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気温差

 今日の最高気温は29℃の予報が出ている。昨日より10℃近く高い。こういうときには体調を崩しやすい。

 体感は相対的である。毎日寒ければそれなりに身体が対応してくる。暑さも同様だ。限度はあるが耐性という能力は進化の過程で身につけてきた根源的能力なのだろう。

 ところが変化には極めて弱い。注意せねばならないのは気温の絶対値ではない。

紫陽花の葉

アジサイ

 アジサイの花が曇天の下で輝いて見える。今日はかなり気温が低い。20度に達しないのではないかという予報である。何も考えずにいつもの半そでで出勤してしまって後悔している。

 周辺の地域では梅雨入り宣言が出た。もっとも数日前から雨が多いため、後から入梅の時期が訂正される可能性もある。低温と雨ならばある程度我慢できるが、問題はこの後にくる高温であろう。蒸し暑さを伴う霖雨はさまざまな害がある。心身ともにいい影響はない。

 そういえばアジサイの葉はあまり虫に食われない。それは表面に虫の嫌う成分が分泌しているからだという。カタツムリに食われている印象は間違っている。梅雨空を住みかとするものはたくましさが必要なのかもしれない。困難に立ち向かうためにはしかるべき戦略とたくましさがいるようだ。

梅雨入り

 いまだに梅雨入りしていない。今週にはいわゆる梅雨入り宣言がでるはずだ。

 古くはさみだれと呼ばれた霖雨は農事にとっては大切なものだった。皐月、五月女、桜などにつくサは農業と関わる神と関係するという説もある。この時期の雨は慈雨であることは間違いない。

 ただ、毎年この時期には大規模な水害が発生しているのも事実だ。昨今は異常気象と呼ばれる。記録的とか、歴史的と言う仰々しい名のついた注意報や警報がたびたび出される。残念ながらその中の幾つかは的中し、甚大な被害をもたらす。

 恩恵と災害と両方をもたらす梅雨の荒々しい天候は、私たちの生活の一部である。なるべく悲しみのないように願うばかりだ。

竜巻注意情報

 関東広域で大気の状態が不安定になっており、竜巻注意情報が相次いで出された。今日は東京を離れていたが黒い雲が東から流れて来たと思うとすぐに滝のような雨が打ちつけた。

 大きな雷鳴が響き、驚く間もなくさらなる稲妻が走る。遠かったようでかなり遅れて轟きが来た。豪快な午後になった。

 このところの異常なほどの高温に、気圧の谷は異常反応したのだろう。強引にリセットするかのような乱暴な展開になった。

 私のいたところでは幸い竜巻はなかった。圧倒的な自然の驚異の前では私たちは無力だ。

変わり目

 季節の変わり目には様々な困難がある。その一つが身体の適応だ。急に気温が上がると熱の処理に手間取る。熱中症のようなものになりやすいのはそのためだという。

 少しずつ変化していく環境に対して、生物はある程度の耐性を発揮するらしい。限界点を超えると対応不可能となり、最悪の場合命に関わる。対して急激な変化にはその差が実は小さなものであっても限界点を超越するきっかけになってしまう。

 最近、体調が優れない。対応しきれていない自分を痛感している。

6月

6月

 6月になる前からすでに真夏のような陽気だったので、衣替と言われてもぴんとこない。職場でネクタイを締める義務がなくなるのは嬉しいが、季節の移ろいに関する感慨がもてない。かなり疲労しているので事故を起こさぬよう気をつけることにする。

五月も下旬

カワラナデシコ

 五月も下旬になって早くも曇りがちの天気が続いている。梅雨の気配なのか。

 そんな中でもさまざまな花が咲き始めている。今日見つけたのはカワラナデシコだ。なでしこの在来種と言われている。万葉集に秋の七種とされ、大伴家持らによく詠まれたなでしこはどのような品種だたのだろうか。なでしこの命名からして子・娘に例えられてきた優美な花である。大和撫子は日本女性の形容としてもよく使われる。秋の草花とされるが実はもう咲き始めている。

