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最晩年を生きる

 1960年の日本人男性の平均寿命は65歳だったという。高度経済成長期の始まりの中で、寿命は伸び始めていたが、この時点で切ると意外にもかなり若い。磯野波平が50代前半であの風貌なのも当然なのだ。かれは余命十数年なのだから。

 もしこの年代に今の年齢であるとすれば、私は最晩年を迎えていることになる。もっともいつの時代にも長寿や夭折はあり人それぞれだ。あくまで平均という数値上の問題として考えていく。

 現在、多くの企業が65歳を退職年齢としている。高齢者の区分もここにある。いまでは企業人か否かの分かれ目が、かつてはこの世かあの世かの分節であったことになる。年金制度などの設計がここにおかれているのはかつてはその通りだったからだ。

 65に区切れを入れると、老後がかなり長くなる。現実的にはもっと後まで労働人口とならねばならない。日本の人口ピラミッドからしても高齢者の区分は上げなくてはなるまい。行政はこれに対応できているのだろうか。

 私自身のことでいえば、最晩年を生きている覚悟をせねばならないと考えている。今のところ健康上の心配はないが、明日みまかるかもしれず、数年後に彼岸にいるかもしれない。そういう覚悟が必要だ。最後の一日まで働いて、ある時急にいなくなるというのが理想ではある。

人格の保存

 あくまで仮の話だ。人工知能の発達は日進月歩だが、もしある人物の性格とか信条や思考の癖を記録し、再現することができるシステムが出来上がったならば、どのようなことが起きるだろうか。

 さらに空想を重ねよう。外見上ほとんど本人と変わらない容姿を持ち、極めて自然な動きをする機械に先ほど述べたある人物の人格を記憶させた人工知能を搭載したとすれば何が起こるのだろう。

 この話の延長上にはある人物そっくりのもう一人の彼または彼女が出来上がるということだ。そんなことは藤子不二雄の漫画のパーマンに登場していた。コピーロボットでもう一人の自分を作り、活躍中の不在を埋める時間稼ぎをしていた。鼻のスイッチを押さない限り、他人からはそれがロボットだと気づかれることはない。

 この問題を考える上で欠かないのは、人格とは何かと言うことだろう。性格と思考や行動の様式、さらには身体的特徴が一致していれば同一人物と言えるのだろうか。これはクローン技術という文脈でも語ることができるが生命倫理に抵触しないと思われる人工知能とロボット工学の組み合わせで考えている。

 もちろん直感的にも経験的にも同一人物とは思えない。完全なコピーがなされたとしても別の人格のように思える。なぜなのだろうか。仮にマスターの動きを完全にシンクロナイズするコピーが行われたときは間違いなくコピーの方に人格を感じられない。モノマネ機械と判断する。ただ、どちらがマスターでコピーか判別できないときはどうだろう。

 次に、コピー側が自主的に行動する場合はどうか。自ら考え、意見を述べ行動する場合はもうコピーとは思えなくなる。マスターとコピーが会話をしたり、争ったりしたら完全に別人格と感じるだろう。外見がそっくりの双子の姉妹のどちらにも人格を感じるのと同じように。

 人為的にそっくりというより等しいものとして造られたコピーは、性能が高ければ人格を認めていいのだろうか。

 さらに屋上屋を架す。例えば尊敬してやまない先人の精神と肉体を完全にコピーして、我が家の一員として迎えた場合、彼もしくは彼女は家族の一人なのだろうか。それが認められたなら人格の保存はできるのだろうか。何か非常に根本的な部分で間違っているように感じる。それをまだ説明できない。

自意識

 正直に言って本当は理解できていないのが性同一性障害である。心と身体が一致していないというのだが、では心とは何か身体とは何かを考えなくてはなるまい。

 心とは自分はこういう存在であるという意識のことだろう。この意識がかなり強固で他人から見られてそう思うのではなく、自らそのように考えていることになる。一般的には自意識の形成には他者の関与が不可欠だ。誰かにあなたはこういう人だと言われていくうちにそういう人になる。

 ところがこの場合は他人から逆の扱いをされながら、それに抗う形で自意識を形成することになる。あるいは他者にとっての他者が自分という考え方自体が間違っていたのではないか。そうも考えさせられる。

 考え方を変えてみる。生まれながらに自分にもともと自意識があり、それが自分とは何かを決めているとする。この場合は心と身体が一致しているわけだから、何の問題も生じない。性的指向が多くの別の個体と違っていても、自分がそういう存在であると知って振る舞っている訳である。社会全体がこの考えなら、多様性はそのまま受け入れられて問題はない。

自意識の持ち方は多様だ。

 自意識が自然発生的にもしくは本能的に生じるものなのかと言えば、私はまだ懐疑的だ。日本に生まれ育てば、価値観や人生観はその集団に共有されるものになる。それは男女の性別や、人種などとは無関係であろう。やはり、社会の中で自我が形成されると考える方が分かりやすい。ならば、男らしく女らしくというジェンダーもそれが所属する集団の中で形成される。そのとき社会の成員は外見上の身体的特徴をもって意識付けをしていくはずだ。

 トランスジェンダーと呼ばれる人たちの意識はこうした事実と異なっているように思える。でも、よく考えるとそうでもないのかもしれない。自分が属する共同体の中で男らしくあれと有言もしくは無言で規定された人は、そのように振る舞うことで自意識を形成する。つまり演じているのである。この演じるものを何らかの事情で反対のものにした場合、別の自分を演じることになる。演じるという表現は誤解されるかもしれない。これは上辺をごまかすのではなく、自分の身体を自分の心がどのように動かすかということである。これには脳の動き方も含まれる。

