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条件変更

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 創作的な目的でもしこうだったならばと考えることがある。設定条件の変更である。大抵の作品はこの手法で作られており、基本的な考え方である。

 現状以外の条件に変更するものとして、時間や場所、年齢、性別、環境などいろいろなパラメータがある。それらを組み合わせたり、何かを大きく変えたりすることで創作上の世界が完成する。多くの場合、大きく変更するものと、それに伴う付帯的変化を設定して話を作る。例えばもし急に他人の考え方を見透かすことができればとか、逆にとんでもないハンディを持ったらといったふうに。

 小説家でなくてもこの妄想は面白いし、意外に役に立つかもしれない。日常の視点から離れることは新しい考え方を導くきっかけになる。

情報の壁

検索すれば分かるだって!

 ネットでニュースをみていると次第に小さな世界に閉じ込められていく。検索によって瞬時に様々な情報にアクセスできるから、一見世界は無限大に広がる気がする。しかし、実際は逆で普段の作業で自分の居場所を少なくしている。

 You Tubeを開くとかつて見たことがある動画と関連のあるものでタイルが埋められる。私は睡眠導入のために精神安定を歌った音響動画をよく見るので大半がそれである。3分で眠れるというなぜか10時間を超える動画を数日見たらそればかりになった。

 ニュースも同じだ。教育問題のニュースを続けてみるとそればかりになるし、株式市場の今後が気になると、しばらくはそればかりがスクリーンに並ぶ。結果として自分の関心のあることばかりを見せられ、それ以外の問題は矮小化される。

 どんなに万能にみえてもネットに頼りすぎてはならないということだ。様々なものを映し出す小窓は実はかなり意図的で強い偏光レンズが組み込まれている。いかに限定的てあろうと自らの目で見るに如くはない。

分解者

 生物学の世界では生物をほぼ最終的に分解するものを分解者と言うらしい。カビなどの仲間がそれに当たる。しかし、実感としては蟻などの昆虫や、ミミズなどが思い浮かぶ。いわゆるスカベンジャーと言われる動物たちも広義ではこの仲間ではないか。

 通勤途中の道端にセミの亡骸が落ちていた。これからはよく見かけることになる。少し時間をおいて通りかかると蟻がたかっていた。炎天下なのに補食の方が優先されるようだ。普段ならば気持ち悪いとはき捨てるところだが、なぜか生命力の強さを感じて少々感動した。分解者としての位置づけはあくまで人間の視点による。それぞれの生物は自らの種の保存のため日々を生きているのだ。

 人は知恵を手に入れたばかりに生きる意味とか、禍福とかを考えるようになった。毎日それで一喜一憂の繰り返しだ。たしかにそれは幸せなことかもしれない。幸せという概念を獲得したこと自体が奇跡的なことなのだから。

適応

進化できるかな

 人体が環境にどう対応していくのかを考察したものはいくつかある。そのいくつかはファンタジーと言える類であり、ホラーとしか思えないモノもある。

 進化という名で呼んでいいものなのかは分からない。ただ環境に対する対応ということに関して言うなら人体は確実に変化していくだろう。さらに人為的な改変も加わる。外見を一時的に変えるだけではなく、遺伝子を操作して根本的に変えてしまうことはこれから普及していくはずだ。人工的な機能を内蔵することもあるだろう。コンタクトレンズ型ウェアラブルデバイスはもっとも実現しやすいものという。何かの漫画ではないが機械伯爵との対決は嘘ではないのかもしれない。

 ただしこういう話の大前提は人類がヘマをしでかさないことだ。環境汚染で自滅したり、核戦争で未来の可能性を断てば何も起こらない。

尺を変えてみる

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 日々の瑣事に取り紛れ身動きが取れなくなったように感じるときは、尺を変えてみるという方法がある。この数日、この数か月、この一年では大問題であっても、10年を単位にすれば文字通りの瑣事になってしまうことがある。

