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冬至の祭り

 2024年は12月21日が冬至に当たる。二十四節気のうちの大きな節目である冬至は一年で最も昼の長さが短くなる日であり、逆に言えばこの日から昼の長さが少しずつ長くなる。その意味では復活の日ともいえる。古人は物の影が最も長くなる日として把握していただろう。多くの節気が暦の存在を前提としているのに対し、直感的に感じ取れる当時は特別なものであったはずだ。

 冬至の記録上の初出は『続日本紀』の725年11月の記事である。当時は聖武天皇が国家仏教の考えのもと様々な行事を行っていた時期であり、冬至を祝うのも大陸の風に倣ったものであろう。ただそれ以前から、冬至に関する民間伝承はあったはずだ。たとえば天岩戸神話が冬至に行われた祭祀と何らかの関係があったのではないかという説は有力である。世界を見渡してもクリスマスのようにこの時期の前後に何らかの宗教行事を行う文化は多い。しかもそのテーマが復活や再生であることは自然現象に対する人間の素朴な信仰に端を発しているのかもしれない。気象学的には厳冬期に入る直前の季節であるが、日の長さが長くなる事実は人々にとっては頼もしいことであり、生命力の再興を想起させたのだろう。

 南瓜を食べたり、柚子湯に入ったりとさまざまな民俗があるが、今よりはるかに過酷であった冬季をしのぐための生活の知恵が形を変えて定着したものと考えられる。現代人はその理由をすでに理解できなくなっているが、おそらく切実な願いが背景にはあったのだろう。空を見上げることも、明日の天気を占うこともおろそかになっていることを反省するのである。

雑種文化

 雑種文化というとかなり抵抗がある。ただし、それを独自の文化といえばかなり違った印象にになる。多くの識者が説くように日本の文化は複数の文化の融合からなる。これも言葉を変えれば雑種であり、少しかっこよくいえばハイブリッドである。

 純日本風という言葉は色々な意味で解釈が難しい。日本独自のものはないが、日本にしかないものはある。トートロジーのようだがそれが現実だ。日本の文化が先行する要素を取り入れながら、その本筋は変えず、したたかに現実に合うように変更していく。それがこの国の伝統であり、我が国独自の性質である。

 この事実は実は時代を先取りしていた。グローバルな時代では自分のアイデンティティは他国他民族との対比の中から芽生える。他国とは違う何かを見つけたとき、それが自国文化を語る物差しとなったのだ。それを在来の文物、制度の中に織り込んでゆくことで和風が常に生成されている。

 柔軟性を忘れると活力が失われる。これは本当の生物のあり方にも似ている。

中華という日本料理

 中華料理というのはとても人気がある。中国由来の料理であるとされるがその中には日本でアレンジされたり、日本で発明されたものも多いと聞く。

 ラーメンは日本に渡ってさまざまなバリエーションが生まれ、中国にはない味もたくさんあるという。和風中華の最たるものだ。餃子は中国では蒸したり煮たりするのが中心で焼きはしない。麻婆豆腐は辛味をかなり抑えて日本人向けにした。天津飯は天津にはなく、餡掛け飯は恐らくどこかの家庭料理だった筈だという。

 私はラーメン餃子のセットを頼むことが多いがいずれも中華風日本料理ということになる。これに限らず日本は和風化の得意な国だ。ただ、その元祖への敬意を失わないことも特徴で本場中国風などという形容もよく取られる。文化の取り入れ方の特徴だろう。

小さな怪物の正体

 隣町にある図書館に通うことをほぼ日課としている。今日は朝からハロウィンの仮装をした子どもたちの姿をたくさん目にした。どうやら地域が主催したイベントがあったようだ。本当のハロウィンに近い10月最後の日曜日が選ばれたのだろう。カボチャ色のドレス、骸骨がプリントされたジャージ、ディズニーのプリンセス、ゲームのキャラクターなど様々だった。ほとんどが小学生低学年以下の子どもであった。

