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自己暗示

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 自分はできると思い込むことが大切だといろいろな場面で耳にする。スポーツ関係者はその結果がすぐに出る現場にいるから、そのことを体験的に知っている。脳科学者は脳の構造上の問題であるという。教育関係者もこうした事例から自分や他人をほめることを推奨している。

 逆もあるそうだ。自分はできない、身体的に衰えた、環境が悪いなどという人はいい結果を残しにくいそうだ。負の自己暗示だという。苦しいときほど笑顔になれというのはどうも当たっているらしい。なかなかそれができない場合は一度何か別の行動を意図的に挟み込み、失敗や落ち込みを意図的に遠ざける方法もあるそうだ。あえて関係のない動作をしたり、話したりする。それをするうちにマイナスの感情が薄れるというのである。

 自己暗示は閉塞的な状況を生き抜く上での生活の知恵となりそうだ。せめて気持ちだけはポジティブにして、やるべきことをやっていこう。うまくいかなくてもいい。続けることで進歩が期待できるはずだ。

売り声

 近隣の商店街に印象的な売り声で衆目を集めている人がいる。よく通る声と独特の言い回し、声の強弱と間が原因らしい。何がいいのかは分からないが、確かに人を惹きつける売り声は存在する。

 思うに声の大きさや質だけの問題ではない。客との間合いを読んで絶妙なタイミングで声をかけるのがいいようなのだ。これは経験から獲得されるのもなのだろう。

 どんなことにも達人の技がある。それに気づくことは難しく、真似ることはさらに困難だ。しかし、せめてアンテナを張って技を見逃さないようにしたい。

楽しませる

 最近思うのは自分が心から楽しむのには他人を楽しませるにしくはないということだ。歳を重ねると、安易な娯楽では満足できなくなる。大切なのは他人に自分が施した何かがリアクションとして受け取れることだろう。独りよがりではいけないが、一面の事実であることは確かだ。

排除

 閉塞状況で考えることの一つに悪い要因を排除すればいいという考え方がある。現状がうまくいっていないのは特定の要因があるとして、その要素を排除しようとする考え方だ。これはいろいろな危険性をはらんでいる。

 まずマイナス要因と考えられたものが本当に負の要素なのか分からないことだ。もしかしたら本当は別の要因があるのにも関わらず、安直に悪因と認定しているのではないか。結果的に弱者に罪をなすりつけ、本質を見逃しているのではないかということである。

 この間違いは残念ながらかなりあると察する。誰かを悪者に仕立て上げ、真実を省みないことは結果的に全体の不利益に繋がる。それをもっというべきだ。一部のアジテーターに騙されてはいけない。

 安易に排除に走る傾向を私は非常に危惧する。机を片づけるのと人の配置を変えるのは全く別だ。それを執拗に伝えることは、時代遅れの人々の役割かもしれない。

その人らしさ

 絶対的な正解がある場合は全力でそれに近づくことを目指すべきだ。それが努力というものであり、この行為は必ず報われる。だが、正解のない問いの場合はどうだろう。

 世の中の大半のものは実は正解が分からない。現時点では正解と思うものが、実は間違っていたということはいくらでもある。暫定的な正解をあたかも真実であるかのように。考えるのは錯覚というものだろう。

 だから、かならずしも合っているとは限らない正解だけで判断するよりも、その問題に如何に向き合い、どう結論したのかということを評価の対象とするべきなのだ。プロセスを見ることの大切さを忘れてはならない。

 現状では結果ばかりを重視する状況にある。結果から遡及するのがよいとも言う。しかしこの考えでは新しい考えは生まれない。手っ取り早く多数派の意見にたどり着いたほうがいいのだろうか。私は中長期的にはそうではないと考えている。

 大切なのはその人らしく何をしたのかということなのだろう。単なる比較の問題ではない。そういう評価がどうしたらできるのかを考えるべきだ。

短時間集中

 まとまった学習時間が取れない場合、十数分の短い時間でも積み重ねれば効果はあるという研究があるそうだ。やってみる価値はある。

 集中的な時間が取りにくい要因はいくつかあるが、多忙はその一つだ。そういう毎日を過ごすと仮に時間が空いても学習に集中できなくなる。これは自分の側の問題だ。ほかにも環境的な理由や健康状態とかいくらでも訳はある。

