タグ: 自己啓発

思い込み

 

歴史上の人物の印象はある程度固定化されている。この人はこういう人物だというラベリングがなされている。その方が理解しやすいからだろう。真実とは違っていても。

 人生は多様で複雑であり、とても一言では言い表せない。でも複雑なものをそのまま把握することは難しいので、どうしても角を取る作業がいることになる。取られた部分は決して不要なものではない。あくまで単純化の過程で切り落とされるものなのだ。

 彼はこういう人物だったというとき、それはごく一部の側面を捉え拡大して述べているのだ。もし自分の獲得した人物評を熟慮する時間と能力とがあれば、思い込みに過ぎないのだと気づくはずなのだ。

 歴史上の人物だけではない。周囲の人への人物像もまた、多分に思い込みの産物であることをときに思いださなくてはならない。

秋の気配

Photo by Aubrey Miller on Pexels.com

 残暑が厳しいのは変わらないが、それでも日暮れの街を歩くと、方々から虫の音が聞こえてくるのが秋を感じさせる。気が付けば8月も最後の日曜となり、来週からは新学期にもなる。

 時間の区切れというものはしょせん人為的なものであり、実際は不断の流れの一場面に過ぎない。それだと実感ができないので、いまは何時、季節はいつと命名しているだけだろう。いかなる分節をほどこすのか、そこにどのような意味づけをしていくのは文化による。極端に言えば個人の感性によるものともいえる。だから秋を悲愁の季節と考えるか豊穣の歓喜による季節とするのかは人間側の問題だ。

 食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋、芸術の秋、月見、紅葉狩りなどさまざまな秋の捉え方があるが、どれもいかに意味づけするかということになる。ならば、私は私なりに季節を捉えなおしてみようではないか。秋は衰退ではなく復活の季節ということにしたい。陽光は減り、気温は下がるのでマイナスのイメージを持ちやすいが、暑さの支配から逃れ、自分の行動が解放される季節として位置付けてみようと思う。

 こう考えると虫の音が頼もしく聞こえてくる。要するに気の持ちようなのだろう。

好きではないが

I don’t like it, but…

 好きではないがやらなくてはならないことがある。生きているからにはそんなことの連続だ。組織の一員の場合は、特にそういう機会が増える。やらねばならないことが、自らの価値観から遠いとき、いかに振る舞えばいいのだろう。

 倫理的な問題になる場合は、思い切って止めることを選択肢に入れるべきだ。組織から離れることも必要になる。生活がかかっている場合は容易ではないが。

 それほどはない場合、これが大半の事例だろう。その場合は調整するしかない。その手段としては相手を変えるか、自分を変えるか、その両方かだ。指示するものにそのやり方は間違っていると指摘して、納得してもらえばやらなくてもよくなるかもしれない。少なくとも何らかの改良がなされる可能性がある。だが、残念ながら相手が動かない場合は自分の方を変えるしかない。これは仕事だからとか、報酬を得ることが目的だからとか、こんなやり方は続くはずはないから、とりあえず乗ってみるとか、そういう言い訳を作るのだ。嬉しくないがこれがとりあえず取れる手だろう。

 理想的なのは相手の改良案を引き出し、それに自己参加の意識を持つことかもしれない。それであまり好きではないやり方でも自分の意見が反映されたと思える。モチベーションを保つにもよい。

 大切なのは大きな目的に反しないか吟味することだ。喫緊の課題には妥協してもその先の何かは譲らないという考え方が肝要ということになる。

別の道

行き方はいろいろ生き方もさまざま

 不景気になりつつあるだろうか。世情に寛容さが失われつつあるのを感じる。こんなことを書くと印象で判断するべきではない証拠を示せと言われそうだ。なんでも証拠がないと動かないのも今の風潮だと言える。

 山の登り方には何通りもあるように、何も最短ルートを行くのがよいとは限らない。危険だから全員迂回するようにというのも何か間違っている。極端な例だが、このように選択肢をある程度絞って、その中から選ばなくてはならないというのが現代の日常だ。

