タグ: 現状打破

趣味のうち

 利益にはならないがやりたいことはある。これを能率主義者は無駄という。でも、果たして無駄なのだろうか。効率を重視して己を捨てることよりも遥かに有益なのではないか。

 趣味の追求は大抵の場合、他人からは無駄にうつる。そんなことをして何になるのだと。なんにもならない。ただ楽しいだけなのだ。その楽しみが時々他人のためになることがある。それでいいのではないか。

 生産性の高い理想的なXさんになるより、駄目だが生きることが楽しい私になる方が遥かに幸せであり、世の中のために成るのではないか。最近よく聞く生産性第一主義の論者の大半が不幸そうなのは恐らくここに帰結するように思えてならない。

何があるかわからない

 予測がつかないのは今に始まったことではない。未来予想のほとんどは外れてきたし、これからも外れ続ける。コンピューターの精度が上がって天気予報は外れにくくなったが全く外れないわけではない。むしろ期待値が高まった分だけ、外れた印象は大きくなっている。

 自然現象でさえそうなのだから、人間が作り出したものの行く末など分かるはずがない。自分のことなら分かるだろうなどと考えても無駄だ。自分のことがこの世の中で最もわからないことだと言える。

 何があるかわからないのなら、焦らずにその場で状況に対応するしかあるまい。その方が実はもっとも効率的だ。最低限の備えは必要だが、それ以上を持っていても結局使えない。必要なのはものではなく、冷静に対処できる判断力であり、スキルである。いらないものを捨てて、必要なものを大切にすることをもう一度考え直したい。

 私の世代は物質的欲望に踊らされすぎた。本当に必要ではないものを無理に買わされてきた。本当は価値などないものに魅力を感じるように誘導されてきたのである。それは本当にいるのか、なくてもいいのではないか。逆に他人には魅力がないものでも大切な物はあるのではないか。再評価をすることで次の段階が見えてくる気がする。

 何があるかわからないのだから、何をするかはせめて自分で決めるべきだ。

ジェンダーギャップ

 性差による待遇格差が数値化されると我が国は下位に沈む。男社会が続いているということだ。私個人の環境では上司は女ばかりなのでそのような感はない。ただ国会議員の顔ぶれなどをみれば男が優位なのは間違いない。

 女の上司を持つことに私は何の抵抗もない。感情的で一貫性がないということを感じることはあるが、これは男にも当てはまる。部下としては安心して仕事ができればそれでいい。

 女の管理書が少ないことにはいくつかの要因がある。育児などの家事負担が女性に偏っていることはその一つだ。しかし、これも変わりつつある。男が育児休暇を出すことも稀ではなくなっている。

 ならばなぜ女性のリーダーが少ないのか。もちろん伝統的な男社会の因襲は大きい。それ以上に人材不足が原因と言える。リーダーとすべき女性が少ないのである。

 男女均衡のために資質のない人物をトップに据えるのはリスクが大きいすぎる。だから、いまは性別など関係なく相応しい上司を選ぶべきなのだ。結果として男の数が多くてもそれは不健全ではない。逆にほとんど女になってもまた然り。今の日本に性別を選ぶ余裕はない。なるべき人になっていただく。それでいい。

6月

 6月には祝日がない。ある意味、規則正しい生活ができる月だ。かつて日本人は働きすぎで仕事中毒だと揶揄されたこともあった。いまはそれは当たらない。働くことに疑問を感じる人々が少しずつ増えてきている。

 長時間働いても賃金が上がらない。株式投資したほうが儲かってしまうという現実を日本国民は苦々しく感じている。金が入る喜びは刹那的なものだが、仕事の達成感は得られない。儲かった金で社会還元できるならばまだいい。投資家の多くは私腹を肥やす以外に興味がないから、結局金が回らない。これはおかしい。

 長雨の季節に私たちは何かを考え直さなくてはなるまい。自分が豊かになるためには周りの人も豊かにならなくてはならない。がむしゃらに働いても誰かを幸せにできない。何よりも自分自身が不幸に思える。

 こういうときは少し視点を変えよう。雨はこういう時にはいい間になる。

固定

 何かを考える際に、何らかの要素を固定してしまうという手法がある。例えば、時間や空間、その他の要素のうちで、あるものを止めてしまうと他がよく見えるようになるということで時間の流れを止めれば、同じ時代に何が起きているのかを通覧できる。場所を固定すれば。そこで起こる様々な出来事の流れを把握できるはずだ。

 実際の世界は変動する要素が多数あり、相互に影響し連動するから、どれかの軸に固定するということは不可能だ。誰にも時間の流れを止めることはできないし、多様性を排除することはできない。あくまで頭脳の中での仮想に過ぎない。

 ただ、そういう仮想を通して私たちは物事を整理して考え、新しいアイデアを得ることができる。仮想的に何を固定するのかが大切なのだろう。

調子の良し悪し

 少し時間がすぎるとなぜこんなことにこだわっていたのか分からないと思う経験は何度もしている。細かいことにこだわっていた自分が不可解な存在の様に思えてならないこともある。なぜなのだろう。

 私たちはものを考える際に身近な環境の影響を受けやすい。目につくものを基準にして物事を考えていく。だから、そのときにどのような環境に置かれているかが、判断基準に大きな影響を及ぼすことになる。

