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体力は大事

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 この歳になって思うのはやはり体力は大事ということだ。頭と体は関係ないとか、首から上と下では別の話などと言っていた先輩のことを思い出すが、やはりそれは間違っている。脳も体の一部であり体力は必要なのだ。

 アスリートのような身体能力は必要ではなくても、ちょっとくらい無理ができるような体力はやはり必要だ。深く考えるときには体力がいる。集中してものを考えるときにはいろいろな体内の組織が活動しているのだ。だから、誰にとっても体力は必要であり、若いころに体を鍛えることを怠ってはならない。若い人にはそう言いたい。

 私の場合、体力が消耗すると集中力が落ちるだけではなく、脳の働きそれ自体が鈍化する。最近それを強く思う。もっと粘り強く考えたいと思っても、体が受け付けない。そう感じるのだ。だから、体力は大切だ。今更手遅れかもしれないが、せめて歩いたり階段を昇ることを躊躇することがないように心がけたい。

AIブロガー

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 人工知能で文章を書くことはすでに出来る。いくつかのキーワードを与え、それを結び付けるように指示すれば文章を作成してくれるらしい。私の駄文などすぐに抜かれてしまうはずだ。すでに抜かれている。ただ、いまだにAIは意味のレベルまでの理解はできていないようだ。そこに人間の(私の)生き残る価値がある。

 コンピュータにできることは大量のデータからある言葉を使うときの用例を瞬時に検索し、その用法を選び出して、ほかの用語との組み合わせを再び検索によって選び出して合成することなのだろう。一見意味を考えているかのように思えるが、扱っているのは過去のデータであり、言葉に含まれている意味を考えているわけではない。しかも、私のように偏屈でなおかつ発表している作品がほとんどない人間の文章をAIに担当させることは難しい。出来上がるのは私の文章ではなく、平均的なものになる。

 平均的なものがおかしいかといえばそうでもないらしい。顔のパーツのデータを複数集め、その平均をとって合成すると結構な美男美女になる。誰でもない平均顔は意外といけている。文章もそうで一見理想の文章ができているように思える。

 でも、それは自分の文章からは程遠い。AIに自分の代わりをさせることはできない。自分の文章を書いてくれていって頼むと、ものすごく平均的なものを作ってくる。それがどんなにしゃれていて内容が良くても私の文章ではない。AIというのはそういうものらしい。だから、我々が文章を書くことは大切な営みだし、続けるべきなのだろう。

 このブログはAIで書きました・・・はずはない。下手すぎる。

要するに…中毒

 今回も自分に対して向けた文章である。最近、よく話を聞き終わらないうちに「要するに」「つまり」とまとめてしまう思考を自覚している。忙しい毎日はこれは都合がいい。詳細に立ち入らず骨子のみを把握しようとする。それはそれで間違ってはいない。ただそればかりだと肝心なものを落としてしまう。

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 文章を読解するときに、構造を考えながら読むというのは国語教師の指導のたまものである。大体、初めに話題を振って、時にはそれが問題提起型になり、具体例を挙げて、そのあとに自分の言いたいことと絡めて、結論を述べる。ほとんどの文章はそのように書かれている。今書いている文章もそのような感じだ。

 忙しいとそういう読み方をして、細部を飛ばし読みする。人の話を聞くときもそうだ。愛想のために述べている部分を抜かすと、言いたいこととそれを言うための具体例とを繰り返す。本題の最初に言いたいことを短く言い、具体例のあと結論を言う。基本的には文章と同じだ。もちろん、思い付きで話を続ける人の場合は単純ではないが、基本的には同じだ。

 こういう風に考えると「要するに」の思考がでる。いろいろ書いてあるが、いろいろ話しているが言いたいことは何なのか。それだけを知れればいい、という考えだ。これは恋愛映画を早送りにしてみる精神と同じだ。本当は言いたいこととは外れている部分に自分にとって重要な情報があるのかもしれない。あるいは筆者、話者の意見形成の本当の要因が隠されているのかもしれないのにも関わらず結論を急いでしまう。

 忙しく情報量が多い時代には仕方がないのかもしれないが、速読速聴だけが能ではない。時には熟読、傾聴が何かの現状打破につながることもあるのではないか。大切なことを忘れてはいないかと思うのである。

