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すべて一期一会

 自らの体内組織が刻々と変化している現実を考えるならば、感知した現実もまたその時限りのものということになります。すべてのものが一期一会なのです。

 自分という視点が不動の座標軸の原点であると考えることができれば、かなり単純な数式で世界が捉えられるかもしれません。また日常的にはそのように考えています。時空を目盛において起きた現実を同一の平面に投影しようとします。大体のことはこれで事足りるのです。

 ところが実際は原点自体が常に移動しており、揺れながら対象を見ているのです。手ブレを補正するカメラのように巧みに対象を見続けてもその限度を超えるともはや同じものを見ているともいえなくなる。私たちの見ている世界はこのように変動的なのです。

 変わってしまうことを前提として物事を捉える視点を私たちは常に忘れてはなりません。昨日そうだと確信しても明日は違うかもしれません。そういう心の余裕と、世界観はこれからの現実を生きる上でかなり重要だと感じるのです。

色のイメージ

 国旗に使われる色にはそれぞれ込められた意味があるといいます。フランスやイタリアなどのように色彩に託されている意味が深いものはそれを知ると強い説得力を示します。

 ただ色彩が惹起する印象が民族によって異なるのも確かです。欧米の一部の民族では緑に嫉妬心を読み取るのだそうです。この感覚は私にはありません。見ているものが同じでも感じることは異なるという事実はいつも意識していなくてはなりません。

 色の分節についても共通していると思いこんではいけないようです。日本の古代では青の指す範囲はいまより広いようですし、虹が何色かという国際比較にも興味深い結果が出ています。通時的にも共時的にも色彩の区分は様々です。細かいことを言えば色覚の個人差も考える必要があります。同じ世界を見ているというのは幻想なのかもしれません。

 色分けは日本語では分類そのものを表す言葉でもあります。その色分けが極めて個人的な判断によるものである事を再認識しておきたいのです。

その人にしか見えないもの

 その人にしか見えないものがあることを私たちはなかなか気がつきません。何かのきっかけでそれが分かったときに深い感動を覚えることがあります。

 例えば絵画や写真を見ることはそのきっかけになります。同じ場所を見ても見えているものがまったく違うということを画家の創り出す作品は端的に教えてくれます。色合いや大きさ、中心にあるものなど、こういう風に見ていたのかと感じさせられます。写真は客観的な現実の切り取りのような体を装いながら、実はカメラマンの視点が強く反映されています。どの瞬間を現像するかの選択は撮影者の創意が形になったものなのです。さらに加工が加わればより複雑なオリジナリティの表現になります。

 対象がどう見えているのかを確かめることを一つの目的とすれば、芸術鑑賞の楽しみが増えます。そして、芸術作品に関わらずすべての現象が同様にいろいろな方法で捉えられているということを意識しておかなくてはならないのでしょう。

つるべ落とし

 日没の時間がどんどん早くなっているのを感じます。この歳になっても季節ごとの日照時間に関する感覚がつかめないのはなぜでしょうか。

 午後5時になるとかなり暗くなり、町の灯りが煌々と輝きます。夏至の前後は7時を過ぎても明るいことを考えればかなり大きな違いがあるといえます。これだけの変化を私はなぜ日々実感できないである時急に気づくのか。それは私が天体の運行による自然現象に向き合って生きていないからに違いありません。

 私たちは毎日の生活を時間という人工的に作り出した物差しを基準にして過ごしています。地球の公転と自転運動に基づいた目盛りであるのは確かですが、そこにある意味を付託し、独特の感覚を見ようとするのは人為的な営みです。時計がなければ太陽の位置を基準に生活が組み立てられるはずですし、日没後は平板で底の知れない、しかし必ず終わる夜があるはずです。

 私たちはそういう感覚を忘れたために秋の日短さを感じるのではないでしょうか。