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誰に対して感謝しますか

 勤労感謝の日が新嘗祭に由来することは明らかだ。戦後の米軍の占領政策によって、神道色が消されて欧米の感謝祭的な要素を強調した勤労感謝の日となった。本来は神への感謝であったのが、勤労をする人間の方に謝意を捧げることになったのだ。

Thanks for everyone image

 ただ、基本的な考え方は同じであり、収穫の喜び、つまり労働の成果に対しての感謝の気持ちを表現する祝日ということになる。細かく見ると誰が誰に感謝するのかを考えなくてはならない。対象が神であったときは米穀の実りをつかさどる別次元の存在に対して行っており、宗教的論理によって祭祀が統一されていた。それが人に感謝するとなるとこの行事は個別化され存在意義が分かりにくくなってしまった。

 例えば、私の場合は職場の環境を整えていもらっているスタッフや、運営をしている管理職、協力してくれる同僚などが感謝の対象だ。よく考えてみると電力、水道といった社会的インフラを保持している人たち、交通機関従業者、医療関係者、そのほか社会制度を支えている人たちのすべてが感謝の対象になりうる。かつてエッセンシャルワーカーということばが世上にあがったが、エッセンシャルかいなかは判断基準の違いに過ぎない。勤労感謝ということは社会に対する感謝ということになる。

 人に感謝するということが素直に言えない時代であると思う。サービスは労賃に換算され、評価の対象になる。金を払えばそれで権利が買えると錯覚してしまう。これでは感謝の気持ちは沸きにくい。感謝すること、されることによって人々の生活は変わっていくのではないか。今日はそういうことを思い出す日なのかもしれない。

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賃金上げろ

 最低賃金が1000円超えすることがニュースになっている。遅すぎるというのが率直な感想だ。いまは経済を回すときなのにそれができていない。経済の失策を関係者は認めるべきだ。

 2020年の時点の資料を見ても、OECD加盟国の中の最低ランクであり、実態と賃金がリンクしていない。ここは各企業が人材確保のために投資をするときなのだ。恐らく経営者には勇気がいるだろうがここで人材をどれだけ確保できるかで命運は決まるのだろう。

 給料を上げれば物価も上がるが、先に収入増をすることが何よりも大事だ。いまはそれが反対になっている。これではますます消費を控えるようになり、不景気を促進してしまう。この現実を長々と続けているのがいまの日本だ。

 まず賃金を上げなくては何も始まらない。行政はまずこのための施策を優先してほしい。

機械化した分、面談に

 提出物をバーコードで管理することにした。完成しているプログラムをお借りし、試したところ使用に耐えることが分かった。少々カスタマイズが必要だが、これで数十分から一時間程度の業務時間短縮ができそうだ。

 浮いた時間で何をするか。それは個別面接の機会を増やすことだろう。私が業務を機械化したように、生徒も学習活動の一部もしくは大半をコンピューターで行っている。活用の仕方が間違っている場合は、思考の過程を飛ばして答えだけを書いてきてしまう。

 教員として心がけたいのは結果より過程ということだ。何をどう考えたのか、それをどのように説明するのかを指導しなくてはなるまい。テストやレポートの採点結果より、重視すべきなのは解答の作成過程である。

 ただそれを評価することは難しい。学習の場面に立ち合うことはできない。できたとしても学習者の妨害にしかなるまい。だから、次善の策として提出後に面談を行い。どのように学んだのか、学んだことは何かを自分の言葉で語らせるようにすればいい。

 いままでは業務時間内に事務的な仕事を終わらせるので精一杯で、面談にかけられる時間は限られていた。人間が不要な部分は思い切って機械化し、対人指導に注力しよう。生徒には煙たがれるが、今はそれがもっとも効果的な気がしている。

