タグ: 生物

スカシカシパン

 子どもの頃、潮干狩りに行って妙な生物に出会ったことがある。平べったく、模様のような穴が付いている貝のような何とも言えないものは始めは何だか全く分からなかった。貝殻か魚の骨の一部かとも考えたが、どれも当てはまりそうもない。

 子ども用の図鑑で調べるとスカシカシパンという。名前も変だ。似ても似つかないがウニの仲間なのだという。私が拾ったのは恐らく死んだ個体だつたが、生きていても動作は極めて遅く、海底の砂地に何時間もかけて潜り、バクテリアなどを摂取しているらしい。

 ウニ風味の菓子パンならば魅力的だが、実物はとても食用にはなりそうもない。命名の妙で可愛らしい印象になったが、相当奇妙な生き物だ。

 子どもの頃は変な生き物に出会う度に感動した。そしてまだ見ぬ生き物を見つけようと期待したものだ。毎日のように図鑑を広げていたから、今でも何となく挿絵や写真を思い出すことがある。

初燕

 今朝、私としては今季初めてツバメの姿を見つけた。数日前に鳴き声は聞いていたので少し前から飛来していたのだろう。寒暖の差が激しいこの頃だがそれでも季節は確実に遷移しているようだ。

猫を見ていて

 猫はもともとウサギやネズミを狩っていたようである。長い人間との付き合いの中ですっかり牙を隠している。でもその本質はハンターであることは忘れてはならない。

 ある施設に飼われている猫に今日は接した。媚びを売るように近づいてきて、少し撫でてやると急に腹を見せてくる。これをかわいいというのだろう。私もその思いを発しながらも、でもこの動物は根本的に狩猟を旨とする生き物であると考えてもいた。油断はならない。

 おそらくこの人なつこい行動は長い人間との共生の中で獲得されたものであり、後天的な要素なのだろう。人類が滅亡したらイヌの多くは共に滅亡するが、ネコ類は野性に戻って生き続けると考えられているのも、もっともだと思う。

 こどもの頃は猫が嫌いだった。どこか自分の弱みを見透かされている気がしたのだ。ところがある年齢を過ぎると猫を愛おしく思えるようになった。何かに共感したのだろう。ネコも人間に従属することになるとは思っていなかったはずだ。媚びを売りながらもしっかりと欲求をする。ネコ的なしたたかさを再評価しているのだ。

進化の不思議

 生物学者のエッセイを読んでいると実に不思議な気持ちになる。生物はいつも環境に適応するために自分の身体を変化させ続けているというのだ。世代という単位では気づかないことも多いが、そのスケールを少し拡げるとすぐにその変化に気づく。寿命が極めて短い種の場合はそれがかなり早く起きる。

 人間も同じだ。今の学説ではホモサピエンスはアフリカ大陸にいた共通の祖先から世界中に拡散したという。地球上の各地に拡散するグレート•ジャーニーの途中で各地の気候や地理的な要因に適応した人類は、その形を次々に変えていったことになる。東アジア人の顔が凹凸に乏しいのは、寒冷な気候を過ごすうちに体表面の面積み減らして体温の発散を減らすためだという。

 実は進化の要因は複数の要素の複合の結果であり、単純な説明ができない。それを遺伝子とか進化論とかで何とか理由づけしているのだ。その意味で後付けの説明であって未来のことは分からない。

 ただ、私たちの身体そのものも自然の一部で、適応し子孫を残すために今後も形を変え続けるということだけは確かだということだ。今の姿が過去に遡れる訳ではなく、未来もこのままであるはずもない。

いまの笑顔が未来もそうだとは限らない。これは人工知能に作らせた笑顔のイメージです。

名付けの効果

 ものに名をつけることは対象の分節化であるが、今回はその話ではない。つけられた名前が対象の捉え方に大きな影響を与えることを再認識したという話である。

 例えば植物名などが分かりやすい。特定の形状と生態をもつ花に、名前をつける行動は命名者の恣意的な選択によるものだ。しかし、それが認められ、権威を有するものとなるとその名を基準に対象が見られることになる。そしてそれが定着するともうその印象は揺るぎないものとなる。

 ある本で読んだが、日本各地にもっとも多く分布するウグイスは、小笠原諸島だけに生息するハシナガウグイスの亜種なのだそうだ。分類上は離島に棲む少数派の方が上位にあり、我々が普通春告鳥としてもてはやす雅語ともいえる鳥の方は下位に位置する。学名ではそれがはっきりとわかるのだが、通称では逆に思える。名付けというのはこんなふうに対象の見方を変えてしまう。