 それに息苦しさを感じると洒落ではないが生き苦しくなる。その人なりのやり方があっていい。それが一見非効率であったとしても。

 他人に迷惑をかけるのは論外だが、そうでないならば様々なやり方を認めてもよい。それが自分の特権としてあるだけではわがままに過ぎない。他人のやり方を寛容することに世の中を変える鍵があるのだろう。

後半戦の決意

かっこよく走る

 まず、定時退社を目指す。これは逃げではなく切り詰めである。少し前までは、頑張れば得られるものもあった。残念ながら最近は無理が効かない。だから何事も短期決戦だ。やれることを先にやり、それ以上は望まない。これが最近の最適解だ。悔しいが、粘りは効かない。

 年度の後半という意味において何をすべきか、そして何を止めるかを明らかにしたい。これはかなり切実な切り詰めでもあるが身のほどを考えた決断でもある。表現の方法は様々なあるものの要するに何をすればいいのかを納得するための自己啓発である。

 次に結果に関心を持つことだ。短時間勝負ならばその成果が問われる。この評価には耐えなくてはならない。何をやったのか、それが全体の何に寄与するのかは說明する必要がある。このあたりはシビアでありたい。

 長くやって得られることは多い。これまでのやり方はこれだ。失敗しながらも仕事を覚えていく方法だ。しかし、いまはその余裕が持てない。だから、今できる最大のパフォーマンスを目指すがそれ以上は求めない。そういうやり方を目指そうということだ。

 私にはコペルニクス的転回であるがこの歳になって貢献できることはやるべきことを余裕をもってこなすこと以外にない。

ハードな時代に備えて

岩間の花

 残念ながら日本の将来を悲観的に考える人は多い。これまで得意分野とされていた分野がふるわなくなり、結果として競争力が落ち込んでいる。高齢化や自然災害リスクなど不可避の負の要因が多数存在することも悲観論に拍車をかける。ハードな時代が来ることは避けられそうもない。

 不安な時代には想定外のことが起きやすい。犯罪の数が増えたり凶悪化する可能性がある。犯罪とまではいかなくても精神的な闇にとらわれる人が増えてくるのだろう。現在すでにその傾向を感じるが、より顕著になっていくはずだ。

 そのような時代を改善する方法はないのか。政治や経済に関する分野には叡智を期待したい。危機的状況にあるというコンセンサスは共有されつつある。立場がある人が決断を下しても非難されることは少ないだろう。非難されても国のためになると思うことは提案してほしいのだが。

 もう一つは心の安定をもたらす文化的な側面の発展だ。優しさや思いやりをテーマにしたものも、破れても立ち直るという打たれ強さを示すことも求められるかもしれない。押し付けでは意味がない。そういうものが必要となる時代を見据えて創作するアーティストが現れてほしい。

 難局を乗り越えられるかどうかは共同体の総合力が関係する。そういう時代に生きていることを自覚して自分のやれることを少しずつやっていくしかあるまい。

進化の不思議

 動物の進化という現象は実に不思議だ。環境に適合するために少しずつ身体の形を変えてゆくというのだが何ともしがたい。偶然形を変えたものが生き残って子孫を残したということなのだろう。

 人間が進化の最終形態のように考えるのは科学的ではない。わたしたちもまた日々形を変えており、未来の人類がいまと同じ姿をしている可能性は低い。それかどのようなものなのかは分からない。

 命というのが可変のものということはあらためて覚えておかねばならない。

言い訳

 最近、このブログで誤字や脱字が増えている。今回はその言い訳をする。我ながらずうずうしい企画だ。

 誤字が増えた第一の原因は私の視力の低下にある。老眼が進んでしまったようでスマートフォンの文字がよく見えない。通勤電車の中で手短に入力する関係で見えなくても勘で決めてしまうことが多い。それが誤字の生まれる要因だ。

