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二十四節気の意味

北京で冬季オリンピックが始まった。開会式は国家の威信をかけた演出がなされるものだが、今の中国のありかたの縮図を見たようで興味深かった。隠されたメッセージも数多くあった。

開会のカウントダウンが24節気で行われたのは日本人にとっても興味深いものであった。そのすべてを知らなくとも立春、夏至、秋分、冬至や雨水、大暑などのどこかで聞いたことがある節気の名前が出たことは親しみ深いものであった。

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実はこの節気というものは古代中国の中原地域の気候を基準として命名されており、日本の気候とはずれがある。それでもこれが使われているのは中国の文化的な影響力の強さを意味するものである。時間的に我が国は古代中国の文化圏にあることをこのイベントは再認識させる効果があった。

中国の文化的な蓄積はやはり大きい。しかし、現在の中華人民共和国がその正統であり、他国のものは亜流と考えるのは間違いだ。二十四節気もそうだが古代中国から受け継いでいるものは、現在のどの地域のものに対しても共通の祖先であり、本家分家ではない。

日本の節気には土用や八十八夜のような雑節と呼ばれるものもある。日本の気候との齟齬を埋めるための工夫である。このような考え方はおそらく、他の国や地域にもあるはずだ。それを亜流とするのではなく、適応と考えるのが文化史的には正しい。

文化の話になるとどうしても歴史的な展開と、価値観の話が混同される傾向にあるが、この点は峻別しておかなくてはならない。

古典文学の文庫本

 学生時代は『万葉集』をよく読んだ。国文科の学生であったからそれは教材であり、研究材料でもあったのだが、いまは心の拠り所のようなものである。

 職が変わり日々の業務に忙殺されている間に古典文学を教材としてしか扱わなくなってしまった事に気づいた。文法やその他の知識を生徒諸君に伝達することは教員として大切な役目だ。それを効率的に行うことで仕事の評価がなされることにもなれてしまった。相当な違和感を常に感じながら。

 古典を読む意味は試験に受かるためだけではない。むしろそれは二義的なもので本道から外れる。それに気づいていない教員が多いのはとても残念だが、教員がそうなのだから世間の人々の大半は古典文学は単なる受験の一科目くらいにしか考えていない。

 しかし、古典は様々なことを考える切っ掛けであり、道標でもある。過去の人々の心の足跡に触れることで現状を捉え直すことができることがある。とても大切なことではないだろうか。最近古典文学の文庫本をもう一度開くことにしている。一部は何度も開き壊れそうになっているのでまた買い換えよう。

 相変わらず読んでもわからない部分がある。解釈できない部分さえもある。それでも何度も付きあているうちに読めてくるときが来るかもしれない。それは自分自身の読解力の向上だけではなく、精神の成長に関係するのではないかと考えるのである。


文化

東京では文化の日は穏やかな晴天だった。かつては天長節であったこの日はなぜか晴れの特異日の一つであるという。それが文化の日となった経緯は興味深いが今日はその話題にはしない。文化とは何か、そして文化を伝えることの重要性を実感しているということを述べたい。

日本には日本の生活様式なり、思考の形式というものがある。それは特に優れているというわけではなく劣っているわけでもない。私は日本人なのでそれに対して誇りをもち、優越感を感じることもあるが、これはあくまで相対的なものであることも知っている。どの民族の文化もそれが成立するまでには洗練を繰り返しており、全てが素晴らしいはずだ。理解するのが難しいのは文化が違うことが要因なのである。

それでも日本の文化を海外に広めたいと思うことが多い。こんなふうに考え、行動すれば大変興味深い効果が生まれる。それを多文化の民族にも知ってもらいたいと思うのだ。おそらく多くは奇異と思われ、中には評価する人も出てくるはずだ。その一部の人にでもいい。日本の文化を知ってもらいたいのだ。

