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過去の映像

 動画サイトなどで昭和の中ごろの映像をみることができる。デジタル修復技術によって鮮明によみがえった写真や動画はまるで映画の風景のように見える。例えば戦後間もないころの東京の映像は、貧しいが活力のあるさまが映し出されている。おそらく復興のエネルギーやさまざまな矛盾が横溢していたに相違ない。

 今と違ってうつむいて歩く人はいない。スマートフォンがないからである。和服を着ている人も多く、男性は帽子をかぶる人が多かったようだ。建物はほとんどが平屋で、狭い歩道に肩を時にぶつけながらも人々が歩いている。こういう風景がかつてあったことに驚くのである。

 現在の日本の風景も数十年後には奇異に思われるようになるのかもしれない。ほとんどの人がデジタルデバイスに魂を吸われているように持ち歩き、やたらと写真や動画を撮る。おそらく未来の人はスマートフォンは持たないだろうし、写真や動画も含めておそらく着用型、もしくは埋め込み型となっているのかもしれない。人口が激減したため、町は閑散としているがそれでもいまより多くの情報が行き交い、さかんにビジネスも行われているのかもしれない。あるいはすべてがうまくいかず廃墟が続くようになるのか。それは分からない。

 過去の映像を見ている自分と、未来に後輩たちにみられる今の自分を思って不思議な気持ちになっている。

変わり続ける日本

 日本以前の日本というと自己撞着を起こしているようだが、研究者のなかには中世以前の日本と現在の日本ではかなり様態が違ったという人がいる。考古学的には平安時代くらいまでは現在の日本人とは形質的にことなる人が周辺地域にはかなり残っていたというし、文化的側面も時代によって異なることが多い。

 古事記の神話の中には大王族が支配する前の先住民族と思われる人の姿が述べられる。国栖とか土蜘蛛と呼ばれる異民族はまるで妖怪のような描写がなされているが、自民族との見た目の違いを誇張して表現したものと思われる。こうした異民族は平安時代ごろまでは少数であるが残っていたと考えられている。鄙には本当に異民族がいたのだ。

 和風といえばすぐに思い浮かぶのは和服であるが、平安時代くらいまでは今の服装とはずいぶん異なる。また一日三食の習慣、お茶を飲むこと、畳の上での生活なども平安時代には一般的ではない。私たちが考える日本風のほとんどがそのまま通用しないことになる。

 王朝交代がない日本の歴史を一つの流れとして考えることは間違っていない。ただ、その中身は時代によって大きく変化している。日本の文化は地政学的も歴史的にも周辺の状況に影響され、その一部を常に取り入れ、さらにそれを独自に融合して変わり続けている。だから時間が経過するごとに全く違う形になってしまうのが特徴なのだろう。日本式はこれですというスタティックなものはおそらくなく、常に変化を続けその都度融合しなおすというのが日本の特徴というべきなのだろう。

Before the establishment of the current Japan, significant differences existed in pre-medieval Japan. Archaeologically, pre-Heian period Japanese individuals exhibited distinct traits from modern Japanese, with varying cultural aspects. The mythical Kojiki references indigenous people predating royal rule, highlighting differences in appearance and customs. Traditional Japanese elements such as clothing, diet, and lifestyle significantly differed in the Heian period. Japan’s culture continuously evolves by integrating influences and undergoing unique transformations over time. This continual fusion and adaptation define Japan’s dynamic nature.

いつまで正月

 元旦から天災人災が相次ぎ、波乱の幕開けとなった。ただ、暦の上では正月であることには変わりない。正月気分は元日の地震で吹き飛んだ。でも、正月扱いはいつまでなのかは気になる。

 ちなみに古典作品を読んでいると、旧暦の1月は月末まで正月と表記されている。元日と人日の節句が宮中の大行事だが、その他にも様々な祭事があるのが1月の特徴である。

 関東では7日までを松の内と考える地域が多い。そこまでは注連縄を飾り晴れの時間であることを示す。これが11日とか15日までとかの地域もある。

 今年の場合、5日までを祝日扱いにしているところが多い。6日は土曜だから土日の料金体系になる。結果的に8日まで休日の扱いとなるというわけである。

 正月を祝うことは他の祭日イベントに比べると伝統的かつ保守的だ。大晦日の夜に渋谷で騒ごうなどとは思わない。そこが土着の祭日とそうでないものの差なのだろうか。

勝てばいいというわけではなく

 日本大学のアメリカンフットボール部が廃部するという。幾多のスキャンダルや薬物疑惑が続出したからには仕方がない。残念なのは日大を目指してフットボールを日々練習している選手諸君である。

 内部事情は分からないから、的を射た指摘になっていないかもしれないが、彼らはあまりにも勝負にこだわりすぎたのかもしれない。勝てばいい。勝利こそ正義と刷り込まれてきたのではないだろうか。勝って得られる報酬が大きすぎるあまりに、肝心なモラルとかマナーとかをあとに回してしまった可能性がある。

 私たちがスポーツに求めるのはもちろん勝率は欠かせないものの、それ以上に生き様を端的に見せてくれることにある。そして、何度でもやり直せると思わせる夢の提供が魅力だ。

 それが一部の優秀なタレントにフィールドを独占され、勝てば何をやっても許されるような雰囲気の中で戦うことになれば、次第に選手の心根も変わってくる。ボールを追いかける純粋な気持ちは勝敗なり、パスの成功率という数字に変換されてしまう。そこにはもう個人はない。