 もっと縮尺を変えて世代という単位に広げたり、時代という単位にしたり、もしくは世紀、もっと上げて地質時代の紀を単位にすればもう今日のことなど目にも見えなくなる。これは一種の逃げの手なのであるが、たまにはこういう方法をとるのも面白い。

 夜空を見上げれば多くの星があるが、その多くはかなり昔の光が届いたものだ。過去の輝きを見ているのに過ぎない。尺を変えるというのはそういうことだなのだろう。今見えているものがすべてではない。そう考えることで救われることもある。

ひかえめに

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 かなりひかえめに蝉が鳴き始めた。今年は蝉が少ないと思ってしまうが、真実は蝉の鳴く季節の前に真夏の暑さが来てしまったということだ。

 蝉が鳴くと生命の高まりを感じることもあるが、騒がしくもある。しかし、あるべき風景に蝉が鳴かないと何かおかしいと感じてしまうから不思議なものだ。ニイニイゼミは年々少なくなっている気がするし、アブラゼミやミンミンとともにクマゼミも増えてきたと言われている。そのどれもがいまのところほとんど鳴いていない。

 昨日は近隣の市で出された洪水に関する避難勧告の警報音に驚かされた。被害は出ていないようだが、今後も豪雨が降る可能性はあるということなので気をつけねばなるまい。

ゲームを作る

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 ゲームを楽しんでいる人が多いのは今に始まったことではない。私も以前それに多くの時間を費やしたことがある。気休めや現実逃避にはよい。問題なのは無意識のうちに他人が決めたルールのもとで泳がされていることだ。ゲーム好きの人の中にはその感覚がなくなっている人がいるように思えてならない。

 これは比喩的に現代人の行動の大半に当てはまる。高度に完成されたシステムをプレイヤーとして操作するだけで、そこに自らの創意や工夫はない。そもそも自分ができることはほとんどないか、できても成就する可能性は低いと考えている。だから、そういうことができるとは思っていない。

 他人本位の世界の中で自分の位置をこんなものだと位置づける。それには本当は何の根拠もない。しかしゲームの世界ではたとえばその成果が得点となって可視化される。自分の位置はどこにあるのかが疑似的に示される。それはある意味、快感であり、屈辱にもなる。いずれにしても自分の立ち位置が分かる気がするのは実際には曖昧な現実社会の靄を晴らしてくれる。

 そもそも私たちがこの世に生まれたとき、既存の社会というシステムの中で生きることが決められている。だから、きまったルールに従って生活を営むのは仕方がないのかもしれない。ただ、ゲームをする人はその宿命的な枠組みをあえてさらに狭めて自分の精神を閉じ込めているのではないだろうか。むしろ自ら小枠にはまる選択をすること自体に生きがいを見出しているのかもしれない。

 私たちに必要なのはゲームで遊ぶことだけではなく、ゲームを作ることではないかと考える。作家の森博嗣氏のエッセイに、子供ころおもちゃは自分で作って楽しんだという話があったのを覚えている。ないものは作るという環境が創作的な人生を導いたと拝察した。比喩的に言えば既存の社会の中で、既存のルールでプレイするだけではなく、時にはルールを考えて新たな遊びを考えることが私たちに求められているのではないか。

 何をやっても徒労感と無力感、相対的な敗者としてしか自分を考えられない現代人にとって、こうした考え方は幸福の追求という観点からも大切なのではないだろうか。

恩師

 大学時代の恩師が突然訪ねていらっしゃることになった。そこで酒食を用意して歓待しようとする。こんなに夜遅くどういうことなのだろう。

 なかなかいらっしゃらないことを心配しているうちに、布団がないことに気づいた。どうすればいいのだろう。出かけている母に電話で聞いてみることにした。しばらく帰れないから、番号案内に電話して貸布団屋を探せばよいとの答えを得た。そうかその手があったのか。分かったと理解した。それにしてもなぜ帰って来ないのかと尋ねようとしてはたと思考が止まった。