文化を伝えるためのもっと良い手段はその国言葉をつかてもらうことにあると考える。ただ、それは非常にハードルが高い。私など何十年も英語を学んでいるというのに未だに満足に日常会話すらできない。でも、日本語を知っていただくことは文化理解の第一歩なのだ。このブログを海外から見ていただいている方もいるかも知れない。翻訳ツールを使えばおおよその内容はおわかりいただけるはずだ。でも本当は日本語を少しだけでもわかっていただけたほうが真意が伝わる。私も外国語の学習を続けていきたい。それが異文化への接点になるというのであれば。

ハロウィン

日本でもハロウィンが行われているが、その意味を理解している人は少ない。子供の行事としてではなく商店の売出しの手段、大人のバカ騒ぎの言い訳として定着している。しかし、昨今のコロナ禍の影響で暴徒化する不届き者はしばらく途絶えている。

ハロウィンの化け物の正体は実は先祖の霊魂であるという。このあたりは日本の民俗に見られる鬼の形相をした先祖まつりと似ている。神と怪物は紙一重であり、まして劣勢の神話は妖怪化しやすい。祖先神とともに邪悪な霊が来訪するという考え方も日本の施餓鬼棚の習慣とよく似ている。仮装する行事としては京都の節分おばけが知られている。鬼面や天狗面をつけて先祖の霊になりきる行事は日本各地にある。ケルト人の信仰が元と言われるが、日本民族と直接の関係がない民俗に共通点があるのは興味深い。キリスト教とは無関係の行事なのでこの習慣がない国も多いらしい。

日本でハロウィンが受け入れられたのはもちろんアメリカとの関係によるものであろう。また、クリスマスまでの商機に利用されたこともある。ただその基層部分には古代信仰の偶然の類似があると考えられるだろう。それを意識している人は少ないにしても。

ハロウィンの起源には魔除けの要素も含まれていたという。もしそうであるならばウイルスという目に見えない魔物を退散させることを願いたい。東京では感染者数が激減しているが、世界的にはまた増加傾向が見られるという。完全に魔物が霊界に戻ることを期待して止まない。

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Halloween is also celebrated in Japan, but few people understand its meaning. It is not a children’s event, but rather a means for merchants to sell their wares, and an excuse for adults to make a fool of themselves. However, due to the recent corona disaster, the number of rioting miscreants has ceased for some time.

It is said that the true identity of Halloween monsters is actually the spirits of ancestors. This is similar to ancestral festivals in the form of demons in Japanese folklore. There is a fine line between gods and monsters, and inferior myths are more likely to turn into monsters. The idea that evil spirits visit us along with the ancestral deities is also similar to the Japanese custom of the “Segakidana”. The Setsubun Obake in Kyoto is well known as a masquerade event. There are many events all over Japan where people wear ogre or tengu masks and pretend to be the spirits of their ancestors. They are said to be based on the beliefs of the Celts, but it is interesting to see the similarities in folk customs that have no direct relationship with the Japanese people. It is said that many countries do not have this custom because it has nothing to do with Christianity.

Of course, the acceptance of Halloween in Japan is probably due to the relationship with the United States. It was also used as a commercial opportunity until Christmas. But at the base of it all, there is a coincidental similarity to ancient beliefs. Even though few people are aware of it.

The origin of Halloween is said to have included an element of protection from evil. If this is true, I hope that it will help to get rid of the invisible demons called viruses. In Tokyo, the number of infected people has decreased drastically, but worldwide, the number is increasing again. I can’t stop hoping that the demons will completely return to the spirit world.

