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鞄を買わなくては

 ここ数年使い続けてきた鞄の持ち手が切れてしまった。他の箇所もかなり傷んでおり取替なければならないと考えていたが今日に至ってしまった。兆候はあったもののあっけなく壊れた。

 自分の身体も同じような状態なのかもしれない。遺伝的にはどう考えてもこの先の展開はよろしくない。にもかかわらず、かなり不摂生をし、メンタル的にも理想からは遠い。少しずつ身体の異変を感じるが、それを口外することも難しい。このブログがその小さな排出口である。

 鞄は買い換えればよい。中古でもいい。使いやすければブランドなどどうでもいい。ものを入れ運ぶための道具としての役割をはたしてくれさえすれば十分なのだ。

 身体は取り換えられない。仮に今さらまったく違う身体になれたとしてももてあまし、結局命を縮めてしまうことになる気がする。最近は人生の最後の段階を考え始めている。

 くたびれた身体でできることはなにか。人に頼らず、むしろ誰かのためになることを続けるために何ができるのかを考え続けたい。

夏越

六月も終わり

 このところ暑さのことばかりを書いている。差し迫った今ここにある危機である以上仕方あるまい。今日は六月晦日であり、旧暦なら夏越の祓が行われた。

 旧暦の行事をそのまま新暦に移すといろいろ不一致が生じる。加えて今年の約一ヶ月早い梅雨明けとなってはその誤差というや多大なるものがある。夏越の祓は半年に一度の罪や穢れを祓い落とし、禊ぎをする行事という。罪悪が塵埃のように取り除くことができるのかという点においては現代人の感覚に合わないが、何らかのけじめをつけようとする精神は共通する。それが夏の終わりにあることに意味があったのかもしれない。それが今年は始まったばかりの感がある。

 どこかに消えてしまった梅雨は恵みの雨でもあったことは確かだ。その恵みがあまり期待できないことになった今夏は、禊ぎの水はどこから得れば良いのだろう。喉は乾いても心までは干からびないように注意するより他はない。

ワンチャン

You have a chance.

 最近、気になってきた流行語にワンチャンがある。One chance からきた和製英語らしい。元々麻雀愛好者が使っていたらしい。麻雀に無縁と思われる人も使っているから流行語なのだろう。

 機会さえあれば形勢を逆転できると言う意味がもとらしい。一発逆転と言うことだ。雀士が一発逆転を使わないのは役名に似たものがあるからだろう。ワンチャンはそのぶっきらぼうな表現からして背水の陣をひくものにふさわしい。

 ワンチャンが流行語になる原因を考えるに、昨今の状況が極めて厳しいという前提があるのではないか。ただ、そのなかにわずかな可能性を考えるときこの言葉の出番がある。諦めていないのは救いだ。無努力無根拠にチャンスを言っている向きもあるので少々心配になるが。

 閉塞的状況の把握とその打壊願望がワンチャンにあるという深読みをしてみた。若者たちがノーチャンと言い出さない社会をつくることがロウトルのやるべきことだ。

中学生レベル

 書店に行くと中学生レベルでやり直すことを歌った学習書というのがある。いろいろな種類があるということはある程度需要があることになる。実は中学生レベルというのは馬鹿にはできない。

 中学校で学ぶことは教養の基礎に当たる。基礎と言っても多岐にわたり、ある程度の深みもある。これらを満遍なく学習しておけばかなりの知識人といえるだろう。

 でも、実際にはすべての分野を高い水準で学ぶことは容易ではない。偏りややり残しが出てしまう。中学生の皆さんには成績は気にしなくてもいいのでとにかくすべての科目に意味があることを伝えたい。必ず後で役に立つものであると言いたい。

食べ物の評価

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 レストランの評判は気になる。しかし、味の良し悪しの評価は個人によって大きく異なる。絶対的なものではないことを忘れてはならない。

 さまざまなレビューがネット上にはあふれている。だれでも評価できるようになった最近の方法は一見優れているかのように見えるが、実はかなり偏見に満ちている。本来個人差が大きい味覚に関する分野を統合して数値化することの意味が感じられない。どんなに多くの人がうまいと思うものでも、ある人には耐えられないものである可能性がある。その逆もある。

 よく行くレストランの評価を見てみたことがあるが、かなりの高評価で絶賛している人もいた。その反面、今まで味わったことがないほどまずいという評価もある。食味の評価はそういうものなのだ。私自身は良くも悪くもない無難な味だと思っている。ネットに書き込むのはそういうことが言いたいかなり特別な人なのである。特別な人の評価はそのほかの人のそれとは異なる。しかし数値にはその評価があたかも現実そのもののように提示されてしまう。

店の売り上げにも評価が影響するため、いわゆるサクラやアンチ的な書き込みをする人も多数いるという。ますます信用できない。そういうものだと思ってこの手の情報は使うべきだ。これは多くの人はわかっているはずなのに、だまされてしまう。思ったよりメディアリテラシーは身につくものではない。かくいう私もその一人であり、反省のために文字化してみた。