地図

 街角にある地図を見て気づいたことがある。同じ場所の地図なのに全く見た目が異なる地図が並んで掲示されていた。何も知らなければ、同じ場所とはとても思えない。

 これらの地図の共通点は、東西南北や実際の距離の縮尺ではないということだ。道の繋がり方だけに関心がある。細い路地は省略されているが、省き方が異なる。

 商店や病院などの表示はかなり誇張されている。実際は一般家屋程度の建物がまるで高層ビルであるかのように大きく描かれているものがある。隣に並んだ別の地図にはその存在は無視され、他の建物が誇張されて描かれている。

 おそらく広告料などをとれたところは大きく、そうでないところは必要がなければ省略しているものと考えられる。地図の形をした広告なのだろう。

 地図が現実の反映ではないことを改めて痛感した。これは分かりやすい例だったが、世の中にはこの他にも一見本物と同じように見えて意図的改変が施されているものがいくらでもあるということを省みる必要がありそうだ。

東急百貨店本店閉店

 来年の1月末日で渋谷にある東急百貨店本店が閉店することが発表されている。併設されているbunkamuraも休止するということだ。一つの時代が終わる。

 渋谷には長らく駅前の東横店と道玄坂の先の本店とがあり、東横店がいわゆるデパートであり、本店はブランドショップとして少し上の商品を扱うというイメージがあった。今やどちらもなくなることになる。その代わり、ヒカリエやスクランブルスクエアといった複合的なビルが幾つも建っている。百貨店という業態から転換しているのだ。

 すでに既存の百貨店が一種のテナントショップになっているのが現状だが、さらに一企業の直営というスタイルを放棄して専門店の集合体という形でしか勝負ができなくなっているということになる。付加価値をどのように創出するのかがデパートの唯一の生きる道のようで、イベントや劇場、映画館、美術館などとの複合施設にすることも行われている。東急百貨店本店もその路線を進んだが、時代の波には勝てなかったようだ。

 子どものころは本店は敷居が高くて入るだけで緊張した。大人になってからは美術館や映画館に何度も行くことになった。再開発の上、別の施設になるとのことだが、いまのスタイルがなくなることは寂しい。

年賀状の準備

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 年賀状の印刷の受付を知らせる広告が出始めた。印刷されたはがきもすでに店頭に並び始めている。今年はどうしようか。

 虚礼だなどといわれて減り、ネットの普及とともに年賀状は過去の遺物になりつつある。それでも実物のもつ意味は消えないはずで、本当に挨拶をしたい相手にはやはり紙のはがきがいい。本当は手紙の方がもっといいが、さしあたり安否を伝えるだけでいいのならばはがきがいいのだ。

 私はあまり多くの枚数を出さないかわりに、すべて手書きで行ってきた。しかし、今年はどうしよう。もう出さないという手もあるし、印刷してとにかく送ってしまうという手もある。日々疎くなりつつある旧知の人々に、せめてまだ生きていることを伝えることで、自分自身の存在理由を確かめられるのなら、やはり出しておこうか。

 悩んでいる。

次の月食

次に見られるのはいつ?

 明日、皆既月食になるという。晴れればちょうどいい時間に見られる。星の重なりが生み出す現象に過ぎないと知っても気になるものである。

 月食は比較的頻繁にある現象だが、それでも見られる偶然は嬉しいものだ。小学生のころ、東京で見られる日食や月食のデータを見て、2000年代は遠い未来だと思っていた。その頃自分はどのような生活をしているのだろう。果たして生きているのだろうかなどと漠然と考えていた

 その2000年はとうに過ぎ、さらに22年も過ぎている。残念ながら博士にも大臣にもなれていない。日々の生活に満足できていない己がある。逆に言えば何とか生きていて、ブログを書けるだけの生活はできている。これは幸せということなのだろう。

 日食や月食があると次の機会はいつなのかが気になる。恐らくその時までは生きていないだろうと溜め息をつき、いやそれでいいのだと考えたりする。

進路の複線化

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 日本の学校制度は様々な選択肢を用意してあるが、実際には大学を卒業したホワイトカラーが他を圧倒するという社会の在り方を維持するように設計されている。いわゆる「学力」で振り分けられた「エリート」が多くの利を得るというやり方だ。

 もちろんそういう方面のエリートは必要であろう。情報処理に長け、高度な判断力を持つ人材は必要だ。特にマクロ視点やメタ認知ができる人材はこれからますます必要になる。大学はもっと真剣に勉強をするところになるべきだし、そこを卒業できたものにはそれなりの報酬を用意するべきだろう。でも、それだけでいいのだろうか。

