今日の最高気温は29℃の予報が出ている。昨日より10℃近く高い。こういうときには体調を崩しやすい。
体感は相対的である。毎日寒ければそれなりに身体が対応してくる。暑さも同様だ。限度はあるが耐性という能力は進化の過程で身につけてきた根源的能力なのだろう。
ところが変化には極めて弱い。注意せねばならないのは気温の絶対値ではない。
日々の思いを言葉にして
タグ: 季節

アジサイの花が曇天の下で輝いて見える。今日はかなり気温が低い。20度に達しないのではないかという予報である。何も考えずにいつもの半そでで出勤してしまって後悔している。
周辺の地域では梅雨入り宣言が出た。もっとも数日前から雨が多いため、後から入梅の時期が訂正される可能性もある。低温と雨ならばある程度我慢できるが、問題はこの後にくる高温であろう。蒸し暑さを伴う霖雨はさまざまな害がある。心身ともにいい影響はない。
そういえばアジサイの葉はあまり虫に食われない。それは表面に虫の嫌う成分が分泌しているからだという。カタツムリに食われている印象は間違っている。梅雨空を住みかとするものはたくましさが必要なのかもしれない。困難に立ち向かうためにはしかるべき戦略とたくましさがいるようだ。

ドクダミはいわゆる雑草の部類に入るもので多くの人が目にしているはずだ。どこにでも生えている白い4つの花びら(実は花ではないらしい)は印象的だ。私はこの花にいくつもの思い出がある。
こどもの頃はこの花は嫌いだった。野遊びのときこの草の放つ独特の臭いが嫌だった。名前に毒がつくのも気味が悪い。これを摘んて乾燥し、煎じて飲むと薬になるといって叔母が飲んていた。一口しか私は飲めなかった。
学生となり、訳あって俳句を作るようになると、この花が十薬というのだと知った。昔から民間薬として利用されており、多くの人を救って来たことも知識に入った。毒ではなく、毒を矯めるという植物だったのだ。これを知ってドクダミへの関心は高まった。
学生時代に友人と旅したことがある。何故かその中に北陸の古刹があった。広い境内のあちらこちらにドクダミが群生しており、その奥に踏み込むのを拒んでいるかのようだった。他にもより美しい価値ある植林もあったはずなのに、白い十字ばかりが記憶に残る。
就職して地方に住むことになり、戸建の家を借りて住み始めたとき、ドクダミは草刈りの対象となった。地下茎で繁殖し切断しても生き残る生命力の強さは難敵としての地位を確立するに十分だった。この強さが毒に勝つ源なのだと敵ながら認めていたのである。
もう何年も前だか職場の先輩が事故死する不幸があった。慕われていた方だったらしく、葬儀には実に多くの方が参列した。その長い列の脇に十薬の列もあった。これも何故か印象に残っている。
隣家でドクダミの変わり咲きが栽培されているのを知って驚いたこともある。十字の萼の部分が薔薇の花弁のように八重になっていた。園芸種としてあるらしい。この家の主が花好きであったようで他にもたくさんの植物が植えられていた。通行人の目を楽しませてくれていたのだが、数年前に代替わりしたのか家主が変わったのか、あらかた植物は抜き取られてしまった。ドクダミの変わり咲きもそれから消えてしまった。
実家の庭もいまは手入れをする人がなく荒れ放題だ。たまに見に行ってもさすがに手に負えない。多くの雑草の中に当然ドクダミも覇権を争っている。この夏には手入れをしなくてはと思いながら何もせずにいまに至っている。
ドクダミには他にも様々な思い出がある。どうもこの草花には過去の記憶にはりついてくる特性があるようだ。花言葉を調べたところ白い追憶だという。やはりなにかあるのかもしれない。

近隣の庭木の?みかんの花が満開になっている。ずっと蕾だったのが気づいたら開いていた。その実が目立つのに比べるとやや地味な白い花であるからか気づいている人は少ないようだ。
花の付き方は良好で今年も多くの結実が見込めそうだ。毎年実がなるのを見ているが木の持ち主が摘果しているのを見たことはない。ヒヨドリやその他の小鳥が甘熟した実をつつくばかりだ。
毎年、みかん泥棒を試みることを思うが、自制心の方が勝ってできていない。実は相当おかしな味なのだろうなどと勝手な言い訳をつけて見送り続けている。
ただ、あのときじくのかぐのこのみを見てみたいという気持ちは強い。木もそして自分も健康にあらねばならない。