 五月の穏やかな天気の中で心は緩むばかりだ。でも今日はその柔らかな感覚の中で時を送りたい気がする。

雨の朝

Rainy morning

 今日も朝からかなりまとまった雨が降っている。ラニーニャ現象が影響しているのだろうか。

 この季節の雨は若葉を洗い緑を磨くのはよい。晴れたときに日差しが反射するのは感動的な光景だ。ただ蒸し暑くなるのは困り物で不快なだけてはなく体力わ消耗させる。

 ガラス窓にはりついた雨粒越しに見る風景はソール・ライターの写真を思い出す。雨の日にはそれなりの楽しみもあるし、それを探さなくてはなるまい。

ドクダミ

ドクダミは追憶の花?

 ドクダミはいわゆる雑草の部類に入るもので多くの人が目にしているはずだ。どこにでも生えている白い4つの花びら(実は花ではないらしい)は印象的だ。私はこの花にいくつもの思い出がある。

 こどもの頃はこの花は嫌いだった。野遊びのときこの草の放つ独特の臭いが嫌だった。名前に毒がつくのも気味が悪い。これを摘んて乾燥し、煎じて飲むと薬になるといって叔母が飲んていた。一口しか私は飲めなかった。

 学生となり、訳あって俳句を作るようになると、この花が十薬というのだと知った。昔から民間薬として利用されており、多くの人を救って来たことも知識に入った。毒ではなく、毒を矯めるという植物だったのだ。これを知ってドクダミへの関心は高まった。

 学生時代に友人と旅したことがある。何故かその中に北陸の古刹があった。広い境内のあちらこちらにドクダミが群生しており、その奥に踏み込むのを拒んでいるかのようだった。他にもより美しい価値ある植林もあったはずなのに、白い十字ばかりが記憶に残る。

 就職して地方に住むことになり、戸建の家を借りて住み始めたとき、ドクダミは草刈りの対象となった。地下茎で繁殖し切断しても生き残る生命力の強さは難敵としての地位を確立するに十分だった。この強さが毒に勝つ源なのだと敵ながら認めていたのである。

 もう何年も前だか職場の先輩が事故死する不幸があった。慕われていた方だったらしく、葬儀には実に多くの方が参列した。その長い列の脇に十薬の列もあった。これも何故か印象に残っている。

 隣家でドクダミの変わり咲きが栽培されているのを知って驚いたこともある。十字の萼の部分が薔薇の花弁のように八重になっていた。園芸種としてあるらしい。この家の主が花好きであったようで他にもたくさんの植物が植えられていた。通行人の目を楽しませてくれていたのだが、数年前に代替わりしたのか家主が変わったのか、あらかた植物は抜き取られてしまった。ドクダミの変わり咲きもそれから消えてしまった。

 実家の庭もいまは手入れをする人がなく荒れ放題だ。たまに見に行ってもさすがに手に負えない。多くの雑草の中に当然ドクダミも覇権を争っている。この夏には手入れをしなくてはと思いながら何もせずにいまに至っている。

 ドクダミには他にも様々な思い出がある。どうもこの草花には過去の記憶にはりついてくる特性があるようだ。花言葉を調べたところ白い追憶だという。やはりなにかあるのかもしれない。

みかんの花

みかんの花が咲いている

 近隣の庭木の?みかんの花が満開になっている。ずっと蕾だったのが気づいたら開いていた。その実が目立つのに比べるとやや地味な白い花であるからか気づいている人は少ないようだ。

 花の付き方は良好で今年も多くの結実が見込めそうだ。毎年実がなるのを見ているが木の持ち主が摘果しているのを見たことはない。ヒヨドリやその他の小鳥が甘熟した実をつつくばかりだ。

 毎年、みかん泥棒を試みることを思うが、自制心の方が勝ってできていない。実は相当おかしな味なのだろうなどと勝手な言い訳をつけて見送り続けている。

 ただ、あのときじくのかぐのこのみを見てみたいという気持ちは強い。木もそして自分も健康にあらねばならない。