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捨てること

 整理の苦手な私の言い訳である。盛んに捨てることを奨励し、本来の意味とは異なる断捨離という概念まで当てはめて知的営みを軽視する動きはいつまで続くのだろうか。大量生産、大量消費を美徳としてきた時代が行き詰まったからといって、それを個人の怠慢に帰結していく発想には社会的欺瞞を感じる。

 捨てることを前提としたものの作り方や買い方を改めていかねばならない。使えるものはとことん使う。様々に応用して活用することこそ現代の状況に合っている。そのためにはメンテナンスの手法や経験を蓄積した専門家や、修理が手軽にできるメカニズムの構築などを考えていくべきなのだろう。

 捨てれば片付くという発想は自己欺瞞と社会的損失を拡大するだけだ。

校歌

校歌覚えている?

 卒業した学校の校歌を歌えるだろうか。校歌のことを考えると様々な物語が思い浮かぶ。

 流石に幼稚園に園の歌があったのかは思い出せない。小学生時代は転校を繰り返していたので4校に通ったことになるが、そのうちの1校はどうしても思い出せない。また入学した最初の学校は新設間もなかったらしく校歌がなく、行政自治体の市の歌を歌った。やたらと難しい歌詞と曲、作詞は森鷗外と自覚したのは何年も経ってからだ。

 中学校からは対外試合の応援などで歌ったからよく覚えている。住宅地の小さな学校で残念なほど狭い校庭だった。ここではいろいろな大切な時を過ごしたが、残念なことに廃校になってしまった。校歌には過密都市になる前ののどかな風景が歌われていた。

 元女子校であった高校の校歌は複雑で合唱曲のようだった。通して歌える生徒は多くなかった。それでも、試合の時の応援には声を揃えて歌った。およそ応援には向かない優雅な曲であったが。

 大学の歌は応援歌の方が有名で校歌(正式にはそう言わないが)は知られていない。でも野球の応援などで歌ったのでいまも歌える。

 校歌のことを考えると過去のいろいろを思い出す。ところで卒業した学校がすべて存続している人はどのくらいいるのだろう。その人はかなり幸せだ。

性能の定義

使いやすさを優先したい

 新しいコンピューターを買うとき、いわゆるスペックに拘るのがこれまでの私の考えだった。性能が上がればできることが増える。所有欲も満たす。しかし、そういう高機能は使わないことも多い。

 いま使っている家庭用のラップトップはかつてなら選ばなかったレベルのCPUなのだが、殆ど動画を扱わない私にとってはなんの不自由もない。すごく遅いというレビューは信憑性に欠ける。恐らく何をするかで必要な性能は変わるのだろう。浮いた値段で何か他のことをするほうが実りが多いはずだ。

 如何に使うかということが機器の性能以上に重要であることを確認しておきたい。こだわるべきこととして使いやすさという面を再認識したいということである。

そこに至るまで

 

今に至る道

ものごとの評価をする際についおかしてしまうのがいまあるのものの姿だけで判断するという誤りだ。なんでも簡単に手に入ると考えられる現代は物の価値が下がった。それとともに忘れてしまったことがある。

 目の前にあるモノやコトが今の形になるまでには様々な物語があったのだろう。試行錯誤の末にここにたどり着いたはずだ。中には身を削るような悲劇も含まれていたはずだが、大抵の場合、それは深層にあって見えない。その過程の一つ一つに関わった人への敬意が抜け落ちてしまっている。

 こうしたことに気づくためには歴史を学ぶ必要がある。人や国、地域に歴史があるようにものにも来歴がある。その想像ができてこそ、物事への敬意と、深い意味での批判が可能になるのだと思う。

シナリオのネタ

いま考えている短い演劇のシナリオのことを書く。自分のためのメモだ。

作成中

 この舞台には何かが足りない。足りないことを積極的に利用者する。具体的には観客の想像力だ。ないものを勝手に想像してもらって完成させる。

 例えば大道具などが足りない。これは能舞台のような日本演劇の伝統があるから、客も受け入れる準備ができている。森の中に教室にも、戦場にも天国にもなる。何か象徴的なものを置くだけでいい。

 あるいは役者が足りない。本来配役すべき役者がいない。これは観客に感情移入してもらうことで見えない役者を作り出す。見えない、存在しないから、逆になんでもできる。

 こういうシナリオを書きたい。少しだけ構想はできている。本筋とそれに絡むサイドストーリーとの関係が未完成だ。少しずつ形にしていこう。

残響

音のない音

 あるコンサートを聞いて気づいた。よく言われることだが演奏は音符のあるところだけで聞かせるのではない。むしろないところに表現が生まれることもあると。

 演奏中の休符はもちろんだが、演奏前や直後の残響に説得力のある表現がある。これは観客である私の思い込みなのかもしれない。それがもし演奏者が意図して仕掛けているのなら、私はその技法にまんまとやられていることになる。

