タグ: 国語

と思っているのですが

 ここ十数年で増えてきた言語表現に、「〜と思っています」というのがある。語法的にはおかしくはないのだが、意見を述べるところでなぜ自分の思いを言うのかと考え出すと違和感が募っていく。どうしてこのような言い方が頻出するようになったのだろうか。

 変な言い方をすれば私の言うことは真実かどうかは分からないが、あくまで私の思いはこういうことなんだと言っていることになる。ちょっと前に「それはあなたの感想でしょ」という切り口上があったが、まさに私の感想であって意見ではありませんと予防線を張っているようなものなのだ。

 日本語には昔から婉曲表現を好む伝統がある。断定よりも考えの提示に止め、判断は相手に任せようとする。だから「思う」という動詞には、thinkよりもfeelの意味合いが強いとされる。私はそのように感じているのですが、というのが「思っています」の中身であるようだ。

 朧化表現は必ずしも悪いとは言えない。何でも主張すれば良いという文化には必ず問題点が現れる。ただ、あまりにも思っています、思っているのでと繰り返されると、あなたの本心はどこにあるのですかと問いただしたくなってしまうのである。

TokyoかTookyooか

ローマ字表記法が見直される。日本語のローマ字表記には学校で教える訓令式と、英語の発音に近いヘボン式があるが、どちらも日本語の音を正確に置き換えることが難しい。

 訓令式は五十音図の概念で日本人が定めたものだが、タ行やザ行などは訓令式では外国人には読みにくい。アメリカ人のヘップバーン氏が考案したヘボン式は発音面は英語圏の人に読みやすいが、英語にはない長音の概念を表せない。小野も大野もOnoである。大谷さんがOhtaniと綴っているのは、後の工夫で加藤という野球選手のユニホームの背中にはKATOHとあったが、これは必ずしも海外からは読みにくいらしい。

 今回の改訂ではローマ字表記の基本をヘボン式としながらも、長音はマクロンをつけるか母音を繰り返すことが推奨される。KATŌかKATOOになる。個人的には記号付きでいい気がする。なおマクロン付きの文字はiPhoneの場合は該当する文字を長押しすると候補が現れ選ぶことができる。

英語圏で嫌われるnとbの連続は今回は考慮不要とのこと。また人名や地名など定着していたりこだわりがあるものは変えなくてもいいという。TokyoやOsakaはそのままでもいいということだ。

私の名前にも長音があるが、当面は従来の表記で、余裕のある時はマクロンをつけようと考えている。

思ってもみない

「思ってもない」という表現はその後に期待していなかった幸運が続くのが普通だ。ただ、これを不幸の形容に使う例にせつした。誤用といえばそれまでだが、そのくらい想定外のことが起きているということだろう。

外来語の扱い

 大学共通テスト国語の3問目はいわゆる新傾向問題であった。数年前の試行問題のときは随分批判されたが、今年はそれに比べると穏当であった。ただ、時間を10分延ばしても全体的に時間が不足しており、相変わらず熟考より、処理能力が求められている。

 新傾向問題はいわゆる国語表現の分野に関わる。ある人が外来語の使用状況を調査することにより、自分なりの意見を述べることにしたという想定で、図表の読み方や、文章構成についての考えを求めるものだった。問題そのものは受験勉強の専門家におまかせしよう。

 この中で中心的に扱われているインフォームドコンセントは、当初確かに分かりにくくなぜそのまま使われるのか分からなかった。医師による病状の説明、患者もしくはその関係者の理解、今後の処置についての合意という複数の行動が一つになった概念であるためにうまい訳語が見つからなかったのだろう。問題文中に示された納得診療というのも、正確には概念のすべてを表してはいない。

 日本語は外来語を取り入れやすい構造になっている。漢字やカタカナを使ってそのまま表音表記し、助詞の働きで文中になじませることが可能だからだ。動詞や形容詞などに変形することもできる。だぶる、さぼるなどにはすでに外来語の趣きはない。ググる、トラブるには語源の根っこが見えるが、それに慣れるのも時間の問題だ。さらに万能のサ変動詞をつければ何でも動詞化できる。ショッピングする、リードする、ネットするなど何でも可能だ。     