Translated with http://www.DeepL.com/Translator (free version)

Deeplで翻訳してみました。日本語の名詞の間違いを直しましたが、それ以外は結構、うまく行っているような気がします。正解はわかりませんが。

冷たい日本人

 興味深い記事を読んだ。他者を救済する人の割合をランキングすると日本は他国を引き離して最下位となるのだそうだ。調査項目には寄付をしたり、ボランティア活動歴、知らない人を助けた経験、支援団体の数などがあるが、そのどれもが世界の水準からかけなれて低いらしい。

 日本に住む私の実感として、この調査の結果は大いに疑問がある。確かに東京に住んでいると他人に対する配慮が少ない人を多く見かける。中には相当わがままな人もいる。しかし、世界最下位になるほどの状況には見えない。秩序正しいので、満員電車の中でもめったにトラブルは起きないし、ゴミを捨てて迷惑な人も少ない。であるにもかかわらずなぜこのような結果なのだろうか。

 思うに伝統的な日本の価値観にウチとヨソの枠組みがあることがその原因のひとつだろう。自分と同じ集団に所属していると意識する相手に対しては過剰なほど気を使うが、そうでない相手は無視しようとする。その枠組みがたとえば人種とか宗教とかそういうものではなく、きわめて個人的な感情に基づくので他人から分かりにくくなっている。

 それを日本人の特徴と考えればそれでいいし、何も他国のそれと合わせる必要もないかもしれない。ただ、社会がグローバル化するなかでこうした小さな集団主義は不利益の面ばかりが目立ち始めている。自分の集団だけで生活が完結できる間はそれでよいが、もうどうしてもそうはいかない。集団の枠を広げていってもそれでも追いつかない。もはやヨソ人と関わらなくては何もできない。

 ヨソ人に関心を持つことの延長上にボランティア活動や寄付行為などがあるのかもしれない。世界はつながっていて統一のルールのようなものがあるというのは一神教の世界では大前提にある考え方だろう。日本にはそういう考え方はない。似たようなものとしてお天道様があるが、規範性は薄い。だから、かかわりのないものへの関心が薄いのかもしれない。世界はつながっていて、他者を救済することは世界を救うことになるという考えは、日本人にとってはかなりの学習を必要とする考え方のようである。

 経済的な衰退傾向も自分たちさえよければいいという考えを転換すれば好転するかもしれないと考えている。寄付でなくてもいい、他者のために金を使うのだ問う思いが資産家にあれば、世の中はよくなっていく可能性がある。人助けは自分を助けることでもある。情けは人の為ならずとはよく言ったものだ。「冷たい」日本人がこれから何をするべきなのか。実はその行動にこの国の命運がかかっている気がする。

融合というイノベーション

この国を再起するためにはイノベーションしかないと言われて久しい。しかし、研究開発にかける資金もそれを支援する制度も不完全な現状では一向に進む気配がない。残念ながら何も起きそうもない気がしている。

でも、そうでもないという人もいる。日本型のイノベーションとは新しい物をゼロから生み出すことではない。むしろこれまであるものを組み合わせたり、新しい解釈を加えることで新機軸を作り出してきたのが我が国のあり方だった。最近はその方法を忘れてしまったかのような気がする。

でも、この国に染み付いた文化融合のエネルギーはそう簡単には消えないだろう。まずは自国が一番というおごりを捨てて周囲の良いものを見つめることだ。その謙虚さが新しいものを作り出す始点となるだろう。我以外皆我師の精神をこの国が取り戻せば、また新しい展開が見られるはずだ。私もその一員としていろいろなことに関心を傾けていきたい。

社会を知る遊び

 誹謗中傷をソーシャルメディアに書き込むことに関して、様々な問題点が指摘されている。時に命さえ奪う精神的な打撃を与えることを考えると単に言論の自由という枠組みだけで処理することはできない。本名を名乗らない、遡及不可能な発言はカットすることをやらなくてはならないと考える。

 システムとして特定の人物の発言を不可視の状態にすることはすでに可能だ。信用のおけない相手の発言はそもそも見ないという方法である。しかし、実際には自分の端末でそれを行っても周囲からその情報は入ってくる。自分がどのように評価されているのか過度に気になる状況では、単に見ないというだけでは不安は解消されないのだろう。

 それ以上に大切なのは、精神的なフィルタを確立することである。誰が何と言おうと不当な発言は相手にしないという概念そのものを身につけることだ。これは教育の分野が行わなくてはならないのかもしれない。いわゆるメディアリテラシーだ。