 ハロウィンの趣旨をどれほど理解できているのか、親の望みにただ従っているだけなのではないか、などと思いもするが、いい大人が乱痴気騒ぎをするのと違って可愛らしくも微笑ましくもある。これは子どもの行事であると改めて考えさせられた。

 子どもが家々を回り、門付けの芸能人を行い、代わりに報酬を受けるというスタイルは、我が国古来の民俗にもある。神の代理として家々を祝福して回る者で、広く言えば芸能人の元祖のようなものだ。今の芸能人は電波やデジタル信号に乗って芸を見せるが、かつては本当に各家を巡回していたのだ。その子ども版もあったのである。

 ハロウィンがそれと同じとは言えないが、キリスト教の普及以前からあった民間信仰が背景にあることは想像できる。その類似性がこの行事の受容を容易にしているのだろう。得意の和風化によって、大人のハメ外しにしたのは良くなかった。韓国の悲劇も間接的に影響を与えてしまったのかもしれない。

 恐らく根幹にあるのは収穫感謝と先祖崇拝であろうと考えている。アメリカのジャコランタンは先祖を迎えるための道具のように思えてならない。先祖の役を子どもが行うことに意味があったのではないか。

 ちっともキリスト教的ではない風俗が、むしろそうであるからこそすんなりと受け入れられたと推測する。仮装することばかりが注目されるが、その意味について考えるのは無意味ではない。

読解力が導く新しい世界

 後に大家と呼ばれる作家のデビュー作の中にも酷評を受けたものが多数あるという。読むに値しない作品だ、などというのはまだいい方で、作家の人間性を傷つけるような行き過ぎたほとんど誹謗中傷というものまである。

AIが生成したこの記事のイメージ

 これにはいくつかの要因があるようだが、その第一は読み手としての受け入れ方法が見つからなかったことにある。新しい表現法、新しいテーマ、新しい視点といったものは新奇性というより、奇異性の方が先行する。結果としていかに読めばいいのかわからないのだ。

 時代を変えるような作品の中にはそれを受容する側の能力との釣り合いが求められることがある。その均衡が図られるまでは作品が評価されることがないのかもしれない。作家が先行しても読者がいなければ作品は浮かばれない。

 物差しのない中でその作品の価値をなんとなく見抜くのは実は才能なのかもしれない。よく分からないけれどなんだか凄いと感じる。そういうことができる人が現れてくると新しい作品が生まれる。こうした読解力を持った人が真の読者というべきなのだろう。

 小説の話で書いているが、これはどんな方面にも当てはまる。新しいもの、今までになかったものにどういう評価を下し、どんな価値を与えるのか。それには奇異と映るものを粘り強く受け入れることが要求される。そしてそれが達成されることで新しい世界が始まるのだ。

伝説と昔話

 民俗学を学ぶものはごく初期に伝説と昔話の分類について学ぶ。昔話は桃太郎や一寸法師などの例を想起すれば分かるように、定型があり、聞き手側がある程度非現実性を認めていることだ。

 すなわち、関東地方の例では話始めが「むかしむかし」であり、終わりは「めでたしめでたし」である。またあるところという不特定情報が提示され、登場人物の素性についても極めて曖昧である。昔話の聞き手、もしくは読者はそういった詳細情報には無関心で、一部虚構であることも承認している。

 それに対して伝説というのはとにかく核となる物事があり、それが真実だと考えられている。話す方も聞く方もかつてあった本当の話として語り継がれるのである。それが昔話との大きな違いである。伝説には話法においては定型はない。その代わり、核となる事物が今でも存在し、話者も聞き手も話されている内容が事実であると信じている。話の定型はなく。不可思議な話が次々に展開される。