 日本語環境は外来語の導入に寛容であり、その和臭化も迅速におこなわれる。ただ導入期には混乱も多く、しかも導入する言語が飛躍的に増えている。すると通じない外来語ができる可能性が増える。ビジネス界ではアジャイル、コンプライアンス、スキームは常識かもしれないが、彼らがアンフォルメルやインスタレーションの意味を理解しているかは分からない。勝手に輸入された言葉が仲間内以外では通じなくなっている可能性がある。

 外来語の扱いは何でも受容する日本の重要な問題であり、これからも考えていかなくてはならない課題なのだ。

頼りない叔父さん

 大学共通テストの文学的文章の内容は、かなり痛烈な社会批判に読めてしまった。家族から非難され続けている叔父さんを子どもの視点で捉えるという内容だ。

 この叔父さんは定職につかず独学で芸術作品を作り続けている。どうもそれがあまりに独自過ぎるので家族からは無駄なことをしているとしか思えない。語り手の母はこの男の姉なのだが、面と向かって厳しい非難を続けており、男の母、つまり語り手の祖母は幾分同情の念をにじませながらも、男の行動を容認できない。

 幼い語り手にとって叔父さんという大人が全否定される姿を見るのはいたたまれないが、かと言ってその理解者にもなれない。生産性が低く、社会的通念に反するこの男の居場所は、自ら造った小屋の他にはなさそうだ。

 でも、この男はよく考えてみれば、非常にクリエイティブであり自分の人生を自己の才能で切り開こうとしている人物だ。今のところ社会的評価はないが、自己実現ができている。現代の日本にはこうした非組織的な人間の居場所はない。生き甲斐とか生活の感触より、どれだけ収入が得られるか。しかもそれを時間で割って生産性なるマジックワードで括ってしまう。そういう尺度が幅をきかせている今日にこの叔父さんは無用の人と分類されるのである。

 問題文として切り取られた部分だけで読み取るとこんなふうに読めてしまう。叔父さんは怠惰なのではなさそうだ。他の多くの人とはやり方が違うのだ。そういう人に寛容になれない現代社会の息苦しさを私たちは共有している。

日本語の文章の可能性

 日本語の文法構造上、文末の形が固定化しやすい。です、ますを使えばほとんどが「す」音で終わるし、過去が絡むと「た」音が並ぶことになる。それを単調と考えるのか、押韻のような美しさと考えるのかは感性の違いだ。

 私自身は何も考えていないつもりだったが、これまで書いてきた文章を見ると、文末の音の繰り返しを避けている。繰り返しがいけないわけではない。ただ、変化をつけると文が書きやすい気がするのだ。ほとんど気のせいである。

 日本語の文章は音韻的な単純さと引き換えに、表現方法、表記方法などが他言語と比較して可能性が高い。複雑なニュアンスも表しやすいのではないか。文章を書きながら、その可能性をもっと活用してもいいと考えている。

存続

 古典文法に存続の助動詞がある。「たり」や「り」がそれで〜ている、などと訳す。この「り」は元は「あり」であって、そういう状態で存在しているという意味を持っていたのが、状態の存続の意味として使われるようになったらしい。過去の助動詞の「けり」もこれに関係するようだ。