 身体は男だけれど心は女という場合、この人は女を演じようとしているのに、身体がそれに合う形をしていないということだろう。

 少々複雑になったが、自意識が自分の属する集団の影響下で形成されるのは間違いではない。ただ、その中で形成される自意識とは自分が自分の身体をどのように操るか、どのように振る舞うかということであって、ここで反対の性を演じる対象として選んだ場合にトランスの状態が起こるのだろう。

 ここまで書いてきたが実は納得できていない。今のところは言語操作をしているに過ぎない。ただ、こういう試みから、自分とは何かを考えることはできるという感触は持てた。

夜桜

桜に月

 数日前、近くの公園は桜の盛りを迎えていた。すでに散り始めた枝もある。見上げると月が出ていて、その光に桜花の彩りが一層引き立つ。

 恐らくこの光景は数日の後にはなくなる。桜は偶然を痛感させる。実はすべてのものが一度限りでありながら、似たものを見たり聞いたりすることで永遠に繰り返されているような気になってしまう。

 今日の夜桜は今宵限りだ。ただ夜桜なるものは来年もこの場所であるだろうし、この場所でなくても似たようなものはある。一回性か普遍性かそんなことも考えさせる。

 ただ言えることはこの日の夜桜はよかった。これまでの中でもかなりいい部類だということだ。

線路沿いの植物

 通勤電車からいつも見る風景にいわゆる雑草が線路沿いに生えているものがある。あまりに当たり前の光景なので大半は視界に入っても意識には上がらない。

 過酷な条件と思われる線路際にも結構いろいろな植物がある。過酷と書いたがたまに保線の際に草刈りが入ること以外は、人の出入りが禁じられており、むしろ植物にとってはサンクチュアリのようなものなのだろう。

 あらゆる場所で適合し、命を伝えていく動植物の力には改めて感動せざるを得ない。

オナガ

 コンクリートとアスファルトで覆われた都会にもいろいろな野鳥がやってくる。最近はオナガの群れをよく目にする。

 印象的な長い尾羽根を伸ばして滑空するように飛ぶ姿はなかなか見どころがある。羽根の色も青と黒とが映える。鳴き声だけはけたたましいがそれも魅力の一つとも言えなくもない。

 この鳥は富山に住んでいるときにも見たことがある。ただ西日本では少く、東日本に偏在しているらしい。なぜこのような姿になったのか。どうして特異な分布をしているのかなど謎も多い。

 鳥を見ると世の雑事からひととき解放されるような気分になれるのはいい。今日も暑いようだが頑張らねばと思う。

ワクチン

 アメリカの企業がコロナウイルスに対応できるワクチンを完成しつつあるという報道は希望と動揺を引き起こしている。このおかげで株価は上昇した。経済活動の平常化が期待されたからだ。実際には何も変わっておらず、むしろ罹患者は激増しているのにも関わらず。

 ワクチン開発には様々な関門があり、実際には数年かかるらしい。今回のパンデミックに際しては前例によらない急作業でなされており、弊害も今後出てくるはずだ。ただ、一日で数万の罹患者を出している中で、背に腹は変えられない。そこにクレームもつきにくい。

 ワクチン開発に日本企業の発言権が小さいのは残念だ。国策として支援することもなかったようだ。利益以上に国際貢献の具となったはずなのにもったいない。いまだ開発中の製薬会社には諦めず続けていただきたい。先行する薬品に問題が生じたとき出番が来ることは十分に考えられる。

紫陽花

 梅雨入り前にしては夏本番のような陽気が続いています。今朝は曇天ですが、これから晴れて暑くなるのだとか。この時期の楽しみの一つに紫陽花(あじさい)の花を見ることがあります。

 紫陽花には額の花と言われるものから。花弁がいっぱいのいわゆるアジサイまでいろいろな品種があります。変わり咲きの品種は年々増えているようで時々それを発見すると小さな驚きが生まれます。

 花は人心を操ります。それが癒しに向かうときは喜ばしいことと思います。紫陽花は曇天に照らす光です。色移りするのも面白い。今年もこの花の威力に頼らなくてはならない季節になりました。

いい人もそうではない人も

 一人の生活が続いているとわからなくなることがあるかもしれません。私たちの周りには相性がよい人もそうではない人もいます。そんな中で暮らしていく中で人としての生き方が醸成されるのであってすべてが自分を作る源なのです。

 自分で何でもできるという思い込みを現代社会はもたらす要素をいくつも持っています。確かに孤立がそのまま死に至るということはありません。ただ、どんなに技術革新が進んでも人間が集団生活で生存を続けてきた事実は変えることはできません。群れの中で生きることで他の生物にはできない様々な困難を乗り越えてきたのです。

 距離を置くことが強要されている現状ではその能力は大きな障害を受けています。でも惑わされてはいけない。私たちは人類であることを思い出すべきなのです。

適度な刺激

 人とあまり話さない生活を続けていると、適度な刺激がなくなってしまっている気がします。何かを考える上で不可欠なものが失われているのです。

 あまり社交的ではない私でも最近の事態は極めて異常です。他人との会話の中で考えはまとまっていくのであり、一人で逡巡していても何も進まないのです。会話は大事です。

 無意識に飛び込んでくる人の話も脳の活性化には欠かせません。集団知のようなものをわたしたちは獲得しながら生活をグレードアップしているのです。

 テレビやネットのニュース、ソーシャルメディアの記事や動画はあまり心に響きません。大事なのは自分に対して話されていると感じることであり、自分が主体的に聞き取ったという自覚なのでしょう。