 だから対象を見つめるときには名前を頼りにしすぎてはならない。まずはそのものに向き合わなくてはならないということだ。当たり前のことなのにこのことを私はしばしば忘れる。

エノコログサ

 小さな子どもがエノコログサを何本も摘んで束にして持っていた。猫じゃらしにするのだという。そんなにたくさんの猫を相手にできるのだろうか。微笑ましい姿ではあった。

エノコログサ

 植物名はエノコログサであり、実は犬の方なのだ。犬ころからの変化という。猫じゃらしとして確かに使えそうだが、先祖は犬の方を連想した。

 この植物は粟の近縁であり、その気になれば食べることもできるらしい。食料危機のために調理法を知っておいた方がいいのかもしれない。そのときは犬猫にはかまっていられないだろう。

カラスの準備

 2日ほど前からハシブトガラスの群れが早朝から騒がしい。この地域のゴミ出しの曜日でもないのにどうしてだろう。

 地域のゴミ回収日にカラスが狙うのはどこにでもあるはずだ。ゴミ袋を鳥にとっては見にくいといわれる黄色にしたり、ネットをかぶせたりしても巧みにつつきだし散乱させてしまう。しかし、その時点ではゴミ出しの曜日までは数日あった。

 集まっていたのは近隣の蜜柑が目的であったようだ。それまで見向きもしなかったのに今朝見るともう枝には残っていなかった。そして路上には大量の食べかすがある。なぜいまになってと思う。

 思うに今週の大寒波の到来を知っているのではないか。寒さによる消耗を見越して多めに食べているのではないか。それが拙い推論である。

 動物の行動が天候急変の予兆になることは数多く報告されているので、私も記録しておくことにした。

水族館

 都会にある水族館に行ってみた。平日だから人は少なかったが、その分水生動物と向き合ってきた。実に不思議な時を過ごすことができた。

 どうして魚はこんなにも種類が多いのか。そしてそれぞれに実に特徴的な形をしているのか。様々な色彩があるのはなぜなのか。そういうことが水槽ごとに気になって仕方がなかった。人生という単位では計り知れないくらいの長い年月をかけて、それぞれの生き物はそれぞれの形になった。それぞれの色彩も、それぞれの大きさもすべて長い歳月をかけて今にたどり着いたのだ。人間ごときがそれを描写しようとしても所詮は部分を描いたに過ぎない。おそらく非常に長い年月の意味づけが難しいほどの繰り返しと、突然起きた環境の変化と、その他予測不可能な何らかの変化を超えていまに至っているのだ。

 水族館に行くことは楽しみでもあるが、ある意味不可解な質問を無限に繰り返される空間でもある。質問に答えられないことを、私は認めなくてはならない。知識主義の現代人の根底を覆される。だから水族館は面白い。そして刺激的で危険な場所でもある。

いい人もそうではない人も

 一人の生活が続いているとわからなくなることがあるかもしれません。私たちの周りには相性がよい人もそうではない人もいます。そんな中で暮らしていく中で人としての生き方が醸成されるのであってすべてが自分を作る源なのです。

 自分で何でもできるという思い込みを現代社会はもたらす要素をいくつも持っています。確かに孤立がそのまま死に至るということはありません。ただ、どんなに技術革新が進んでも人間が集団生活で生存を続けてきた事実は変えることはできません。群れの中で生きることで他の生物にはできない様々な困難を乗り越えてきたのです。

 距離を置くことが強要されている現状ではその能力は大きな障害を受けています。でも惑わされてはいけない。私たちは人類であることを思い出すべきなのです。

コジュケイ

 最近、自宅のすぐ近くでコジュケイが鳴くのが聞かれるようになりました。印象的なさえずりなのですぐに分かります。

 ちょっと来いと聞きなしされるコジュケイは里山などに現れる野鳥です。実は姿を見たことはありません。動画サイトで見るとウズラのような姿です。分類上ではキジ科の鳥なのだそうです。狩猟の対象として外来種が放鳥されたのが起源のようです。確かに富山では聞いたことがなかったです。

 キジも鳴かずばの古諺通りこの鳥も鳴きさえしなければ目立たない鳥なのです。鳴かずにはいられないのが生きているものの定めなのでしょう。