
近隣の庭で石楠花の花が見頃になった。鮮やかな赤の花である。唱歌に黄昏の色に喩えられたのが有名だが、その黄昏は随分華やかだったことになる。
躑躅が咲き揃い街のあちこちに彩りの仕切りを作っている。石楠花は群生させるのには向かないのか。独立して植えられていることが多い。主役といった趣きがある。その鮮やかさは確かに目を奪う。
多忙な毎日が再開した。次は夏まで長い休みは取れまい。折々の花鳥に励まされながら、遅速を恥じて進み行くしかあるまい。
日々の思いを言葉にして
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近くの駐車場脇に僅かな露面がある。1メートル四方にも満たない小さな面積なのだが、ここには毎年この時期に注目している。
誰も顧みない空間だが、定期的に草刈りが行われているようで常に地面が見える。春になると雑草が芽生えるのだが、その中で印象的なのが土筆だ。他とは異なる色形は一目でそれとわかる。
にもかかわらず、土筆を発見するのはいつもかなり伸びきった後であり、盛りを過ぎた感じだ。毎年これを繰り返している。同じ体験をするので、瞬時時間を遡ったかのような経験になる。
よく見れば杉菜も繁殖を始めており、やはり強い生命力を持った植物であることが分かる。草刈りされてもまたこの時期には何事もなかったかのように土筆が並ぶ。

教員にとって春休みというものはない。授業がない期間でもっとも忙しいのがこの期間である。
同業者には説明不要だと思うが、この時期には要録という申し送りの記録を書く。といってもマイナス要素はほとんど書かないので、本人の未来のための記録といったものだ。ある程度定型文はあるがそれぞれの生徒のことを書くのは時間がかかる。
同時に新年度の準備も平行する。最初に流れを作るのが大切なので気を使う。新しい試みを考えたり、教材を考えたりするのは楽しいが、のめり込んではならない。数時間で次の授業に移ることを考えて1週間後以降の準備も行う。
同じ授業を担当する仲間との打ち合わせや、テストまでどうむすびつけるかの検討などすべてが同時進行だ。加えて担任ならばクラス開きの準備もある。部活も考えるなど盛りだくさんなのだ。
年度末はその終わりもはじめも忙しい。

桜はかなり急なピッチで開花している。花見が禁じられて3度目の春だ。乱痴気騒ぎは軽蔑すべきだが、ないと寂しい。少しずつ元の生活を取り戻したい。そう願うばかりだ。

暑さ寒さも彼岸までというが、中日も過ぎたのに今日は寒さが戻ってきた。最高気温が10℃に達するか否かということらしい。最近、温かい日が続いていただけに体感気温はもっと低い。
東京電力によると今日の電力供給には不安があるという。先の東北地方の地震で停止している発電所があるのが要因だという。電気がなくては成り立たないデジタル時代のまさにアキレス腱だ。
原子力発電に傾注できない国情ゆえに、自然エネルギーの技術開発が急務だ。さらに省電力装置の普及もやるべきだろう。我が家でできることは待機電力のカットくらいしかない。微かというよりほとんど無に等しいが使わない家電のコンセントを外すことから始めよう。

春分の日である。日本にとっての春分点通過が3月21日0時33分だったので、21日になったということだ。昼夜の時間がほぼ等しくなり、これからは昼の方が長くなっていく。この天体現象に古人はさまざまな思いを託してきたようだ。
彼岸の中日としても知られている。彼岸は仏教的には悟りを得た後にたどり着く境地のようなものを指すらしく、いわゆる涅槃のことを指すと考えられる。このあたり諸説あるらしく、様々な説明がなされている。
日本ではこの彼岸の考えを春分や秋分に太陽が真西に沈むことと重ね合わせる伝統があった。太陽信仰は古事記における天岩戸伝説にもほの見えるし、様々な古代の伝承に太陽神の伝統が見えるという(洪聖牧「太陽神論」)。さらにはこの時期には祖先との精神的連携が可能になるなるとして墓参りの習慣などがある。彼岸が祖先とのつながりを持つ過程にも様々な考察がある。(「中村牧子「祖先崇拝と天皇信仰」)。
太陽が真西に沈むとことが西方浄土の信仰とつながったことが彼岸信仰の始めといわれる。もしかしたら仏教伝来以前から素朴に持ち続けてきた日の出、日の入りの場所が年間を通して周期的に移動する不思議さがその下地にあったのではないか。
さて私たちは太陽や月、星をどれほど見ているのだろうか。天文学や気象関係者が周期的にメディアに発信する記号、数字としてしか知覚していないのではないだろうか。春分の意味を考えることは、人と自然とのつながりの希薄化を見直すことにつながる気がする。