 日常生活の中にもこれと同じような表現を感じることがある。何も話していないのにある種のメッセージが伝わる。この効果を見直したい。発言や動作だけが伝える方法ではない。

情報処理重視

考えるには時間がかかる
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 あまりに情報処理重視の教育に少し反旗を翻したくなる時がある。そんなに物を覚えて、すぐに忘れるような教育をなぜ続けるのか。先人の生み出した知識の価値をまるで大量生産された商品のように扱うことを良しとする考えがなぜまかり通るのか。わからないことだらけだ。

 もちろん、世界の情勢の変化が急であり、それについていくことが大事なのはわかる。でも、だからといって、何もかも情報の断片として等質化してとらえるのはいかがだろう。今の教育は考えることを軽視しすぎだ。効率的にやればいいという。PDCAサイクルを金科玉条のようにいう教育者は完全になにかに毒されている。知というものがあたかも効率的な作業の一つのように考えているのだ。彼らにはきっと新しい地平は見えない。

 私はもっと晦渋な局面を右往左往する時間があってもいいと考えている。その時間を子供たちから奪うことを良しとしない。効率的に学習することばかりを重視する教育を受けたものは、生産性という言葉を繰り返しながら、結局なにも生み出せまい。

 伝統的に人は多くの無駄を行い、その中で新しい局面を切り開いてきた。無駄がなければ新局面は見えない。それはAIのような効率性を第一に考えるものには見えない世界だ。教育現場にいられるのもあとわずかだから、この無駄に考える時間の大切さを訴え、ひそかに実践していこうと考えている。粛清される前に。

優先順位

 私の仕事の失敗の多くの原因は優先順位の把握の間違いによる。どんな仕事でもそうだと思うが私の場合、仕事の種類が多く、何から手をつけていいのか分からなくなりやすい。

 グーグルが提供するメールやカレンダー、タスク管理のサービスはよく使う。しかしこれもすべてが同じように記録されてしまうのでだんだんわからなくなる。保存性やリマインダーのあることなど捨てがたい機能があるのでまずはこれでいく。

 もう一つがいわゆるバレットジャーナルである。手書きのタスクリストや仕事メモを机上に置く。二度手間になるがこれくらいしないと私の場合はだめだ。最近気づいたが手書きメモはあまり画一的な書式にしない方がいい。平準化しないよう書き方に工夫する。これはリングノートなど開きっぱなしにできるものにする。

 基本的に自分を信用していないのでこれだけでは足りない。信用のおける同僚にやるべきことをつぶやく。別に覚えておいてほしいわけではない。他人に話すとそれなりの自覚が生まれる。運がよれけばリマインダーになってもらえる。

 こんなふうにしているのだが、それでもエラーがある。残念ながらこれは己の現実と認めるしかあるまい。

31日

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 8月31日は小学生にとっては特別な日だった。いまはどうかは知らない。宿題提出を明日に控えてまだやっていないものを親に叱られ、泣きべそをかく間もなくなんとか仕上げるように言われる。

 困るのは天気の記録をつける日記のたぐいだ。今はネットで調べれば天気や最高最低気温などの情報が即座に手に入る。余計なおせっかいとして新聞に夏休み期間の天気と温度のような「神」広告を出した企業があった。私はその時点で小学生ではなかったのでうらやましく思ったものだ。

 夏休みの宿題の山は自由課題だ。私の場合は工作をすることが多かった。低学年の時は水族館というおもちゃを作った。お菓子の紙箱のふたを切ってセロファンを貼り、なかに紙で作った魚や海藻を飾る。一回目は褒められたが、次の年も同じものを出したらこれ以外にしなさいと言われた覚えがある。高学年になると木工をやった。ところが31日の午後になってもできない。ある年、どういうわけが父が休みでそれなら手伝うと助け舟を出してくれた。父は比較的器用であり、凝り性なところもあった。

 虫かごやマガジンラックを作るのに明らかに小学生の能力以上のものを作ってしまう。それだけならばいいのに、なぜか金のラッカースプレーを吹き付けて完成とした。個人的にはなぜ金なのかは分からなかったし、やりすぎな気がした。それでもその父の作品を提出したことで叱られずに済んだ。その作品がどのような評価を受けたのかはなぜか記憶にない。

 8月31日になるとなぜか思い出すのだ。