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創作活動?

 脳波を測定することにより、思っていることを映像や音楽、文章に変換する研究がなされているそうだ。鼻歌を譜面にする音楽ソフトは知っているが、脳波ならばもはや歌う必要がない。心地よいメロディーが浮かべば、それがそのまま再現される。

 頭の中に思い浮かんだ旋律が楽曲となり、映像が絵画となり、心中思惟が文章になるならば、その出力のために身につけなくはならなかった高度な技能の修練を飛ばすことができる。誰もが創作者になる手段を得るといこうことだ。

 だが、人工知能のテクノロジーを借りたこの創作方法が果たして作者の作品と言えるのか疑問が残る。AIは既存の楽曲の展開を分析して、合成することで曲を作るはずだ。もちろん人間も同じことをしているのだが、その度合いがかなり違う。絵画や文章もパターン化されたものの組み合わせからなるだろうから、個人の作品と言えるのか分からなくなる。

 恐らく創作の定義自体が変わりつつあるとしか言えない。機械が提案する多くのパターンから何を選び取るのかが、芸術の中心的活動になってきているのだろう。創作とは何かを考えなければならない。とりあえずやってみるしかあるまい。ブログ記事を人工知能に書かせることだけは止めておきたいが。

枝分かれ

 この世界がいくらでも枝分かれするという理論がある。今起きていることは偶然の出来事であり、その他の可能性もあり得たということになる。

 自分の暮らす世界に関しては結果論としてしか語れない。自分の生きる世界を選ぶことはできない。そもそも世界を支配し、秩序をつくること自体、相当な困難がある。だから所与の世界で何とか生き延びるしかない。それが人生であり、運命なるものだ。

だから、自分が住む世界以外の別の世界があると想定することは本当に単なる妄想である。それでも考えてみたいことがある。少し違う世界に生きたら何が起こるのかと。それが創作の動機の一つになっている。

受け手が作品を作る

いろいろな創作にある寓意を発見するのは楽しい。実はそういう意味があったのだと気づいたときに謎が解けたような気がする。そして、より深く作品を味わえる気分になる。

 ただ、それが作者が意図して作り込んだのかといえばそうとも限らない。本来は別の意味で書かれたものが、受け手側の解釈によって異なるものと映ることがある。世代的、世相的な変化でそう感じることもあるかもしれない。

 作品は作者によって作られるが、読者や観客によって意味づけされ、完成する。それも享受者が変わることで何度も意味づけされ、その都度変わっていくものらしい。

作り話は難しい

 作り話は面白い。ただ、嘘はいけませんという言葉を何度も浴びているうちに自由な創作ができなくなってしまった気がする。

 小学生の頃、ノートに書いた話は宇宙船に乗って知らない星に行くという内容だった。たどり着いた星は地球そっくりで出会う人もどこかであったような人ばかりだ。違うのは自分がまったく別の扱いを受けることで、実際は地味なのにひどく英雄扱いされるといったようなものだ。オチはなくそれだけだ。

 当時よく読んだ星新一のショートショートや松本零士の漫画などの二番煎じだが、それでも書くこと自体が楽しかった。中高生のときも書いたが何か暗い内容だった。それでも作り話に興じることができたのは、ある意味恐れを知らなかったからだろう。

 それがいまはいちいち自己点検が入り、書くこと自体に夢中になれない気がする。どこかで書くことは無駄なことだ。そんなことをしてもなんにもならないという考えを持ってしまうのだ。

 創作は基本的には自分勝手であらねばならないのだろう。それが期限内に他者の要求にも沿う形で実現できる人がプロの作家になれるのだ。私にはその才はないがせめて駄作を臆面もなく書けるようにはなりたいと思っている。

小さな感動

 私は昔からいろいろな言い訳をしてきた。だからこれもその一つである。ただ、これから私の年齢に達する人たちには聞いていただきたい。老いの繰り言と聞き流していただければそれでいい。

 恥ずかしながら、いま私は小説や脚本を書こうと思っている。しかし、これがなかなか進まない。その原因の一つが感動できないことにある。感性の鈍化と言うのが近いのかもしれない。

 詰まらないことに感動することは若者の特権だ。ただそれがつまらないなどと誰が決めたのだろう。それこそが老いのもたらす弊害だ。感動することはいくらでもあるのに、それを予め過去の経験と照合して類型化してしまう。その結果、目の前にある出来事をそのまま受け取ることなく様々な測定値のもとに数値化してしまうのだ。

 創作にとって必要なのは小さな感動の積み重ねだと私は思う。それがあるからこそいままでにない世界が創れる。それを過去の経験にいちいち照らし合わせてマッピングするのは世の中には測定できないものはないといっているのと近い。

 私が感動できるものの範囲は年々狭まっている気がしてならない。恐らくいまの安定的な境遇が崩されるときがいい機会だと思っている。思春期ならぬ思秋期もしくは思冬期は創作の機会としては意味がある。小さな感動を敢えて過去の出来事と結びつけない。それでいろいろな創作ができそうだ。