 最近、いろいろな日本代表チームが好成績を残しているので誇らしい限りだが、勝つために個人や社会の何かを壊しているのなら評価はできない。それなら負けた方がいい。勝利至上主義ではなく、そこに選手の生き様を見ることが私たちの求めていることだと信じる。

日本の器

 日本文化を独自性だけで語ることは難しい。私たちの文化は有史以前から、複数の異質の要素を受容し、それを融合する形で発展してきた。その意味ではオリジナルはほとんどないが、融合したものは唯一無二なので、すべてがオリジナルともいえる。

 ハイブリッドはこの国の特長であり、それがこの国を成り立たせていた。今日本は均一化、閉鎖性の弊害に見舞われている。自己満足が国としての活力を奪い、得るべき収穫を逃している。謙虚になる時期である。

 ネット上にはナショナリズムが溢れている。自信を持つのはいいが限度を越えれば害にしかならない。我以外皆我師の考えに立ち返るべきだ。一見、消極的に見えるが実はこれが最も強いあり方なのだ。

 日本の器に何を盛り、どういう料理を作るのか。その考え方を忘れない限り安泰であろう。

アジアプロ野球チャンピオンシップ

 日本の優勝を素直に喜べばいいのだろうが、このところ日本代表が勝ち続けていることを考えると、アジアの実力低下やそもそも野球の人気の減退を危惧してしまう。

野球はおもしろいですよ

 アジア大会と言いながら、参加しているのは日本、韓国、台湾、オーストラリアの4国だけである。プロ野球が興行として成り立つためには様々なハードルがあり、たまたま日本はそれに恵まれているというのに過ぎない。野球先進国としては海外にそのノウハウを提供して、スポーツとしての存在価値を高める必要がある。

 今回は年齢制限制の大会であり、若手に活躍の機会を与えたのはよいことだ。彼らがそれぞれの国のリーグで今後活躍してくれること、あるいは別の国のチームに渡って成績を残すことを期待したい。

庭園の表現

 とある庭園を歩いてみた。日本式に分類されるその庭園は園地も植栽も自然に近い形をしており、人為的な要素が抑えられていた。

とはいえ、庭園自体が人工的空間である以上、様々な意図が隠れており、それを考えるのが訪問者の楽しみの一つである。

なぜこの池はここで大きく湾曲しているのか、石塔にはいかなる意味があるのか。そういったことを考えるのは面白い。庭を見る楽しみである。

文化の日が夏日になる

 予報では今日の東京の最高気温は25℃となっている。本当ならまた夏日が加算されることになる。Microsoftのウィジェットが示す過去最高気温は去年の24℃である。ここ数年で記録を更新し続けているのなら、やはり温暖化が急速に進行しているのかもしれない。平均気温は19℃らしい。

 文化の日が夏日ならば夏とはいったい何だろう。もちろん最低気温の方を考えればやはり夏ではない。昼間は半そでが欲しく、夜は上着が欲しい。そういう日格差が大きな季節を秋と言えるのだろうか。人間が築き上げた豊かな文化が結果的に環境を大きく害しているとするならば、文化の在り方を考えなくてはなるまい。

 カルチャーは農耕に由来する言葉と聞く。自然なしには文化は起こりえない。

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昔書いた字

Photo by Pixabay on Pexels.com

 自分がかつて書いた字を読み返すと不思議に思うことがある。こんな字を書いていたのかと素直に驚く。それが子どものころの文字であれば普通だろう。子どもは手の大きさや筆記具を扱うための筋力が異なるだけではなく、字形に関する認識も違うから書いた字の印象が大きく変わって見えるのは当たり前だ。

 気になるのは大人になってからの字形の変化だ。ある時期には繊細な字体で書いていたのに、突然豪快もしくは乱暴になる。そういう繰り返しを何度も繰り返している。これは気分や環境の変化によるものに違いない。活字のような字を書くことを理想と考える時もあれば、自由闊達に書きたいときもある。ノートなどをみると、どうもその気分の波が私には大きく作用するようだ。この時はどんな気持ちだったのだろうか思い出すのもいい。

 デジタルでブログを書いているのはその意味では物足りないことになる。いつ書いても同じフォントで画面に現れるのは大切な感覚の何かを失わせているのかもしれない。

楽曲とともに

 谷村新司さんが逝去された。私より少し上の世代であるが、アリスとして活躍されていたときはリアルタイムで楽曲に親しんだ。そのころ始めたギターの練習曲にもアリスの曲が多かった。時代を彩る方がなくなると何かが大きく変わったような気になる。

 人の命は限りがあるからいつかお別れが来るのは知っている。自分だっていつこの世を去るのかは分からない。この後すぐかもしれないし、もうしばらく世にはばかるかもしれない。ミュージシャンの場合は少し違う。人生は短く芸術は長い。残した曲はいつまでも消えない。誰かが歌い継ぐ限り続く。個人的には「遠くで汽笛を聞きながら」の哀愁が好きだ。絶望しながらも生きていこうとする底力を感じる。あの時代の雰囲気には実にあっていた。

 最近の歌にもいいものがある。それを共通体験として持てているのだろうか。多様化の中で時代を代表する歌謡なり、事象というものが細分化されている。すると共通の体験は持てなくなるのでは危惧してしまうのだ。

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