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理に任せる

 困ったことだらけの毎日をもがきながら生きている。皆さんも歳を重ねると分かることがある。この世は決して思うがままにならない。過去のいい思い出を基準として、そこからどれだけ下がったのかばかり気になる。これは仕方ないことだろう。

 そういう時に一番楽なのは既成の生き方の手本にすがることだ。それが宗教や哲学の出番である。宗教ならばそれを支える組織があり、組織の一員となれば一定の満足感は期待できる。某カルトのようなここにつけ込む集団もいるから気をつけなくてはならない。ただ、本人が安心できる環境を提供してくれるのならやはり宗教の存在価値はある。

 哲学というのもそれに似ている。ただしその教えもしくは考えを実際に支えるのは個人の意志であって、誰も導いてはくれない。別の方向に迷い込んでもあくまで個人の責任である。それでは困るから哲学には処方箋のようなものがほしい。

 理に身を委ねることは甘美な誘惑である。適度に用いれば救いになるが危険を伴う行動である。

 立春である。地球と太陽の位置関係に名付けをしたのに過ぎないのだが、それでも何か変わったような気がするがおもしろい。物理学者は時間は存在しないという。これも人間の脳が生み出した幻影なのだろうか。

 春はいろいろなことの始まりと考えるのが日本の伝統的な季節感だ。元旦よりも4月の方が開始の時期と考えられる。年度の開始月であるからだが、もう身体に染みついている。他国ではこれが通用しないというから、時間観というのは文化の一つということになる。

 存在しない時間、もしくはあったとしても相対的な時間に一喜一憂するのはなぜだろう。幻覚に囚われているうちに何か大切なことを見失っているのではないか。もし、時間が幻想であり幻覚ならば、私はここに存在するということも夢の一部に過ぎないことになる。

 この仮説は科学的に証明されるとしても実感としては肯んずることはできない。たとえいまここにいる自分が幻覚であり、他にも自分は存在し別の場所にいるとしても、それぞれの自分が実感できる世界は一つである。他は想像するしかない。ならば、あくまで自分という座標軸においては今いる周囲しか見渡せない。

 限られた世界に閉じ込められているからこそ時間は感じられ、感情がわき起こる。喜びも悲しみも見渡せる地平が限定されているからこそ発動するのだろう。

 春に何かを素直に感じるのはその意味で当たり前だ。ただ、その情念が知覚しうる条件のもとで起きているということを心の片隅で考えておくのは、危機的状況を救う命綱にはなるかもしれない。

軍艦

 子どものころ、軍艦のプラモデルをたくさん作った。単純に機械としての魅力が大きかった。それがかつて多くの人を殺害し、多くの人がそこで死んだ場所であることを知っても、実感できるまでには時間がかかった。

 子どものころと同じようにいままた分からなくなりつつある。機械はただ目的に沿って動くだけであり、それをどのように解釈するのかは人間の側にある。人間の心のあり方で機械はどのようにも見える。いかなる役割も果たす。

 軍艦はその代表であり、そんなに大きなものではなくても、殺人兵器でなくても同じだ。何ために道具は作られ、作られた道具が結果的に何をもたらすのかは、何歳なっても予測できない。何らかの悩みを解決するために作られたものが、新たな悩みを生み出す。

 作られたものはある意味で人の願望の理想形であり、その外見は魅力的だ。それゆえにまた人を惑わす。道具を作ったつもりがいつのまにかに使われているということになりそうだ。

遠景

広い風景は気持ちがいい

 遠い風景を見ると心が落ち着くことがある。山の上とか、建物の上階から見下ろせばよりその効果が高い。なぜだろうか。

 おそらく身体的な理由があるのかもしれない。ある体内物資が分泌されるといった説明だ。これについてはよくわからない。ただ、別の理由もあると思う。

 遠くを見ることで自分の位置が相対的に把握できるというのは大きいのではないか。自分がいまどこに位置し、世界とどのような関わりを持っているのかが直感的に理解できる。また、風景を俯瞰することで日常のレベルでは気づかなかった視点、視座を獲得することが快感をもたらすのかもしれない。

 風景の中に自分の存在を客観視し、周囲との関わりを感じることができることこそ、遠景を見る愉しみであると考えるのである。

異次元

 首相の年頭所感表明に異次元という言葉が何度か使われた。この言葉は日銀総裁の金融緩和策に関して使われてきたのであまり印象がよくない。無理やりやって効果はあまりないという先入観ができている。首相の言いたいことはもちろんこの意味ではなかろう。ただ単なる誇張表現ならば無意味だ。