 存続という概念は実は結構高度な判断からなるのではないか。今あるものに時間的な幅を意識して把握するのは手続きがいるように思う。

回転寿司店の名前

 不景気な外食産業業界にあって回転寿司店は熾烈な競争をしているようだ。親の家がある地方の小都市にもこの業界大手のチェーン店の支店がある。それもかなり近接している。そこそこの集客はできているようだが、地元の個人のすし屋にとってはいい迷惑だ。もっとも求める客層は違うはずだが。
 さて、売り上げ規模から考えると1位はスシロー、2位はくら寿司、3位ははま寿司である。ちなみにこの町には4位のかっぱ寿司、5位の元気寿司の支店まである。おそらく多くの地方都市が似たような状況であり、寿司はやはり国民食であるであることが分かる。
 さて、店の前に大きな電光看板があるのを見て気づいたことがある。くら寿司はKURA SUSHIであり、はま寿司はHAMA-SUSHIなのだ。ほかも寿司の部分がSUSHIになっている。スシロー以外は日本人なら「ずし」と読むにも関わらずである。ちなみにはま寿司はもともとHAMAZUSHiと表記していたが、今の表記に改めている。
 容易に想像がつくように英語表記を読む対象となるのは外国人であろう。彼らにとって日本料理はsushiであってzushiではない。だから、実際の表音をあきらめて外国人にとって分かりやすくしたのだろう。調べてみると上掲の5位までの全てにSUSHIが入っていることになる。スシロー以外は「sushi」とは発音しないのにも関わらず。
 外食産業は潜在的な人手不足になっており、従業員に外国人を雇用することも多い。寿司店に外国人を雇用するのは抵抗がかつてはあっただろうが、いまはそんなことを言っている余裕はない。そのうち外国人の板前の作った回転寿司を外国人がこれぞ日本の味と称賛するときが来るのだろう。いやもう来ているのかもしれないが。私は何人が作ってくれても技能さえ素晴らしければいいとは思う。

「む」の話

 文語文法の必須の知識に助動詞の「む」がある。これには意志、勧誘、推量、婉曲、仮定の用法があると学ぶ。そして主語が一人称のときには意志、二人称なら適当・勧誘、三人称なら推量であり、文中で使われるときは推量の意味は弱く、その意味が弱い婉曲かわずかにその意味が残る仮定の意味になるという。受験生としてはここまで覚えていれば完璧だ。

 ただ、同じ語がどうして一見離れた意味を表すのかを考えるのは難しい。意志は「しよう」であり、推量は「だろう」で勧誘は「のがよい」である。これらを一語で言えるはなぜなのだろうか。

 思うに、「む」は対象に対して気持ちが向かうということなのだろう。私が主語のときには、その対象に対して気持ちが向かうので、意志の気分になる。それを自分ではなく話相手に対象に対して向き合うことを求めると勧誘になる。その度合いが弱いと適当になる。三人称ならば対象に向かう気持ちは確信が持てない。だから、推量という形になる。

 文中の連体形の「む」が婉曲の用法になるのはなぜか。基本が対象に向かう気持ちならば、意志や推量の気分が強くなるはずではないか。これが大きな疑問である。ただ、どうもこれは日本語のもっと大きな文法によるものらしい。日本語では物事の確信的判断というものを避ける傾向にある。「なり」「たり」といったいわゆる断定の助動詞を使った表現も、確信というよりも現状追認という意味の方が強いように思える。「なり」や「たり」に含まれる「り」は「あり」の短縮で、そのような状況で存在しているという現状追認と思う。話者の判断による断定ではなく、そうなっているという報告なのだろう。

 ならば「む」が連体形で用いられるとき、そこに話者の判断はなされず曖昧な推量がなされることになる。結果として推量の意味が極めて弱い表現としての婉曲が成り立つことになる。

 かなり恣意的に話を進めてきたので識者からみれば反論はいくらでもあるはずだ。批判を受け入れる用意はある。というより、この疑問を解いていただけるならば幸甚極まりない。

 ただ古典文法を技能として教えることに疑問を持ち始めてしまった者に対する救済を求める次第である。

チョコレート、パイナップル

 子どものころじゃん拳の勝ち方で進める歩数がかわるグリコという遊びをよくやった。先日、公園で同じ遊びをしている子どもを見た。伝承されているらしい。

 この遊びでのじゃん拳勝利時の獲得歩数は、

グー グリコ 3歩

チョキ チョコレート 6歩

パー パイナップル 6歩

 であろうかと思う。ただしこの数え方は日本語としては不自然だ。短歌や俳句を作れば分かるが、文字数と音の数とは一致しない。いわゆるモーラという考え方をする。チョのような拗音は1つと考えるが、ナッのような促音は2つになる。レーのような長音は2であり、撥音も1つとして数える。だからチョコレートは5となり、パイナップルは6である。このルールにすれば勝敗が変わるのかもしれない。

 チヨコレエトの水増しがもたらしてきた悲喜劇を云々しても意味がない。ただ子どもの遊びが日本語の特徴を知るきっかけになることは注目していい。