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技巧か真心か

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 一概には言えないが何かを表現するときに技巧は大切だが、それに走りすぎると難解になる。分かりにくいのが悪いわけではないが、得てして技におぼれて本質を失うことがあるように思えてならない。あるときそれに気づいて基本に戻る。この繰り返しが起きているように思える。

 和歌の世界でも最初は神に何かを祈願するものであり、単純で類型的なものだったはずだ。その蓄積の中でさまざまな技巧ができた。おそらく最初のうちは修辞とは思わず、習慣的に繰り返してきたはずだ。あるときその方法が表現するためになんらかの効果をもっていると気づく人が出る。すると今度はその技法を意識して使い始める。洗練されて実に効果的な方法と考えられるようになる。

 その技法が広く使われるようになると、鮮度を失ったかのように考えられて陳腐化する。またあれかと考えられるようになるともう刺激はなくなる。さらなる技巧を追求してより複雑な表現技巧が生まれていく。そしてそこに新たな命名がなされ、新しい何かが生まれたかのように考えられている。

 高度な技法はその種明かしをしてもらわないと理解できないものになっていく。この表現には古歌のあの雰囲気が裏に隠されているのだ、などという知識なしにはもう分らない。知っている人には意味の複合の効果まであり、表現世界が拡張したかのように感じられるかもしれない。しかし、予備知識なしでは味わえない作品は、すでに表現世界の範囲を超えてきている。

 高度で難解な作品ばかりが類型的に作られるようになると、基本に帰りたくなる。素直でわかりやすい表現世界だ。やっぱりこれがいいということになる局面が来る。分かりやすい。でもこれが続くと飽き足らなくなり、再びまた技法の誘惑にはまっていく。こうした繰り返しは詩歌だけではなく、さまざまな表現世界で起きている。

 私は何がいいのかは分かっていない。ただ、何かを伝えるとき素直に思いを伝えればいいのか、それともそれを技法に乗せて効果的に伝えるべきなのか、こうした迷いは歴史の中で繰り返されているという事実だけは押さえておきたい。これは時代の風潮でもあるが、一人の表現者のなかでの成長の段階でも起きている。

歌枕

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 サントリー美術館で開催中の「歌枕 あなたの知らない心の風景」という展覧会を見てきた。歌枕は和歌の世界でいう名所のことであるが、よく知られているように実際にその地に訪れることはなくてもその風景を歌の中に詠みこんでしまうというものである。そこから歌を素材とした絵画が生まれ、さらには様々な工芸品が生まれた。

 桜といえば吉野、紅葉といえば竜田というように歌枕には固定的なイメージがある。吉野にも紅葉はあるし、夏の茂みもある。しかし、そういうことは捨てられて桜の山として注目される。歌枕としての地名は場所の名前ではなく、当時の美的観念からその地に見出されてきたイメージのまとまりを意味する。もちろん核となる風景はあるのだが、そこに集まってきた印象の積み重ねが形式化して歌の素材として定着すると歌枕になっていく。

 この展示では歌枕を絵画化した屏風や絵巻物が多く並べられている。これらの作品は一度和歌の素材として実景から濃縮されたイメージが、一度和歌として利用され、今度はその作品の世界から風景が想像されて、視覚の世界に再現されたものといえる。いってみれば風景の美的エッセンスが何度か濾しとられているようなものであろう。

 だから歌枕の絵は実景とはかけ離れていても当たり前なのだ。それは美意識によって切り取られたものであり、それがさらに観念的に再構成されて屏風絵のようなものに再び視覚化されていく。その繰り返しの中で洗練度はさらに増していった。わが国の近世絵画に厳密な意味での写実がはないのだと思う。そこには理想的な美のエッセンスを描こうとする営みがあった。

 でもこれが西洋絵画に多大なる影響を与えたのは周知のとおりだ。実物の映像を複製するのではなく、自分が見たまま感じたままの映像を具現化することの重要性への気づきが近代絵画の発展に貢献したのであろう。

 よく言われていることだが、こうしたものの捉え方が和歌やその派生形である俳句を核として生まれ成長してきたことはもっと注目すべきだろう。短詩形に思いを詰め込むために何を捨象して、何を取り出すのか。その中で醸成されてきたさまざまな約束事のなかで押しつぶされないようにどのような工夫をしてきたかといったことは日本の文化を考える上での大きなヒントになる。さらに現況を打破するための哲学ともなりうるかもしれない。

枠組みの外

 私が何かを見たり聞いたり、考えたりするとき既存の枠組みが大きく作用している。最近、特にこれを実感する場面が多い。

 枠組みを外して考えろとはいうのは易しいがなかなかできるのものではない。枠組みから外れると認識すらできないことが多いのだ。感知できないことは思考の中に取り込めない。

 私の場合、何かのはずみでいつもと違う考えが浮かんだとき、それを残しておく手段が短歌や俳句、詩といった韻文である。これも最近気がついたのだが私の作る短歌は何かおかしい。辻褄が合わない世界の表現はきっとこのフレームアウトした何かを張り込もうとする結果なのではないか。