 伝説のいくつかはその現場に行った経験があるはずだ。特定の自然物もしくは人工物が、何らかの由緒をもって語られる。義経、秀吉、家康のような歴史上の人物がその主人公になっている場合もあれば、不特定の人物がその代わりになることもある。その誰であるにしても、語り手は(そして聞き手は)本当の話として語り、聞いているのである。

 都市伝説という言葉もある。これは現代社会における伝説をいうものだが、従来の伝説と類似していながら、少し異なるところもある。伝統的な伝説ではあくまで話者も聞き手も完全にその内容を信じており、それを語り継ぐことに意義を感じていた。しかし、都市伝説にはそのような伝達主義はなく、もっと余裕がある。信じなければ天罰が当たるといった考え方はなく、むしろ流言飛語のように受け流しても構わないというくらいの位置づけである。伝説の後進としては変わり者で、不真面目でもある。

 ただ、これも気をつけなくてはならないことがある。どんなに怪しい話でも現代の都市伝説は、メディアにのってしまうとそれなりに説得力をもってしまうのだ。実は冗談から始まったことだとしても、それがあたかも切迫した事実のようなふりをする。現代の伝説は別の意味で信用される可能性があるのだ。

 冷静に振る舞うためにはここまで述べた民俗学的な知見を知っておいた方がいい。話はいかに展開し、変化していくのか。民間の言説の特徴を理解しておいた方がよい。

実用主義と基礎研究の対立

 科学者にとってノーベル賞は自分の業績を評価してもらうための大切なものらしい。特に基礎研究をしている人にとっては、一般人が何のためにやっているのか、何に役立つのかを理解するのが難しい研究領域を、一気に知らしめるきっかけになる。日本人はこの基礎研究の分野で一定の評価を受けてきたようで、多くのノーベル賞受賞者を輩出している。彼らの研究はその後の応用科学や技術を導き出している。

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 ところが、今後受賞者が減るのではないかというよくない予測が出ている。その原因の一つに実用主義に偏向した補助金支給の在り方にあるのではないかという批判がある。何らかの利益に結び付きそうなものには金を出すが、基礎研究は序列を下げるというものである。話を大きくしてしまうが、これは理系分野のみならず、学問、教育の分野全般に言えることではないだろうか。役に立ちそうなことはやるが、どうなるか分からない知的活動は軽視する。

 いわゆる知識人と呼ばれる人の中に、日本の教育の中にはやっても意味がないものが多すぎる、それらを止めて、もっと実用的なことをする時間を増やすべきだという人がいる。一理あるような気もするが、それでやめるべき対象として文学や古典、歴史、理科の一部分野、さらには体育や美術などの実技科目などがあげられる。その根拠は将来役には立たないからというものだが、そう言っている論者の多くは中等教育においてそれらの科目からいろいろな知識を得ているように思えてならない。

 役に立つ立たないという区分けをしてしまうこと自体が知的活動の芽を摘んでしまう。何が役に立つのかは一人の人生の範囲の中では分からない。後になって発見があるかもしれないし、極端なことを言えば人生が終了した後で、後生によって価値が発見されることもある。思うに教養にも短期的なものと中長期的なものがある。昨今の人々は教養というものをどこか古臭いものと考え、非実用とする。少々心得のあるものでも数年から十数年くらいの人生で役に立ちそうな短期的教養は尊重するが、それ以上のものはなくてもいいのではと考えているように思える。

 ノーベル賞のようなブレークスルーにつながる業績を残す人は、短期的実用主義とは縁遠い人が多い。ただ、自分の知的好奇心に沿って思考を進め、そのためには一見無駄と思われることもし続けている。また、最近注目されているのはアート分野への関心がある人が多いということだ。想像力と芸術は類似する点が多く、大変親和性が高いという。文学や歴史もそうだろう。そういったものが背景となって知的活動が成立する。だから、そういう背景となるものを取り去って、新しい何かを考えろというもは実に本末転倒なのだということになる。考える行為にまで利益を考えなくてはならないほど、精神的貧困が進んでいるということなのだろうか。