 次元という考えはそれを特定するための座標軸との関係で語られる。私たちの生活する世界は縦と横と高さの3次元でできていると言われる。よく聞く2次元とはそこから高さが失われた世界であり平面的なものである。漫画の登場人物を2次元の人物というが、実際には紙にもインクにも厚みがあり、本当は3次元だ。

 異次元という言葉には異世界と同義で使われる例もある。同じ3次元でも全く状況が異なる平行世界である。そのもどきをメタバースで実現しようとしている。これは先の異次元とは大分趣きが違う。現実逃避の意味合いも内包するのがこの意味の異次元だ。

 首相が仰りたかったのはそのどちらでもない。いままでとはまったく別の価値観、思考法で考えるということだろう。言うことは容易いが果たしてそんなにうまい話はあるのだろうか。少子化対策と言いつつ、結局は補助金をばら撒くだけならまったく同次元だ。具体的に何をして、それにどのような実効性が期待できるのかをリーダーは示さなくてならない。

 現代の日本人は陳腐な誇張表現に慣れて鈍感になっている。どうせ口先だけだろうとも思う。口説の人が横溢する中で本当の手応えを求めている。内閣の人事のゴタゴタを解決して真のリーダーシップを示してほしい。増税の可能性を表明した度胸は認める。やるべきことをやっていただければ評価する国民は多いはずだ。選挙前の人気取りならばいらない。

ブレインフォグ

 ブレインフォグなる用語をこれまで聞いたことがなかった。脳の霧といえは詩的な表現だが、実態はなまやさしくない。要するに脳の障害なのだ。

 この言葉が注目されているのはコロナウイルス罹患後の後遺症とされているからである。症状としては集中できない。呆然としてしまうということらしい。アメリカでは罹患者の2割程度がこの症状を訴えているらしい。

 実は私も昨年陽性判定を受けた者である。脳の霧はどうかといえば、罹患の随分前から五里霧中であった。霧というより靄とでもいうもので、きつめのフィルターで視界が遮られている。それが私の日常であり、コロナウイルスとは無関係だ。

 私の場合は何というかある種の覚悟ができた。どんなに慎ましく過ごしていても罹るときは罹る。ならば恐れずにやりたいことを優先すべきではないかと。破れかぶれだか、いまを生きる知恵ではある。

 ブレインフォグに怯んではならない。視界不良なら新しい何かに出会う機会も増える。絶好の機会ではないか。そう考えることで何かが変わる。

 やはりコロナにおかされたのかもしれない。

偶然

 地球の歴史をたどる理論にふれると、現在のあり方が実に偶然の産物であることが分かる。生命の発生にしても、数多くあった大量絶滅にしても人智を超えた自然現象であった事が分かる。

 今日のさまざまな人間の活動も実はそういう長い地球の歴史からすると偶然の組み合わせで一瞬で消え去るものに過ぎない。そういうことを直観し、長く心に留めることができればさまざまな悩みはなくなるはずだと考えてしまう。

 実際にはちょっとしたことで心が動き、近隣の幸福を羨望し、自身の不幸を嘆息する。結構恵まれていていても、まるで不幸のどん底にあるかのように感じてしまう。それが生活の実感というものだ。

 何を目標に生きればいいのか。時々そういうことを思う。しかし、その思いは続かず、また日常の些事にとりこまれてしまう。それが私の弱みというものだ。

 逆に考えることにしよう。弱みは強みだ。自分をときに上から考えて知ったかぶりできる力は持っていると。そういうことがこのあと何かの役に立つかもしれないと。

登山の意味

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 そこに山があるから。イギリスの登山家ジョージ・マロリーのエベレスト登山に向けた情熱を述べた名言だ。彼が最終的にエベレスト山頂付近で亡くなっていることもこの名言に価値を与えることになってしまった。エベレストのような特別な人しかたどり着けない山ではなくても、人は山に登りたがる。それはなぜだろう。

 高いところへのあこがれは多くの人が共通して持つものだ。高所恐怖症の人は別にみえる。これは考えてみれば高所を特別に感じるからこその感覚であり、あこがれの表現方法が反対の絶対値に振れているのだともいえる。高い場所は日常を超越することであり、そこに快感がある。確かに山は多くの場合それを満たしてくれる。

