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風景の中に感じ取るもの

 風景の中に人情を感じ取ることは詩人だけの特権ではない。誰でもそれはできるのであって、心の中にしみじみと広がる感慨を覚えるのである。ただ詩人と違ってそれを言葉にできないため、感覚はたちまちのうちに移ろい保存することができない。優れた詩歌に接するとその時浮かんだ瞬間の感覚を再現してくれる。だから感動を覚えることがあるのだろう。

 自然をどのように描くのかは積年の伝統があり、それに則ればある程度は達成できる。しかし、いつでも同じ表現では新鮮味に欠けるだけではなく、その時のほかとは交換不可能な心情を表現することができない。だから詩人は新しい表現に挑戦する。あまりにも的から離れたものであると理解ができないので、この挑戦は必ずしもいつも成功はしない。それが詩作というものなのだろう。

 風景画も同じように見ることができる。ただ光学的に変換して風景を切り取っているだけではない。そこに明らかに画家の解釈が介入し、その中にはしばしば風景にまつわる人生が隠されている。自然を描きながら、実は描いているのは画家自身の心理であり、周囲の人々との交流の中から生まれた心の在り方なのだろう。

 私たちの日常は分かりやすく効率的にという暗黙のルールに支配されている。だから考えなくては何を表現しているのかわからないのは悪例となってしまう。しかし、場合によってはそのような悪を侵さなくては世界をつかむことができなくなってしまうのだろう。その試みに触れることが芸術を見るということだと考えている。難解な作品に出合うたびに、その真意を考えてみる。理解には届かなくても少なくとも考える時間を持つこと。それが貴重な体験となる。

 風景の中に何を読み取るのか。それも私たちが長年行ってきた芸術鑑賞の方法である。田園風景の中に隠れた孤独、都市の景観に隠された狂気、広大な山水、怒涛に何を感じるのか。まずは自分がそれを意識することが大切だ。言葉にできなくても、絵に描けなくてもまずは読み取ることをしてみようと思う。

立秋

 暦の上では秋の始まりだ。東京は今日も暑い。酷暑に慣れてきたので、30℃は涼しく感じてしまう。大阪の最低気温が30℃と聞くとやはり今年の夏は異常であることを再認識した。

 台風の遠い影響で大気は不安定であり、複雑な雲が通り過ぎる。運が悪ければ豪雨にさらされるが、幸いその経験は7月以降はない。

 立秋と言っても名ばかりだ。将来的には秋という季節は極めて圧縮されてしまうのかもしれない。古典和歌の世界では春と秋が詠歌の季節であり、夏冬はそれぞれ次の季節の前置きのようなものだった。それが気候変動で四季は四等分されず、春秋は添え物になりつつある。

 秋の尊さを忘れないように文学や絵画に描かれた秋を大切にしたい。

旅行者の発見

 茅ヶ崎市立美術館で開催中のイギリス風景画と国木田独歩という展覧会を観てきた。独歩が最晩年に市内のサナトリウムで過ごしたことにちなむものだが、風景画とは何かを考えさせられるいい企画であった。

 独歩はワーズワースの詩の世界に影響を受け、「武蔵野」という詩情溢れる散文作品を残した。イギリスにはターナーなコンスタブルに代表される風景画を芸術の域に高めた歴史があり、その手法を独歩は学んだことになる。

 注目したのはイギリス人画家が描いた日本の風景が大変鮮やかであることや、何気ない街角の景が取り上げられていたことだ。逆に日本人が描くイギリスの風景も華やかさが自国の画家の作品より際立っていた。恐らく旅行者でなければ見えない何かがあるのだろう。

 かつて万葉集を学んでいた頃、大伴家持が越中の地名を盛んに歌作に残していることに注目したことがある。国守としての任期の中でしかも無縁の地をなぜ取り上げたのか。それは国守としての自負もあっただろうが、やはり異郷の惹きつける何かがあったのではないか。そんなことも考えさせられ展覧会だった。