 先生はもう何年も前に逝去されていた。実家の母はすでに外出などできる状態ではない。なにかおかしい。

 これが夢であることに気づいて時計をみると丑三つ時だ。実に古典的夢オチである。なぜこんな夢を見たのだろうか。ここ数日の疲労感と体調異変やもしかしたら気圧の急降下が影響したのかもしれない。

 そういう科学的解釈とともに、何らかの不安が映像化したものとも考えられる。恩師に世話になっていた頃はもっとも輝いていた時代だという思いがある。懐古を通り越した回帰願望が出てしまった可能性がある。

 正気に戻って考えることは、有為転変の中で過去にとらわれることは免れることはできないという通念の確認だ。ただ、過去には戻れない。戻れたとしてもそこにすばらしい何かがある訳ではない。今を生きるしかないし、それこそが生きるということなのだ。

 夢の中とはいえ、恩師と少しお話できたのはよかった。そして今もなお教え導いてくださっていることに感謝申し上げたい。

夏の宿題

計画は立てないよりはまし

 教員には夏休みがあるという人もいるが意外に夏は忙しい。合宿の引率が入ると24時間営業のn倍の労働があるし、部活動顧問としても時間外労働が課せられる。決して休めるわけではない。

 とは言っても、日常の多忙さからは軽減されるので夏はインプットの機会として活用することにしている。仕事関係の本5冊とそれ以外5冊は読みたい。この中にはテスト問題を作る素材探しは含めない。地域との関わりを考えて、何らかのイベントに参加したい。とりあえずは客として行くだけでいいが、その後はボランティア参加できるものを目指す。

 一向に上手くならないギターやウクレレの曲を3曲は仕上げたい。仕上げるというのは人前で聞かせられるレベルにするということだ。

 このブログのアクセスを10倍にしたい。芸能ネタ等を使わずに、今のような随筆で人さまのお役に立つものを書くにはどうすればいいか。考えていきたい。10倍というとものすごい感じかするが、かける前の数が微少なのでそれほど増える訳ではない。

 といったことを私の夏の宿題とする。宿題はたいてい終わらないものだ。終わらないときは何とかしなくてはならないものだ。これは教員が言ってはならないことだった。

人任せにはできない

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 残念ながら安倍晋三氏は逝去されてしまった。心から哀悼の意を表したい。国のために生きた政治家として尊敬する。容疑者が政治信条に対する恨みではないと述べているらしい。宗教団体の幹部を狙ったなどとも言っている。もしこれが本当だとすれば、この何とも訳が分からない者の手によって元首相が殺害されという事実が悲しい。理由が何であれ、暴力で現状を変えることは間違いだし、絶対に許すことはできない。

 安倍氏はマクロ経済に着手することで日本の国力の復活を目指したのかもしれない。結果的に復活はせず、国民は金融政策に守られているという安心感だけを得て、成長ができないまま停滞してしまった。既得権を持つ者の利益はある程度守られたが、新興の個人や企業には厳しい政策を続けている。その流れはいまも続いている。結果的に安倍氏の目論見は達成できないままだった。

 金利を下げ、金回りをよくするだけでは経済は動かないという事実が、安倍政権以降の政策で明らかになった。これは残念ながら、いかんともしがたい事実なのだ。日本の将来のためには別の方法がとられなくてはならない。新しいものを生み出すことに価値観を見出し、それを応援することができる社会的なコンセンサスが必要だ。

 安倍氏が結果的に命を懸けて変えようとした日本の状況を私たちは引き継いでいる。残念ながら政府に任せていると同じ事が繰り返されるだけだ。まずは国を変えるという意志を持たなくてはならない。おそらく最も優先しなくてはならないのは自分たちの未来を人任せにしないということだろう。日曜日の参議院選挙の投票はそのための第1歩だ。