 そういう場合は、時間を割り切って短くしても継続することが大事なのだという。習慣化できればそれなりの効果はあるのだとか。

 私の場合は通勤電車の中でこのブログを書いている。使える時間は数十分、着くまでに仕上げようと思うからこそ続けられているのかもしれない。

求められているものは

 自分の努力のわりに評価がされていないということはよくある。逆に意識はしていないのにいいと言われることがある。意図と反応が異なるのはいろいろな場面で見られる。この事実を考えてみよう。

 自分はこれだけ頑張ったから認めてほしいと思っていても、満足した結果にはならないことがある。くたびれもうけのように感じてしまう。その理由は、自分が評価を求める要素が、実はそれほど完成度が高くないか、高くてもほかの人にもできる人が多くてそれらに埋没してしまうか。あるいはそもそも自分のイメージに合わないものであるものかといった様々な要因があるのではないか。さらには認めてほしいというアピールが足りないのかもしれない。自分が思うほど努力の跡を人は見つけてくれない。

 逆に実は他人に高い評価を受けているということもあるかもしれない。残念ながらそれを口にしてくれないから感知できない。たとえば、自分の存在が組織にとっては重要な役割を果たしているということなどである。強面でそこにいてくれると緊張感が保てる。取り立てて活躍はしていないが、その存在がほかのメンバーの心の安定と、人間的なつながりの触媒のような役割を果たすといったこと。物事を迅速にこなすことが他の手本となっていることや、逆にマイペースなのがいいということなどだ。こういった気質や性格に関する評価は表現が難しく、また本人にあたらめて指摘する機会もないため伝わりにくい。

 他人から求められているものは何か、自分の強みは何かということに関しては結局は自分では分からない。コミュニケーションのなかで他人が自分をどう見ているのかを考えていくしかない。言い方をかえれば、自分は何の価値もない人間だと自分だけで決めるのは間違っていることになる。自分自身を過小評価することがないようにしなくてはなるまい。

ウケ狙い

 新しいものを発想するとき、最も理想的なのは理論的に説明可能なことだ。理詰めで考えた上に新機軸が生まれるのなら最高である。

 しかし、場合によっては敢えて理論を超越してもいい。まったく新しいものを生み出すには破天荒もいる。そのとき誰かを笑わそうとか楽しませようという思考があればうまくいくのではないだろうか。

 奇を衒い悪ふざけすることはこの意味で無駄なことではない。自由に発想した分、突破口を示してくれる可能性もある。

組み合わせ

 色彩感覚の不思議を試す例として、同じ色でも周囲の色によって違って見えるということがよく取り上げられる。私たちの感覚は相対的であり、どう見えるのかはその場に揃った条件の組み合わせで決まるらしい。

 皮膚感覚もそうだ。何もしていないときにぶつかられると痛みを強く感じる。しかし、サッカーなどの接触のあるスポーツをしたあとだと同じ衝突がまったく気にならない。寒い日が続いたあとの小春日和はとても暖かいが、気温自体はそう高くない。

 嗅覚も周囲の環境で大きく変わる。その場にい続けると臭いは感じなくなるし、芳香と悪臭の成分は変わらないときもあるだろう。

 私たちの感覚がいかに組み合わせで形成されているかを思うとき、自分の感覚が決して万物の尺度ではないと知る。不安にも繋がるが自信にもなるだろう。

冷え込み

 今朝は氷点下の冷え込みになっている。大分身体が慣れてきたようで数値ほど寒さは感じない。ただ、やはり冷気は肌を刺し、ときに大きな震えをもたらす。コートの綻びをものを大事にしているしるしと考えて、むしろ人に見せるようにしている。劣化ではない爛熟なのだ。いくつもの寒い時代を超えてきた誇りなのだと。