 韻文のままでは思考に繋がらない。さらに先を追求すると新しい局面に到達するのだろう。

同音異義語

 音韻の種類が少ない日本語には数多くの同音異義語がある。漢字で書き分けることで書き言葉の体裁は保たれている。漢字廃止や制限に関する議論はいつでもあるが、この性質上安易な処置は言語の質を損なうことに繋がる。

 この不自由さはときに文芸の利点となることもある。和歌に見られる掛詞や序詞には同音異義語を意図的に活用したものだ。表現の幅を広げることにつながっている。

 同音異義語の言葉が関係する物語を書こうと思っている。文才はないがあくまで楽しみとして。多義語を絡めてもいい。言葉は使いようで可能性が広がる。

異郷を描くこと

 私にはそんな経験はないが遠い異郷のことを絵画なり文学作品なりにすることは意外に難しいかもしれないと思う。描く手がかりとなる表現が見つからないかもしれないからである。

 もちろん、それまでに獲得した語彙や表現方法で、他郷を描くとこはできるはずだ。でもそれは結局は経験をそのまま表現していないのではないだろうか。比喩比況の手法で近似値を語っているに過ぎない。

 都から地方官となった貴族の文学をみると大抵は都の文學そのままである。地名が詠み込まれることでようやく地方性を保っている感がある。生活圏を離れて創作することは意外にも難しい。

吉川英治

 吉川英治記念館を10年ぶりに再訪した。青梅市に移管され運営されていた。雨が降ったあとで、かえって庭園の緑が映えていた。

 大衆小説の大家として成功したこの作家は幼少期から青年期にかけては恵まれておらず、最初の結婚も破綻するなど前半生は苦難の連続だったようだ。加えて関東大震災に第二次世界大戦終結までの混乱があった。

 その中で、たたき上げの文筆活動が成功し流行作家になった。後半生は交友関係にも恵まれていたらしく、様々な人々との交流があったようだ。展示されていた吉川英治に宛てた様々な人々の書簡の多くは親しみの伺える内容であり、そこに人柄が浮かび上がる。

 吉川英治の作品の多くが分かりやすく人間味に溢れているのも、そのような人柄によるものかも知れないと察したのである。

古典を活かす

 古典的なものをそのまま保存することは意味がある。ただ、それだけでは博物館から出ることはできまい。思い切って古典のコンセプトを現代に活かしてしまう試みをもっとしてもいいと考える。

 私は古典文学を専攻してきたが、最近どうも分が悪い。そもそも学校で古典を教える意味があるのかなどと言い出す人もいるし、古典など知らなくても立派に成功していると豪語する人もいる。彼らは日本語という言語で思考していることを忘れているのだろうか。わたしたちの使う言葉は明らかに古典の延長上にある。

 経済効果しか頭にない人に古典の学習意義を説明するのは難しいが、どうもそれも明確化できそうな気がしてきた。コモディティ化が進む世界にあっては独自性特殊性こそが価値を生む。古典的な世界を再構成することも一つのその手段なのだ。美術工芸など具現化しやすいものもある。古典を活かせば新たな可能性が生まれる。

 おそらくそれが見えたときに古典学習を縮小しようという声も消えるのだろう。別に金儲けのために古典を学ぶつもりはないがまずは仲間を増やさなくてはなるまい。

短歌

 二十歳の頃から続けているのが短歌である。最初は文語を使って万葉集のような作品を目指していたが、だんだんと口語短歌に移行し身近なつぶやきを述べる器にしていた。Twitterが始まる前からである。

 最近はまた大きな風景を歌う作品に魅力を感じている。画面の大きさもそうだが、事態をメタレベルで捉えることに興味が湧いている。恐らく現実逃避の新しい形態なのだろう。

 俳句はかなり構えて作るが短歌は相当いい加減に作っている。私にとってはカジュアルな表現方法なのだ。このところはソーシャルメディアに書き散らかしているが一度まとめて見たほうがいい気がしている。

短歌

 二十歳前後から断続的ながら続いているのが短歌の作成だ。何年経ってもうまくはならないががそれがこの文芸のいいところでもある。満足してしまえばこんなにも続くことはない。

 短歌は私にとっては感情のスケッチのようなもので詳細な色塗りはできないがある程度の視点の確定と塗代の確保はできる。展開を気にせずにとりあえず心の点描をしておくというときに役立つ。

 こういう考え方は私のブログの書き方にも影響しているかもしれない。毎日何かを書くことは欠かさないようにしているが、記事相互の一貫性とかテーマとかはほとんど気にしていない。場合によっては以前書いたことと矛盾しても平気でいる。

 こうした無責任な書き方は時々の精神状態のスケッチと考えることで弁明している。

俳句

 長い間続けているものとして、俳句と短歌がある。短歌の方が長い。俳句はその面白さを理解するまで時間がかかった。

 俳句にもいろいろな考え方があるのであくまで私見だが、情をためて景で表現する文芸と心得ている。喜怒哀楽を直接表現することなく、点景を指摘することで作者の情感を表すのだ。これになれるまでには少々時間がかかった。

 超短詩形文学は常に類型化陳腐化に直面している。型に沿いながら個を守るというのも難しくもおもしろくもある。