勝つとは限らない。

 まずは自分のために競技をするべきであり、外部がどう言おうと気にしないことだ。口さがない発言をする人ほど実はさほど深く考えていない。刺激的なことを言った事自体に自己満足しているのにすぎない。それに付き合う必要はない。

 スポーツの話だけではない。失敗に寛容な社会を作らないと衰退してしまうということはそろそろ多くの人たちの共通理解になってもいい。最近、失敗を嘲笑する人が増えているように思う。

自分のために走るべきだ

音読のすすめ

昔から言われていることだが、音読には一定の効果がある。受験生の頃を思い出してほしい。頭の中で記憶しようと思ってもなかなかできないが、声に出してしかも声量をあげて読むと頭に入ることがあっただろう。これは個人的なものかと考えていたが、どうも科学的にも証明されているらしい

国語の教員の立場でいうと受験世代の古典学習にはとくに音読をお勧めしたい。古典文法は覚えるまでは結構面倒だ。なに活用のなに形かなどという試験を出されて嫌になってしまうことがあるだろう。それで古典を嫌いになってしまったならばもったいない。文化的には国家的損失だ。

声に出して読もう

文法の約束を覚えることはもちろん大切だが、その前に音読を繰り返しておけばある程度は感覚的に読むことができる。口と耳が覚えてくれるという比喩は言い過ぎではない。英語学習でも聞くことと話すことが大事だと言われる。それと変わらない。英語はその気になれば街中に溢れているし、メディアからも流れてくる。古語はどんなに探してもそれを話す人は周囲にはいないだろう。ならば自分が発声するしかない。

受験の必要がない私のような世代の方々にも日本語の文章を音読することをお勧めしたい。特に名文と評価されている文章や、古典文学の文章の音読は意識的に行っていただきたい。日本語のあり方を考える基準になるだけではなく、自分の表現方法を見つめ直し磨き上げる良い方法だ。その他、いろいろな効果があることは先に引用したサイトの情報を参照されたい。

手元に中学や高校の教科書があればそれがいいと思うが、それがなければ好きな作家の文庫本でも一冊買って音読するといいと考える。古典に関しては個人的には読みやすく面白く、平安文法でもその後の時代の文法でもなくいわゆる日本の古文の標準の文体を持つ「徒然草」がいいのではないか。細かい意味は分からなくてもいいので、声に出して読むことだ。昔の言い方で言う素読をおすすめする。

コロナの時代で声に出すことが忌避される風潮にあるが学習に関しては声出しは意味があると信じる。社会的距離を保った上で音読する学習者が増えることを望む。

自称語

 古典を読んでいると自分の名前を一人称として使う例がたくさんある。ごく普通のことだったようだ。この言い方には実は隠れた効果があるのかもしれない。

 現代において大人が自分の名、それもファーストネームを使って一人称としたらかなり奇異な感がある。教養がないか、自意識過剰なのではないかと考えられるはずだ。その前に失笑されるに違いない。私たちにその習慣はない。幼い子どもを除いて。

 一方で別の意味から自分の名を自分で呼ぶことを推奨する場面がある。苦境に陥ったとき、自分を励ます方法として。自分の存在をメタ認知して俯瞰した自分から眼下の自分対して呼びかける方法なのだという。

 ドラマの登場人物などが台詞としてそのように言っていることはよくある。でもいざ私にもできるかと言えば、何かどこかに抵抗がある。

 自分の名前を読んでみる練習がいるのかもしれない。はじめは違和感ばかりだがそのうち自然に言えるはずだ。おそらくそれが天上の自分が完成したことを意味するのだろう。少し試してみたい。

煽るだけではなく

 オミクロン株の爆発的な感染は身近に迫っている。知り合いの中にも感染したという人が増えてきた。以前はニュースでは騒いでいるが周囲にはいないというレベルだったが、今は身近な危機である。咳がでるたびに自分も感染しているのではないかと思う。精神的にはすでに健康ではない。

 などと書いてしまうと、この文章の趣旨と異なってしまうが、あまり危機を煽りすぎるのは問題だといいたい。確かに未知のウイルスの展開には注目していかなくてはならないが、すでにその道を歩いている以上、これ以上脅しを入れても意味がない。ぬかるみはあってもしっかり歩けば必ず次の場所に着くのだということを確認していかなくてはならない。

 マスメディアは煽りの記事でアクセスを増やしている面がある。また個人のソーシャルメディアも不安を垂れ流すことで、その周囲もまた不安に陥る。不安なのは確かだが、それ以上の希望も積極的に発言していかなくてはなるまい。

 近年、不安が遠因となったと考えられる凶悪犯罪が散見されるようになっている。罪は憎むべきだが、それを醸成している世情にも原因を考えるべきだ。長い平和の期間に私たちの耐性は落ちている。もっと大変な環境で生きている人々はいる。

笑うことも必要だ

 やせ我慢も大切だろう。そしてそれよりも明るい方面を開拓するものの考え方も身につけていかなくてはならない。苦しい時こそ笑顔になれとは先人の教えだ。そういえば人を笑わす技術というものを教える機会はほとんどない。教わるものでもないかもしれないが、何もなければ生まれないのも確かだ。もっと笑いに注目してもいいのではないか。もっとも、誰かを笑わさなくては減点などというシステムができたら本当に笑えなくなるが。

脳の体力

 昨日まで何度考えても分からなかったことが、今朝ははっきりと理解できる。そういう経験がたびたびあるようになった。特に近年はその経験が多い。

 悪戦苦闘して結局答えが出なかった経験は、よく考えてみれば午後のことが多い。最も仕事をしなくてはならない時間帯に効率が落ちてしまう。

 恐らくその原因はいくつかある。誰でもそうだと思うが、やらねばならないことが複数ある時、個々の事例に対する注意力は低下する。飛び込みでやるべきことが入るとさらに混乱を極める。午後はそうなることが多い。

 加えて、これが一番の要因と考えるのだが、脳の体力の問題である。朝にはあった体力が昼過ぎには消耗している。だから同じことをやっても捗らない。足の疲れならばすぐに実感出来る。それが脳の働きとなると自覚するのが遅れる。脳で判断しているのに脳のことが分からないとは皮肉な話だ。

 だからやはり古人の伝えの通り、やるべきことは朝やるべきなのだ。歳を重ね体力が落ちるとそれを実感する。若い人も恐らく同じだろう。気づかないだけだ。夜の方が捗るという人もいるが、自己暗示にかかっているのだろう。暗示をかける余裕すらなくなった私はやはり朝に賭けるしかあるまい。