 ただこれも一歩間違うと独善の方向に進んでしまう。正当な反論も聞き入れることができなくなれば、個人として社会としての発展が阻害されてしまう。ネットの存在の有無にかかわらず、集団の中で様々な意見とどのように付き合い、折り合いをつけ、時に自説を述べ、主張し、間違っていれば取り下げる。こういう繰り返しをこどもの頃から身につけることがこうした状況への解決につながるはずだ。

 悪口をいう方も同様なことが言えそうだ。自分の行為がどれほどの意味があるのか分かっていない。その影響力がどこまでおよび、いつまで続くのか。そしてそれが結局自分を傷つけ、時には再起不能のしっぺ返しを受けることになるということを。

 多くの場合、こうした社会性のようなものは遊びの中で習得されると考えられる。しかし、今の子どもたち、今大人になっている世代はこの遊びをしてきていない。それが大きな問題点だ。教育のなかに社会経験を積ませる遊びを導入する必要を強く感じる。

万葉集の歌

私にとっては万葉集の歌は何かを考えるときの原点になっている。日本以外の国からこのブログを読んでいらっしゃる方のために申し上げると、「万葉集」は日本のかなり古い古典である。8世紀くらいまでの日本の歌、短詩を集めたものである。

私は学生時代この歌集を研究していたのだが、今でも実に魅力的な古典だ。最近は文庫本で読み返すことが多いが、開くページごとにさまざまな発見がある。わたしたちの考える和風というのはだいたい室町時代以降、もっと言えば江戸時代のそれを指すことが多い。それ以前の鎌倉時代、平安時代は陸続きではあるものの今とはかなり違う。それ以前の奈良時代になると日本文化の常識が通用しない。畳、茶、日本酒そのいずれもないのが奈良時代なのだから。

それでも万葉集の作品は胸に響く。特に何かに行き詰まったときにこの作品を開くと良いヒントがあるような気がする。大昔の人が考えていたことが今の時代を動かすこともあるのだ。

「空気」問題

 日本人の国民性として取り上げられるのが「空気」の察知能力だ。個人よりも集団を重視する日本人はいまいる環境の中での適合を好む性質がある。秩序を重んじるのはそのせいだといわれる。これは長年言われ続けていることだから、ある程度は正しいのだろう。

 「空気を読む」はしばしば命令形で用いられ、集団の輪を乱さないことが美徳とされている。これはこれで素晴らしいことだと感じる。ただし変化には弱い。国際社会の中で日本が衰退の方向に向かっているといわれているのは、このことと関係があるのかもしれない。過去に日本が苦難の歴史を乗り越えてきたのは、時代の変節点においてこの国民性を一時的に変更し、極端から極端に走ることで対応してきたからではないだろうか。

 極端に性格を変えることには相当の痛みを伴う。多くの犠牲者が出る。それを避けたいと思いながらも、どうしても極端に走ってしまう。過去の秩序を旧弊として非難する風潮が社会に満ち始めている。やがてこれが日本社会を大きく変えてしまうかもしれない。だが、事態が落ち着くとまた同調モードに逆戻りして平和主義になる。そういう歴史を繰り返しているのではないだろうか。

 もしそうならば、いまは同調モードが破綻しかけている時期と察する。このあとに大きな変革があるかもしれない。いやすでに始まっているのかもしれない。同調しきれない要素が世界を満たしたとき、一気に変化していく可能性がある。そこでの痛みをなるべく減らすために、私たちは過去の歴史に学ばなくてはならないかもしれない。

近隣の見直し

 コロナ禍で遠出ができなくなった副作用もある。近隣の歴史や文化について考えるきつかけを与えられたことだ。

 身近な事柄について私たちは価値を見いだすことが難しい。日常に隣接することには特別な意味を感じにくいのだ。当たり前というバリアがすべてを見えなくしてしまう。

 どんな地域にもそれまでの歴史の積み重ねがあり、そこにはさまざまなドラマがある。そのことを思い出させるのは、今回の異常事態の僅かな功績の一つなのだろう。