景をもって

 風景を歌うことで心情を表すのは俳句などでは基本の考え方だが、それ以外のジャンルにおいても、あるいはいわゆる文学的な表現が要求される場面ではなくてもそういう感性は大切だと考える。

 これには喜怒哀楽や人情の機微を景から感じ取る力が必要になる。それには感性のアンテナを高くして、いろいろな経験を積むことが必要だ。優れた叙景詩や風景画をなす人たちがしばしば高齢であったり、若くとも特殊な経験を持っていたりするのはそうしたものの見方が培われてきた結果なのだろう。

 景をもって情を写す。古来から言われてきた境地をほんの少し分かりかけてきた気がする。

虚構を味わう意味

 小説や詩といった創作を私たちが行うのはなぜか。また人の作品をときには対価を払ってまで読んだり見たりするのはなぜだろうか。演劇やドラマ、映画といったものも程度の差こそあれ人為的な虚構の世界だ。こういったものにも思えばかなり高価な代金を払っても厭わない。むしろそこから得るものに大きな期待を持っている。

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 作り話が物質的にはなにももたらさないことは事実である。小説を読んでも栄養は摂取できない。定量的な利益を測定することはできないはずだ。場合によっては生活を困難にすることすらあるかもしれない。それなのに虚構を喜んで受容するのは意味がある。

 おそらくその効用はたくさんある。しかし、私がもっとも大事だと思うことは創作を作ったり、享受したりすることを通して結局現実を考え直しているということではないだろうか。どんなにファンタジーであっても、その基本にあるのは現実世界の姿である。それを誇張したり、逆にしたり、不可能なことを可能にしたりして虚構の世界は出来上がっている。虚構を読むことをとおして実は現実を見直しているのだろう。それが直接的でない分、気づきにくい。

 現実とは乖離している作品を堪能したあと、ふと、では実際はどうなのだろうと思う瞬間がある。わざとらしくなく、ごく自然にそのような振り返りがなされる。場合によってはそれによっていままで気が付かなかった何かを発見できることもある。昔から読書は心を豊かにすると言われるが、その一つがこうした現実を見る視点を得るという効用ではないだろうか。

小学生の心

 小学生が主人公の小説を読むたびに思うのだが、果たしてこのような考え方を小学生がするのだろうか、何か根本的な間違いがあるのではないか。書いているのは大人の作家であり、大人の見方で小学生を描いている。そういった疑問が湧く。

 もちろん、これは見当違いな批判である。小学生の話は小学生でなければ書いてはならないとは言えない。過去の人物のことも同じだ。その時代に生きていないならば小説として書けないというのならかなり窮屈になる。むしろ、それらを乗り越えて別人格を作り動かすことが創作の醍醐味というものだ。

 しかし、それでも気になるのは自分が小学生のときと比較してしまうからだろう。果たしてこんなに深い考えを持てていただろうか。そう考えると違和感を禁じ得ないのだ。

 矛盾したことを言うが、小学生の頃の考え方を思い出すことがほとんどできない。どんなことをしたとか、どこに行ったというようなエピソードは記憶していても、そのとき何を考えていたのかは忘却の彼方なのだ。アルバムを開いたとしても断片的な思い出しかない。

 思うに子どもと大人は接続していながらも、どこかに越えられない境界線があるのではないか。その境界を越えられるのは一度きりであり、不可逆の流れが支配している。だから、大人になると子ども時代が急に縁遠いものになり、歳を重ねるほどに理解しがたいものになる。

 子どもを主人公とした創作をするのはそのことへの抵抗なのだろう。絵本のように本当の子どもが大人の作った作品を読むときもあるが、作者と読者が同じ境地に達している保証はない。小学生の心は神秘に富んでいる。かつては自分もそうだったのにもかかわらず。

4月1日

 朝目覚めると不思議な感覚があった。なんでもできるという無敵感があった。そうだ私は実はかなり高い能力を持っていたのだ。それを忘れていた。今朝そのことを思い出したのだ。

 いつものように街に出かけた。すると明らかに多くの人が私に注目している。優れた容姿を持つわけでもないのに私が衆目を集めるのはおそらくそれなりの理由があるのに違いない。いまはそれが何かを説明することはできないが、自らの身から溢れる何らかのエネルギーがある。

 それでも少しも私は奢らない。あらゆる羨望も怨嗟も乗り越えていける気がしている。というよりその様な人々の営みがむしろ愛おしいものに感じられる。そうか私は一つ突き抜けてしまったのか。

 今日は何日だっけ。

ショートショートの手触り

 掌編小説には言葉足らずを楽しむという読み方がある。短い作品なので細かな設定は書き込まれないことが多い。作品世界にとって必要な情報だけが述べられ、あとは読者の想像に任される。それが小説の魅力であり、味わいである。

 もちろん作品として完結している中長編小説の方が味わいが深い。いわゆる短編小説もまた魅力的だ。ショートショートは不完全なだけに破綻も起きやすいが、そのほころびのようなものを楽しむことができる。

 短歌のようには手軽には作れないがでもまず小説を書くのならばここからと思わせる。でも意外と難しいのは、俳句が始めると奥深いのと似ている。