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石楠花

シャクナゲ鮮やか

 近隣の庭で石楠花の花が見頃になった。鮮やかな赤の花である。唱歌に黄昏の色に喩えられたのが有名だが、その黄昏は随分華やかだったことになる。

 躑躅が咲き揃い街のあちこちに彩りの仕切りを作っている。石楠花は群生させるのには向かないのか。独立して植えられていることが多い。主役といった趣きがある。その鮮やかさは確かに目を奪う。

 多忙な毎日が再開した。次は夏まで長い休みは取れまい。折々の花鳥に励まされながら、遅速を恥じて進み行くしかあるまい。

あざみ野のホタル

firefly

 この頃になると思い出すのはあざみ野駅のあるあたりにホタルを見に行ったことだ。あざみ野は横浜市の北部、丘陵地帯にある。今はかなり人口が多い住宅地だ。

 私が住んでいた頃にはあざみ野駅はなく、青ガエルの愛称があった田園都市線は止まらずに次の江田駅を目指していた。田圃が点在し、雑木林が取り囲んでいた。農家の脇の用水にヘイケボタルが飛んでいた。

 いまは絶対見ることはできない。この沿線は恐ろしく変わり続けている。私のような思い出を持っている人も少なくなりつつある。

花水木

 通勤の途中の街路樹である花水木が見頃になっている。歌謡曲で有名になった割にはこの名を知る人は多くはない。

 花水木の花にみえる白や桃色の部分は萼なのだという。蘂のように見えるのが実は花でそれだけ見ると地味だ。アメリカヤマボウシとも言われ、かつて日本がアメリカに桜を送った返礼として渡来した。今は各地に広がり、自治体の花木となっている事例も多い。日米の友好のしるしだったことになる。

 一青窈のヒット曲ハナミズキはよく考えてみると難解な歌詞で失恋の歌とも片思いか、何かに対する鎮魂なのかわからない。そのすべてなのかも知れない。一つの植物にまつわる話は複雑であるものだから。

新緑

緑はいろいろ

 4月も下旬となった。このところ気温差が激しく、今朝も少し肌寒い。ただコートを着けずに通勤できていることを思うとやはり季節は進んでいる。

 通勤電車の車窓から見える緑も輝きを増している。新緑を感じる季節だ。やがて万緑となり、緑陰を楽しむ時候が続く。都会に住んでいても生活の指標はわずかに残った緑にある。さらに躑躅の赤や、花水木の白が輝く。昔のようにウツギやオウチは見かけないが、それでも初夏を感じて心は踊る。

 木の絵を描こうとしていつも失敗してしまう。葉をまとまりで処理してしまおうとするからだ。樹木の緑は一枚ずつの葉の集まりだ。それを忘れると絵は描けない。

土筆

広い野原でなくても

 近くの駐車場脇に僅かな露面がある。1メートル四方にも満たない小さな面積なのだが、ここには毎年この時期に注目している。

 誰も顧みない空間だが、定期的に草刈りが行われているようで常に地面が見える。春になると雑草が芽生えるのだが、その中で印象的なのが土筆だ。他とは異なる色形は一目でそれとわかる。

 にもかかわらず、土筆を発見するのはいつもかなり伸びきった後であり、盛りを過ぎた感じだ。毎年これを繰り返している。同じ体験をするので、瞬時時間を遡ったかのような経験になる。

 よく見れば杉菜も繁殖を始めており、やはり強い生命力を持った植物であることが分かる。草刈りされてもまたこの時期には何事もなかったかのように土筆が並ぶ。

年度末

先生の正月

 教員にとって春休みというものはない。授業がない期間でもっとも忙しいのがこの期間である。

 同業者には説明不要だと思うが、この時期には要録という申し送りの記録を書く。といってもマイナス要素はほとんど書かないので、本人の未来のための記録といったものだ。ある程度定型文はあるがそれぞれの生徒のことを書くのは時間がかかる。

 同時に新年度の準備も平行する。最初に流れを作るのが大切なので気を使う。新しい試みを考えたり、教材を考えたりするのは楽しいが、のめり込んではならない。数時間で次の授業に移ることを考えて1週間後以降の準備も行う。

 同じ授業を担当する仲間との打ち合わせや、テストまでどうむすびつけるかの検討などすべてが同時進行だ。加えて担任ならばクラス開きの準備もある。部活も考えるなど盛りだくさんなのだ。

 年度末はその終わりもはじめも忙しい。

国立劇場近く

桜はかなり急なピッチで開花している。花見が禁じられて3度目の春だ。乱痴気騒ぎは軽蔑すべきだが、ないと寂しい。少しずつ元の生活を取り戻したい。そう願うばかりだ。

開花

咲き始めたらあっという間

 昨日は雨にみぞれが混じった。凍える寒さだったといえる。だが、今朝近隣のソメイヨシノが開花していることに気づいた。すでに二分咲きといったところか。まったく感覚的なものだから正確には分からない。

 開き出すとすぐ満開まで一直線になるのがこの花の特徴だ。今年も今月中に満開を迎えてしまうのだろう。せめて入学式の日まではもってほしいと願うばかりだ。

 今年も紀友則の思いを共有することになる。

逆戻り

3歩進んで2歩さがる

 暑さ寒さも彼岸までというが、中日も過ぎたのに今日は寒さが戻ってきた。最高気温が10℃に達するか否かということらしい。最近、温かい日が続いていただけに体感気温はもっと低い。

 東京電力によると今日の電力供給には不安があるという。先の東北地方の地震で停止している発電所があるのが要因だという。電気がなくては成り立たないデジタル時代のまさにアキレス腱だ。

 原子力発電に傾注できない国情ゆえに、自然エネルギーの技術開発が急務だ。さらに省電力装置の普及もやるべきだろう。我が家でできることは待機電力のカットくらいしかない。微かというよりほとんど無に等しいが使わない家電のコンセントを外すことから始めよう。

 

春分

Photo by Edouard Chassaigne on Pexels.com

 春分の日である。日本にとっての春分点通過が3月21日0時33分だったので、21日になったということだ。昼夜の時間がほぼ等しくなり、これからは昼の方が長くなっていく。この天体現象に古人はさまざまな思いを託してきたようだ。

 彼岸の中日としても知られている。彼岸は仏教的には悟りを得た後にたどり着く境地のようなものを指すらしく、いわゆる涅槃のことを指すと考えられる。このあたり諸説あるらしく、様々な説明がなされている。

 日本ではこの彼岸の考えを春分や秋分に太陽が真西に沈むことと重ね合わせる伝統があった。太陽信仰は古事記における天岩戸伝説にもほの見えるし、様々な古代の伝承に太陽神の伝統が見えるという(洪聖牧「太陽神論」)。さらにはこの時期には祖先との精神的連携が可能になるなるとして墓参りの習慣などがある。彼岸が祖先とのつながりを持つ過程にも様々な考察がある。(「中村牧子「祖先崇拝と天皇信仰」)。

 太陽が真西に沈むとことが西方浄土の信仰とつながったことが彼岸信仰の始めといわれる。もしかしたら仏教伝来以前から素朴に持ち続けてきた日の出、日の入りの場所が年間を通して周期的に移動する不思議さがその下地にあったのではないか。

 さて私たちは太陽や月、星をどれほど見ているのだろうか。天文学や気象関係者が周期的にメディアに発信する記号、数字としてしか知覚していないのではないだろうか。春分の意味を考えることは、人と自然とのつながりの希薄化を見直すことにつながる気がする。