叙景

 風景を描くことは実は難しい。見たままを描くというのは実は幾分かの虚構が挟まれている。見たままを描くことはできない。必ず見た人の解釈を通して映像は結ばれる。そのことを実感できるのは風景画の歴史を知ることにある。風景画の大半は画家に切り取られる時点で多分に虚構性を含んでいる。いかにもその景らしい何かを描こうとする動機が含まれているからだ。

 風景のほとんどには実際には意味はない。そこに意味を見出そうとするのが人間の営みなのだ。画家の場合、自分が見たものを、つまり意味を見出したものを表現することができる。しかし、画力のないものにはそれは難しい。

 風景画が自分が何を見たのか、何に意味を感じたのかの告白だと思えば面白い。これは文学にもそのままあてはまる。

絵画の見せるもの

 美術館の展示を観るといつも思うのは人が何かを描くという行動の意味である。なぜ絵を描くのか。そして本物ではない絵を観て何らかの感動をするのはなぜかということだ。

 絵を観るとまず単純に何が描かれているのかを確かめ、その色彩や構図、対象物の形などを観る。それが既知のものなら自分の知識や経験と比較してその差を考える。未知のものも類型から推測することを始めていく。

 その後、なぜこの絵を描いたのか、どうしてこのような絵にしたのかを考え始める。解説を読んで大づかみに把握して、その後は勝手に考える。結局分からないことが多い。

 絵を描くには相当の労力がいるはずなので、なぜその対象を描くのかは画家の思い入れがあるはずだ。それは何が。何が絵筆をとらせたのかを考えることが

 そしてその対象を画家がどのように捉えたのか。それをどう表現したのかに思いをめぐらす。写真ではない絵は何をどのように描くのかは画家の価値観や人生観が反映されているはずだ。

 その絵に盛り込まれたものを私たちは観に行くのだろう。いかに本物に近く描かれているのかではなく、本物をどのように捉えたのかを知りたいのだ。芸術にはこの筋が欠かせない。

若葉のグラデーション

 絵心は皆無だが是非描きたいと思うのがいまごろの木々の若葉である。実に繊細で複雑だ。すべてが異なりながら、どれも同じような形をしている。

木の絵を描きたい

 水彩でも油彩でも入門書を立ち読みすると、こうした木々の描き方の指南がある。その通りに真似てみるとなるほどそれらしい絵になりそうだ。ただ、これは木を描いたのではない。木を見て森を見ず、という言葉があるが木さえ見ないで木を描くということになる。

 しかし、本当に見たままの木を描くことはかなり大変なことだ。一つ一つ違う葉の有様をどのように描こう。描きながら刻々と変わる自分の感情をどう制御すればいいのだろうか。

 それでもいつかは自分の目で木を描くことを夢見ている。恐らく、他人が見たら何の絵か分からないものになるかもしれない。ただ、ゴッホの糸杉のように、それがどうであったかより、どう見えたのかの方が大切なのだろう。

 若葉のグラデーションを描くことを目標に加えることにしたい。

画像生成

 人工知能を活用した自動画像生成ツールがある。静止画のレベルならば写真と見紛うほどの質の画像が瞬く間に完成する。恐らく既存の人気画像の要素を取り込んでいるのだから、それを合成した生成画像が満足感の高いものになるのは必然なのかもしれない。

 言葉に関心があるものとしてこのシステムには非常に興味深い要素がある。それは作画の指示を言葉によって行うことである。例えば、若い、男、爽やか、カジュアルな服といったようにフレーズを並べる。またそうであってほしくない要素も指定する。例えば不潔、悪党、入墨などだ。これらの要素を除いて作画するのだ。

 絵画が言語によって指定されるのは人間の認知行動の本質に触れているのかもしれない。実際の絵画は画家の長い時間をかけての修練が不可欠だ。だが、何を描こうかと思う出発点は言葉なのかも知れない。

 ならば優れた絵を描こうとするならば操れる言葉の種類が豊富である必要がある、これが少ないと類型的で単純な絵しか生まれない。人間の認知行動や表現行動を可視化したものと思われる。

 いい絵を描けるように、つまり多彩な表現や行動ができるように使える語彙を増やすことが大切だ。これは生徒に対する分かりやすいメッセージになる。