月の面を見ることは

 今晩の月は中秋の名月にあたるという。もっとも月齢は15ではなく、満月は明日だ。太陰太陽暦の15日が今日に当たるため、実際の月齢との差が生じている。これは歴史的には普通であり、むしろ名月が満月であるときの方が少ないようだ。

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 竹取物語には満月を見るのは忌むべきことという件がある。かぐや姫の昇天を前にした場面の話であり、その分割り引かなくてはならないが、おそらく古代のある時期までには月を直接見ることは避けるべきだという考え方があったに相違ない。禁忌と崇拝は紙一重である。おそらく月に対する信仰が頂点に達すると月を見てはいけないという考え方に結び付いたのではないだろうか。

 月のない夜を闇夜というのはずいぶん詩的な表現に感じるが、人工的な光がない場所に行けば月光の明るさはとても頼もしいものに感じる。月光への依存はすぐに神格化につながり、それがやがては月光を直接見てはならないという禁忌につながることは容易に推測できる。

 月の満ち欠けを暦として使っていた時代の人々にとって、月齢は農事暦と直結する。月が生活を支えるものと感じられるのは自然の成り行きだろう。現代人はこの点についてはすっかり忘れてしまった。月齢を気にしているのはそれが記されている暦かムーンページメントのついた時計の持ち主くらいだろう。おそらく月見の行事は貴族が発見したとしても、それを真剣に伝えたのは農民たちだと考える。収穫への感謝や来年への豊作祈願の思いがこの行事を下支えしてきたのだろう。

 今晩月見ができるかどうかわからないが、この異常気象の中で何とか生活を保てていることをまずは感謝しようと思う。






太平洋高気圧の功罪

 いつまで「残暑」が続くのかと思ってしまう。長期予報では高温傾向は10月まで継続しそうだという。秋は夏に侵食され、すぐに冬を迎えることになる。

 その原因は太平洋高気圧が日本を覆っていることにあるという。9月に入っても猛暑日となる地域があり、東京もそのわずか手前の毎日だ。夜になっても気温が落ちない。明らかに何かおかしいと感じる。

 ただこの太平洋高気圧のために台風が接近できない。結果的に台風バリアになっている。台風の外周の雨雲を防ぐことはできないが、少なくとも本州地域は台風の直撃を防げている。ならば太平洋高気圧は人間の味方なのではないか。

 

八咫烏

 日本サッカー協会のシンボルマークの八咫烏(ヤタガラス)が記紀神話に基づくものなのか、「淮南子」などに登場する三足烏に基づくのかでちょっとした論争になっているという。私見ではどちらも正解であり、不正解でもある。この話には日本文化の本質に触れる問題がある。

 自国のアイデンティティを自前のものにしたいという心理はわかりやすい。でも日本という国名自体が輸入された漢字とその字音でできている。ちなみに中華人民共和国の人民や共和国は明治の日本人が作り出した翻訳語だ。アイデンティティの中核に当たる名前自体が借り物でできている。

 それは決して価値を落とす要因にはならない。文化というものは交流の中で発展するものであり、そこにルーツの正当性を競っても意味はない。私たちの文化には多数の異文化がすでに溶け込んでいる。それを切り離したら、存在すらできない。

 八咫烏がどこの生まれなのかを考えるより、なぜ3本足のカラスが瑞兆とされたのかを考えるべきだ。なぜカラスなのか。なぜ奇形とも言える形態なのか。そして日本がなぜ他国の感性を取り入れたのか。

 他国の文化を取り入れ、和風化することに長けた我が国の文化的風土は、結果的に独自の文化を常に創出し続けている。寛容かつ着実な文化への意識がある限り、次の展開も期待できる。保守は大切だが適度な革新も忘れない。それが日本文化の強みだと言える。だから、八咫烏は中国由来であり、日本由来でもある。そのどちらかではない。