 人間の尺度は今の様な学力試験だけではないはずだ。人の価値はもっと多様に評価されるべきだということは多くの人が感じていることだろう。例えば職人といわれている人々はそれなりの評価を得るべき存在である。さまざまな技術を支えている人々にも評価すべき人がいる。そういう人が一般大学卒である必要はないし、大学を卒業することが社会的ステータスの基準になること自体が間違いなのではないか。

 もし、今までとは異なるタイプのエリートを尊重する方法を考えるならば、場合によっては職業高校の評価をもっと上げる必要があるのかもしれない。あるいは学校とは別組織の教育機関に社会的な評価を与えることが必要だろう。技術者や芸術家といった人材は大衆教育にはなじまないかもしれない。しかし、彼らの地位を上げることでそれを志す人は増え、結果的に技能の底上げができる。結果として社会全体の利益になる。

 このようなことは昔から言われている。私の独創ではない。しかし、これだけ情報化社会になり、グローバル化がすすんでも一向に人間の評価の多様化が起こらないのはなぜだろう。もしかしたら、こういうことからイノベーションは起こるのではないか。

公共性と営利性

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 社会が変動し、なおかつ縮小傾向の経済状況にあって、日本の状況は不安定になりつつある。一部の資産家が社会的な影響力を持つ組織を支配し、自らの営利目的に従って社会を動かすことも実現しやすくなっているのかもしれない。

 最近よく言われるのが効率性とか生産性という言葉だ。日本の組織は生産性が低い、それは不要な人材や競争力の低いセクターの団体や企業を保護しているからだという論調が多い。これには検証がいる。本当にそうなのだろうか。確かに国際的競争力は低くなりつつある。それでも総体的には強固な組織を維持できていることにはまったく意味がないのだろうか。

 この手の論にはどこかに誇張が隠されている。そしてその裏には意図的か無意識なのかは分からないが一部の優位な人が損をしないような仕組みが隠されている。営利の追求こそが社会をよくするという飛躍が巧みに織り込まれている。ここには大きな陥穽が待ち構えている。

 その一つが公共性の問題だろう。果たして営利性の追求だけで社会は成り立つのか。営利追及の中に公共性の視点がなければ、少しづつ社会は壊れていくのではないかという危惧を私などは持ってしまう。アメリカの巨大企業が世界に大きな影響をすでに持っているのは周知のとおりだ。各企業にはいまのところ公共性に対する配慮がそれなりになされている。でも、どうだろう。その組織のいずれかに何らかの危機が訪れたなら、公共性を維持できるだろうか。最近のTwitterの動向をみているとどうも怪しい気がしてならない。

 我が国が(おそらくアメリカや中国など以外のどの国でも)大切にしなくてはならないのは、そうした巨大な営利活動に翻弄されないことだろう。また自国の企業も単なる資本追求の段階を脱し、社会的公共性を意識していくべきだろう。そのためには企業や組織のリーダーのみならず、多くの国民の意識をこうした考え方にしていく必要がある。

 産業界ではパブリックアフェアーズなる概念で公共性が語られる。これは公共性のなかに商機を見出そうという裏の目的もあるようだ。ただ、単一の企業や組織にとっての利益ではなく、社会的な目的を考慮に入れようとすることには賛同したい。

変装ではなく変身を

 ハロウィンが近い。このところコロナ自粛が続いていたが今年はどうなるのだろう。単なる乱痴気騒ぎならばやめた方がいい。

 ハロウィンはアメリカを中心に行われている子供の祭りだ。収穫祭と祖先崇拝とがその根本にあるという。原始的な宗教が背景にある。それがなぜか日本では大人が参加する変装大会のようになってしまった。死者のふりをして町を練り歩くというのは、日本の祭りにも通底する何かがある。ただそれを意識することは少なく、先にも述べた仮装パーティーとなっている。

 大人が喜んで変装をしようとするのはなぜだろう。もうそこには信仰的なものはない。自分のために変装をしている。現状に甘んじてがんじがらめになっている状態をなんとか打破したい、という想いは変装という行動で晴らそうとするのだろう。実際は顔に何を塗ったところで状況に変化は起こらない。

 本当に必要なのは一時的な変装ではなく、変身することだ。それにはかなりのエネルギーがいる。今と違うなにかに変わることを目指していればいつかは変われるはずだ。それができてこそ、自己肯定感が得られる。とりあえず覆面してみて、そのうえでもっと大きな変化を期待し続ける。そうすればいつかは変身もかなうはず。そのように考えている。