春の雨

 十八九の頃、郵便配達のアルバイトをしたことがある。もっと割のいい仕事はあったのだがなぜか肉体労働がしたかったのである。

 業務は郵便番号ごとに郵便物を仕分ける仕事と、ポストにはいった郵便物を収集すること、それに配達だった。

 仕分けの仕事は大まかなことは機械がやるが、集合住宅の部屋番号ごとの区分けなどは手作業で行われていた。バイトはその補助を行った。私が働いた郵便局は東京の中でも人口の多い地域だったのでこの仕事だけでも大変だった。職員(当時は郵政省の管轄だった)は私の何倍もの速度で仕分けしていたのたのを覚えている。悪筆で数字が読めなくても何号室と瞬時に教えてくれた。大体の住人の名前を覚えているかのようだった。

 ポストからの収集は結構プレッシャーがかかった。郵便車を交通量が多い路上に長くは停められないということで、運転する人とポストの鍵を開け、郵便物を取ってくる人とに仕事を分けられる。私のような学生は当然、取ってくる方の仕事が割り当てられる。いまのようなレターパックはなかったが、それでもかなり大量の郵便物が詰まっていることもあった。するとかなり重いのである。雨の日は特に大変で濡れないようにするのが一苦労だった。運転手の中には時間がかかると不機嫌になる人もいて謝ってばかりいた。理不尽な怒りをぶつけられたこともある。要領の悪さを嘲笑されることもあった。

 配達は自転車で集合住宅それも大型マンションの配達を託された。大抵は入り口に共同の郵便受けがあり、その中に郵便を入れていく仕事だった。かなりの家が氏名を表示しておらず、部屋番号だけが頼りだった。中にはほとんど受け取りがなされず、満杯になっているものもあって、無理矢理詰め込んだこともある。

 細かいことは忘れてしまったが、もらう給与の割には大変な仕事であった。家庭教師などすればその何倍もの金が短時間で手に入ったが、なぜかそれは好きではなかった。いま教員をしているというのに。

 自転車で配達をしていたとき、細かな雨が降ったことがあった。予報ではそれほど降るとはいっていなかったので雨具を借りることもなく出てしまった。郵便は蓋を締めて防水できたが自分は濡れる。焦りもあってペダルを漕ぐ力を強めると自然と汗が流れた。3月下旬の頃だった。

春の雨静かに落ちて郵便を配る男の汗に変はれる

 という短歌を作って当時入っていた短歌の会で披露したら、集まっていた年配の方々にとても褒められた。こういうことは何年経っても覚えている。それだけでこのバイトをした意味があったのかもしれない。

 この季節になると時々思い出す。いまはネット時代で郵便の量はその当時から比べるとかなり減ったはずだ。仕分けも機械読み取りの制度が高まって人力の範囲は減っているに違いない。今となっては自転車で配達など数日でも無理かもしれない。何もかも懐かしい。

働く意味を考える

 かつては労働者の日といわれた今日だが、私にとっては子供の頃からすでに過去の行事であった。労働が給与をえるための行動であるという認識しかなかった。そこに働き甲斐を感じるのは付加的価値であり、贅沢な願望というのが実際的な理解であった。

 私の人生を考えると高度成長期が終焉し、バブルからその崩壊後の閉塞的な低成長時代を送ってきたことになる。運良く自らの興味のある仕事につくことができ、初期の頃は分不相応な仕事までさせていただいた。しかし、不景気になるとその夢は消え去り、職場も失いかけた。運良く今の職について私なりに労働の価値を感じ続けている。

 ただ、働くことが疲弊につながると考え出しているのは私が高齢化したからだけではない。労働に余裕がなく、自分の人生を豊かにしているという実感が損なわれてきているのが問題なのだ。目標志向はよい、企業としては当たり前だ。ただそれがあまりに自分の価値観と離れすぎているときには別の問題を生じる。

 この連休は心身の休養ということはもちろんだが、働くことに関しての視座を見直すきっかけにしたい。

運び屋

 今年特に活躍が目立つ職場にテイクアウトの食べ物を運ぶ仕事がある。その大半が個人営業の自転車による運搬である、外出自粛期間を含めて彼らが果たした役割は大きい。

 歩合制といえる彼らの仕事は過酷であり、個人営業扱いなので保障などは個人負担になるらしい。健康であれば場合によってはかなりの稼ぎになるが、仕事が激減することもあるらしい。自己責任という諸刃の剣が振り回される。