紫陽花の葉

アジサイ

 アジサイの花が曇天の下で輝いて見える。今日はかなり気温が低い。20度に達しないのではないかという予報である。何も考えずにいつもの半そでで出勤してしまって後悔している。

 周辺の地域では梅雨入り宣言が出た。もっとも数日前から雨が多いため、後から入梅の時期が訂正される可能性もある。低温と雨ならばある程度我慢できるが、問題はこの後にくる高温であろう。蒸し暑さを伴う霖雨はさまざまな害がある。心身ともにいい影響はない。

 そういえばアジサイの葉はあまり虫に食われない。それは表面に虫の嫌う成分が分泌しているからだという。カタツムリに食われている印象は間違っている。梅雨空を住みかとするものはたくましさが必要なのかもしれない。困難に立ち向かうためにはしかるべき戦略とたくましさがいるようだ。

EV

 すでに骨董品の域にある車に乗っている私にとって、電気自動車はいつも気になっている。環境問題の解決策というが製造から廃棄まで考えて本当にガソリン駆動よりいいのか知りたい。

 それよりも現状ではあまりに高価であることや、充電設備の不安が購入意欲を妨げる。日産等が発売した軽車両型の電気自動車は何とか手の届く価格になりそうだ。買えるとしたらこれだろう。今のところ充電できるスポットは少ない。これが増えた頃に検討してみよう。

 それまで自分で運転しようという意欲が続いていればだが。

楽器

誰に聞かせたい?

 楽器には様々な興味がある。こどもの頃から笛を吹くのが好きだった。中学生になってギターを始めた。どれも上手くはないが時々思い出したように再開したくなる。楽器を演奏し始めると暫く時間が経つのを忘れてしまう。この魅力はなんだろう。

 世界の楽器の中には木や石、動物の骨や貝殻などをそのまま使うものがある。叩いたり擦ったり、息を吹き込んで音を出す。音階ははじめはなかった。叩くのものの素材によって音色が違うことが音階の発見に繋がったのかもしれない。

 楽器の工夫が次々になされ、同じような音波を再現できる技術が生まれると音楽は公的なものになっていった。それを記号化して時空の拘束から逃れると音楽はコミュニケーションになっていった。

 楽器の魅力はそんな根源に関係するのかもしれない。音に対する素朴な感動と、その感動が他者と共有できるという事実の喜びが理屈なしに文字通り響きわたる。誰かに聞かせることを考えていなくても、演奏するときは聞き手を仮想している。誰かに聞いてもらいたいという欲望がどこかにある。

 楽器はその欲求を刺激し、しばしば成功に導く。演奏の旨さは関係ない。こう考えると楽器はコミュニケーションの道具ということになる。

価値観

ものの価値は人によって違うということが情報化社会の中でかえって分かりにくくなっている。自分は多数派だと思い込むことでいつのまにか自分の行動を正当化してしまう。

 最近、周囲の人たちの精神状態が良くない。何かに苛ついている。あるいは自分がそうだからそのようなことが目につくのかも知れない。

アジャイル

アジャイルとは素早さという意味があるらしい
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 アジャイル(agile)とは機を見て策を変える手法のようである。ソフトウェア開発で使われていたことばが経営学的にも援用されている。刻々と変わる価値観にいかに適応させていくかを重視する方法であって、不確実性の高い現在の社会状況にまさに適応するために生まれた。

 少し前ならばこういう考え方は低く見られがちだった。一貫したポリシーがないかのように見られがちだったのだ。あるいは弱者が生き残るための必死の策と考えられ、余裕のあるものはとるべきではないと考えらえていた感がある。

 アジャイルのような考え方が主流派に加わりつつあるのは、やはり予測不能の時代への対処を何とかしたいと思っているからだろう。特にわが国には前例踏襲の伝統があるといわれ、それが発展を阻害していると言われている。私はこれには反論がある。

 日本文化は中長期的には常にアジャイルで進んできている。伝統を守ると言いながら常に新しい要素に寛容であった。よく考えてみればこの日本語自体が時代とともに様々な外来のものを取り入れて変化しているではないか。

 昨今の時代変化はこれまでとは異なり速度や影響力が多大である。それに対応するには日本列島に住んできた人たちが土着的に身に着けてきた臨機応変性を思い出すのが一番だと思う。神道的なものから仏教や儒教といった宗教的なフレームを受け入れベースにしながら、次は資本主義や西洋科学の概念を模倣し文化に取り入れた。情報化社会となった現在も海外からさまざまな考え方や物品が来ているがこれを貪欲に取り入れ、和風化し、その都度取捨選択して形を変えていく。日本式アジャイルはここにある。

 完成品ばかりを理想としてそれにランクをつけるという考え方も実は歴史は浅い。なければ自分で作ればいい。そう考えてきた。そうして次々に自分の身の丈に合ったものに変えてきたこの国の歴史的土壌に自信を持っていいのではないか。日本文化が他国のそれと比較して特に優れているとは考えていないが、先祖たちが築き上げ、いまの日本人にも受け継がれていることは確かに尊いものがある。