 しかし、もう一つ大きな要素がある。山頂は限られた面積しかない。その地を占めるということに意味があるのだろう。特別な空間に身を置くことで、確かに自分が生きているという実感が持てる。山でなくてもいいが、人間にとって山頂は特別で限定された空間という意味では象徴的である。高いところならばどこでもいいかといえばそうでもない。山は少なくても人間の一生を単位に考えればほぼ不動の存在である。地質学的には山も動き、海底が山頂になることもあるというがそれは実感からは程遠い。

 エベレストは誰にとっても世界最高峰であり、富士山は日本最高峰だ。万人に共有できる特別な地は、実はそれほど多くはない。マリアナ海溝は世界最深と言われているが、超高性能の潜水艦でようやくたどり着けるかどうかだ。エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地だが、それらの信者以外にとっては面倒な歴史を持った場所に過ぎない。万人が認める特別な場所はやはり山頂だろう。特別な場所を踏むことに登山の意味があるのかもしれない。

 古代のことを研究すると山は聖地でもある。山岳信仰はいろいろなところにあるし、多くの民族に共通する。特別な場所は信仰の場所になり、宗教の対象となる。信仰の具合によっては入山禁止になるか、もしくは山頂に立つことを神に求められるようになる。これも登山する要因の一つだろう。

 さきほど生きていることの確認のために山に登るという可能性を述べたが、生きていることを感じる方法はいろいろある。その一つが死との接点に立ち、彼岸に渡らないことである。死の危険を冒しながらも、生き続けることによって生命を実感することができる。いわゆる冒険である。これができるのも登山の意味なのかもしれない。本当の高山では実際に遭難死する人が後を絶たない。しかし、低山であっても日常とは異なる世界を歩くことは一種の冒険であり、生の実感を獲得できる機会になる。

 登山には憧れるし、遭難者のニュースに接すると悲しくもなると同時にどうしてわざわざ命の危険を冒したのかと思うことがある。今回考えたのはそのいくつかの可能性に過ぎない。そこにあるから登るというだけでは説明できない何かがあるのだろう。

時間の概念

ちょっとお時間を名古屋に行って来ます

 リニア中央新幹線の建設が進んでいる。完成すれば東京品川と名古屋を最速40分で結ぶという。必要性や環境問題の議論が尽くされないまま建設が進んでおり、もはや多くの人的物的投資がなされている。

 仮に完成したとする。すると時間の概念に大きな変化が起こる。関東に住む多くの利用者は、最寄りのリニア新幹線駅までと到着後の目的地に着くまでにかかる時間の方がリニア新幹線に乗っている時間より長いことになる。近いのに遠く、遠いのに近いという逆説が出現することになる。

 もちろんこうしたことはこれまでもあった。新幹線に乗って奈良にでも行くようならば、新幹線駅までと京都から奈良までの時間とがのぞみに乗っている時間より長いこともある。リニア新幹線はそれをもっと極端なもののようにしてしまう。

 所要時間を尺度にした地図を作ればかなりいびつなものになるだろう。都民にとって名古屋はすぐ近くにあるが、千葉の館山は遥かに遠くにあるのだから。

 時間と距離の感覚が崩壊した後に何が残るのだろう。リモートという擬似的な距離飛躍もあるがこれはあくまで現実ではない。適度な距離が安定を保証するという古来からの知恵がなくなったら、どんな世界観価値観が人々を包み込むのか。想像しているところである。

記憶の中の人物像

思い出の中ではどんな人?

 人の性格や行動は実はかなり複雑だ。優しい人にも厳しい一面はあり、陰険と思われている者が影では善人であったりする。本当は一言では言い切れない。それを強引に分類していまうのが私たちの日常である。

 こうした人物像の簡略化は、時間とともに進行するのかもしれない。相手との交渉がなくなると、過去の記憶の中でその人物を想起する。その思い出の人物像はすでにまるめられており、時間とともにさらに末端が削られる。故人に対してはもう出会う機会はないから、時間とともに固定していく。

 写真に例えてみる。撮影の時点でその人の典型的な姿が選ばれる。それでも何枚もの写真の中にはその人物の様々な一面がほのみえる。ところが時間とともにその中の写真の大半は失われ、数枚だけがその人の思い出として残るのだろう。

 人物像はこのような仕組みでできている。さらに英雄伝説に誇張がありがちなように、このわずかな印象も変質を始めていく。本当はどんな人物だったのか容易には分からなくなる。人を考えるときにはこうした仕組みを思い出さなくてはなるまい。