 これまでになかった仕事が生まれた一例であろう。ただあまりにも設定がラフ過ぎる。人間としての労働のあり方を考えさせられる。もっとも、そんなことを論じているうちに、自動運転と配達ロボットがせっかく作った仕事を奪い取ってしまうかもしれないが。

テレワーク

 コロナウィルス感染予防のために普及したテレワークを、恒常的に実施することを決定した企業が出てきた。営業部門のみならず、生産管理部門にも導入するのだという。

 これによって感染による営業停止のリスクは低減される。交通費、光熱費などのコスト削減も期待できるのかもしれない。運用の仕方次第だが、営業時間の拘束も緩和される。

 一方で非常時への対応や、通信障害などのリスクもある。回線が止まればすべて終わりとなってはもともこもない。さらに社員の連帯感の確保は大きな課題だ。かつてはこれが原動力で難局を乗り切ってきた。その奥の手が封じられることにもなりかねない。

 リモートワークは今の騒動が発声する以前からいずれは実施されると考えられていたことだ。結果的に見切り発車をさせられている状況にあるといえる。走りながら考えるしかない。果たして距離をおいたチームワークは成り立つのかと。

教員の仕事

 日本の教員の仕事が多忙かつ多岐にわたっていることは、その業務に就く一人として実感しています。できることはすべてやらせられるという感すらある。ただ、働き方改革の流れにコロナウイルス感染予防のための自粛の社会情勢が作用して、教員の働き方を見直すきっかけが与えられているように感じます。

 教員が授業に専念できるためには、事務的な要素の効率化と、部活動顧問などの外注が欠かせません。そのためには責任を持って児童や生徒を預かる機関なり企業なりが必要です。保護者の負担が大きくなり過ぎないように、行政の補助が必要になります。そういうことが確保できれば教員は子どもたちの教科や生活の指導に注力できるようになります。

 部活動顧問の外注化は卒業生や地域の住民の力を借りるべきです。校舎を活動場所として指導者には資格審査をして責任を持って行動していただきます。この方が結果的に活動は活性化するのではないでしょうか。

 教員が定時で帰宅できるようになれば日本の教育は復活できるのではないでしょうか。消耗ばかりで発展できる機会が限られている教員の現状は早急に改善すべきことです。

省略できること

 リモートワークが強いられた中で、奪われたことは数々ありましたが、逆に収穫もありました。その一つが仕事の整理がある程度できるようになったということです。これはこれからも変わらない生活習慣となるでしょう。

 リモートワークではできないことはやれないという割り切りが前提になりました。その中で本当はやった方がいいが省略もできるという項目が洗い出されることになりました。意図せず分かったことになります。この基準をアフターコロナの時代にも敷衍することは自然な成り行きです。

 仕事を絞ってできることに集中するという、当たり前だけれどもできなかったことができるやうになるきっかけを与えてくれたことはひどい神様の恩恵の一つと考えたいです。

コワーキングスペース

 自宅の近くにコワーキングスペースというサービスが登場しました。リモートオフィスともいうべき貸職場スペースです。レンタルルームよりは安く、カフェのようにBGMで集中できないということもないのが売りのようです。

そのほかWi-Fiが完備しているほか、フリードリンク、コピー機の設置があり、追加の費用で個室の確保、私書箱設置なども可能だとか。もし起業するとしたらこういう場所から始めるのもいいのかと考えています。入会金が年間10000円、使用料はフルにつかうと月間10000円で、夜10時まで使用できるとか。ランニングコストを考えると事務所を借りるよりもいいのかも。もっとも自分の家でできればいいのですが、様々な誘惑やしがらみがありますからこういう商売が成り立つのでしょう。

 満員電車に乗らなくても仕事ができるのならばこれほどいいことはありません。あとはこういうところでもきちんと稼げる才覚を身に着けることです。