 その環境と呼んだものは刻々と変わるもので、常に揺れ動いている。だから、それを基準にした価値判断もまた非常に不安定なものと言える。その時は正しいと思っても、実は見方を変えればまったく別物に映るということもしばしばある。最初に述べたことは、このように価値基準が変わった後に過去を見返したときに起こる。

 このようなことを書きながらも、私は日常を超越することなどできず、その都度悩み、その都度苛つき、その都度落ち込んでいる。とても残念なことだが、この繰り返しからは抜け出せそうもない。ただ、少々馬齢を重ねたお陰で、わずかながらメタ認知ができるようになっている。

 このところ不調が続いており、いろいろな行き詰まりを感じている。それも本当は錯覚かもしれないと考え直すことにしている。自分が考える調子などというものほど怪しい感覚はない。だめだと思うときも、絶好調と思うときもどこかで考え直す必要がある。

脱ルーティン

 私は日常の大半を既定の習慣でこなしている。いちいち考えなくてもいいからだ。どこに財布を入れるのか、電車の時刻、車両、立ち位置もほぼ決めている。習慣化の恩恵は大きい。

 ただしこの方法だと臨時の対応ができなくなることがある。普段とは違う行動をしなくてはならないときに立ちゆかなくなる。これも困ったことだ。私には定期的にこの失敗があり、そのつど狼狽している。

 ルーティンだけでもだめで臨機応変の事態も対処できるようにしなくてはならない。そのためにも労力や金銭のコストをかけてもいつもとは違うことを敢えてする日を作らなくてはと考えている。木曜日はいつもと違う道を歩くなどから始めている。これも大きなルーティンといえばそれまでだが冒険の木曜日とでも銘打てば少しは脳の活性化に役立つだろう。

 木曜か金曜のブログにご注目あれ。

怒り方の色

 最近、よく怒られる。しかし、昔ならメンタルをやられたはずなのに今は気にしなくなってしまった。それにはいくつか理由がある。上司に怒られることが多い私のような方のためにやり過ごす秘訣を伝授しよう。

 大体怒りの原因の多くは本人の立場保全のためだ。部下にそのようなことをやられたら私が困る。要約すればそういうことだ。管理職ならば、部下の失敗をカバーするべきなのにそれを放棄して叱りつけるだけだ。これを見透かせるようになってから、叱られてもなんともなくなった。失敗は素直に詫びるがそれで許してくれるなら、理想的な上司だ。さらに愚痴を言ってきたら、心の中で笑っている。この前はそれを見破られてさらに怒られ、さらに笑った。

 管理職にはなったことがないが、過酷な職種だと思う。すべての責任が問われるのだから。でも細かいフラストレーションを部下にぶつけているようでは先がしれている。そもそも管理していない。

 私はそれが分かってから叱られるのが楽しみになった。度量を見透かす機会だからだ。ならば理想的な上司はどうすればいいだろう。それは怒りの色のグラデーションを多彩に操ることだろう。起こっていることがあなたのためだとしっかり伝えることなのだろう。私ごときに見透かされることがないように。

 怒られてばかりの平社員の皆様に言いたい。上司も辛いのだ。人を叱るスキルもないままに職を与えられてしまった。少し耐えればあなたがこの職に就ける。その時に思い出してほしい。怒り方、指導の仕方の多彩さを心掛けよう。それができれば今の上司を凌駕できるはずだ。

転機

 安倍晋三首相が健康上の理由で辞任を表明した。流動性が高かった日本の指導者の中で長期にわたって政権を担当していただいたことに感謝したい。

 安倍内閣の功績の一つにアベノミクスと自称した金融緩和策がある。人工的になだらかなインフレーションを起こし、国民の生産性を上げるという政策だった。残念ながら結果は出ず、消費税だけが上がってしまったのは失策だった。

 だが、よきにつけ悪しきにつけ、実態以上の生活水準を送っていられているような錯覚を与えてくれたことは功績なのではないか。もし、この政策がなければ国勢の衰退をもっと多くの人が感じて混乱が起きていたかもしれないからだ。

 次の指導者がどのような方針に転じるのか分からないが、国際的競争力が急速に減退している我が国の現実を踏まえた発言をしてくれる人を切望する。いまの生活水準を今後も保つこと自体が困難な局面にあること、ただ国民の意識の変革や、行動を変えることで復活のチャンスはあること、そのためのバックアップを政策とすることなどを力強く語ってもらいたい。

 力のあるリーダーの損失はマイナスが大きい。しかし、ここまでの閉塞感を打開する絶好の機会でもある。

朗読劇

 密を避けることが義務づけられつつある社会情勢の中で、演劇は公演が制限されている。小劇場での感染も報告されており、厳しい状況が続いているのだ。その中で妥協点として考えられるのが朗読劇ではないか。

 向かいあわず接近しない。演劇の大半の要素を切り捨てた朗読劇は、それ自体で味わいがあるものだ。ただし、物足りなさが伴うのも事実である。いま、制約が設けられた状況にあってその欠乏感までもが効果的な表現方法になる可能性が出てきた。

 ソーシャルディスタンスなどという言い方もあるが、要するに触れあえない悲しみ、もどかしさを伴う状況にあるわけである。それが果たせないやるせなさを朗読劇の方法で表現できるかもしれない。

 久しぶりに脚本を書いてみようかという思いになっている。創作にはある意味こうした現状打破のエネルギーが必要なのかもしれない。