 まだある。いわゆる予測変換という便利な方法は時間短縮のためには役に立つ。ところが私のようなひねくれたことを書く者はコンピューター氏の予想を外れる語を使いがちだ。それをよく見ずに確定すると見事に変な日本語になる。

 まだある。私の注意力低下という如何ともし難い現象だ。これが根源にありそうだ。残念だが認めざるを得ない。

 私のできることは、気がついたときに直すことだけだ。時々過去の記事を読み直し、誤字や文意不通の箇所を書き直している。だから私のブログは過去記事が平気で変わっている。その方が誠実だろうから。というのが私の言い訳である。

メニューはございません

Photo by Pixabay on Pexels.com

 外食のデジタル化でもっとも顧客にとって顕著なのは注文の仕方である。かつてからそういう店はあったが急速に増えているのがタブレットを客に操作させる方法だ。初めてそういう店に入ったときには大いに驚いたが、いまはかなりの頻度で出会う。

 その手の店の中にもいわゆる紙のメニューを置いている所と全く置いていない所とがある。置いていない店はウエイトレスは席の案内くらいしかしない。後はタブレットでお願いしますと言って去っていく。もっと進んだ?店はタブレットさえ置いていない。自分のスマホかなにかでそれを読み取って店のWEBにアクセスし、そこから注文してくれというのだ。こうなるともうテーブルの上にはQRコードが印刷された紙切れ一枚しかない。

 デジタル化はもちろん重要だ。特に人手不足かつ収益性の低い外食産業においては必要だろう。ただ、なにかが切り捨てられた気がする。それは熟練されたサービスであり、安心感であり、安らぎのようなものだろう。もちろんうまい料理が食べられればいいのであり、それが安ければなおいい。そのための手段として接客のデジタル化は不可欠なのだろう。それが嫌ならば、接客に長けた社員を多数雇用する店を選ぶべきだ。残念ながら、そういう店はどんどんなくなっていくし、あってもかなりお高い店となる。サービスはタダではないのだ。

 では、これからの外食産業はどうなっていくのか。まず、安価を維持するために徹底的な合理化を進めていく路線がある。これは今の主流だ。セントラルキッチンようなところで調理された半製品を冷凍や真空包装で各店舗に届け、調理場では最低限の光熱費で最終調理をする。特別な技能はいらないので、安価な報酬で調理師を雇えばよい。ウエイター・ウエイトレスは高校生か、高齢者を雇用してすぐに交代させる。必要最低限しか雇わない。バイトの単価が上がらない前に解雇する短期契約でつなぐ。接客はほとんど機械化しているので、そこそこ愛想がよければいい。片づけ、食器洗いは最低限にして多くは機械化する。いまでもその気はあるが、自動洗浄のレベルではよくても、心情的にはもう少し洗ってほしいという食器が来ることがある。しかし、この種の店では今後もそれは改善されず、質的向上はまずないだろう。

 もう一つの路線はやたらと高級化していくことだ。安価なチェーン店と同じことをしていてはとても勝てない。そこで店員はいずれも志の高い正社員をそろえ、最高級の接客をする。食器の質、洗浄の度合いなども洗練される。もちろん料理はその都度、シェフが作る。季節によって少しずつ味が異なるのは、シェフのさじ加減がかわるからだ。顧客はとても幸せな気分になれる。チェーン店で同じ名前のメニューを頼むと一桁安い値段で食べられることはわかっていても。

 極端に書いたが、格差が広がる日本社会の未来として十分にありうることだ。外食産業はそれが分かりやすいが、こうした違いは各所に現れるだろう。IT化は人々を全体的に豊かにするという人もいるが、少なくとも過渡期においては格差を助長することになる。

 私たちは振り回されないことが肝心だ。便利なものは使い、便利でも気分に合わない者はあえて使わないという判断をしていかなくてはならない。デジタル化が世の中を素晴らしいものにするという単純な論理に乗らないことだ。