明日にかけて気温がかなり高くなりそうだ。初夏というより夏そのものの陽気になろうかという。明日は屋外の仕事があるのでいまから恐れている。
暑熱順化はすぐにはできない。ここ数日は身体とよく相談しながらことを為さねばならない。数日前から起きている倦怠感もこれが原因かもしれない。そうと分かれば対策も立てやすい。
気がついたらツツジがかなり咲きそろっている。周囲を見回し、異常気象に惑わされないようにしなければ。
日々の思いを言葉にして
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新型コロナウイルス感染症のパンデミックによって生じた変化にどのように適応しましたか ?
私はコロナウイルス対策に恐らく2回蝕まれた。1度目は病院でコロナウイルスは陰性と診断されたがそのときのほうが症状は重かった。2度目は明らかに感染したと思われるものだ。当時流行語になっていたエッセンシャルワーカーの一員である私は、自宅勤務などの選択はできず、ソーシャルディスタンシングも実現不可能だったから、当然の結果だった。
病状としてはかなり厳しい数日間と隔離処置対象となった数日間で、体力よりも精神の方が侵食された気がする。コロナウイルスの真の破壊力は社会との隔絶の理由を無批判で実効化してしまうことだった。
周囲の仲間たちが交代で病魔に犯される状況で、私が得たのは現状を深く考えず、最終的な利益を考えることだったのかも知れない。何歩か後退することは仕方がない。最終的に少しでも前進できたならそれでよいのだという割り切りだ。パンデミックには抗いがたいが、波を乗り越えた後に生存できていればそれでよく、できれば数ミリでも前進していれば成功だと割り切ることができたことかもしれない。
完璧主義な人には理解し難いであろうが、緊急時に現状維持はすでに勝利である。場合によっては少々の後退でも勝利の範疇に入る。そういう考えを持てたのがコロナ禍で得た教訓なのかもしれない。
先日の新聞によれば今季のスギ花粉の飛散は例年よりかなり多いらしい。いわゆる花粉症の私にとっては脅威そのものだ。
フェキソフェナジンなどの対策薬を服用するようになってかなり楽になったことは確かである。眠気の副作用も以前の薬と比べるとはるかに少ない。でも、うららかな陽気に気兼ねなく外出ができないのはかなり残念だ。
聞くところによると、花粉症を自覚する人の数は年々増えているらしい。今までは大丈夫だったのに、ある時から急に激しい症状が出たという話をほうぼうから聞く。どうも花粉に対する耐性には限度があるらしい。
花粉症に日本人がかかりやすいのは遺伝的特性という人もいる。植林計画の誤りという人もいる。花粉が出にくい品種改良がなされそれに置き換えつつあるとも聞く。何とかなればいいと思うが、私の命のスパンには間に合いそうもない。
コロナ禍を経てマスクをつけることに抵抗感がなくなったことは事実だ。朝晩はマスクをして電車に乗ることになる。面倒だが仕方ない。
冷たい雨の降る一日となった。冬を感じる空気につつまれて、今年初めて手袋を着けた。これでかなり感覚が変わる。
昔から防寒には無頓着で、上着、コートの着脱だけで凌いできた。冬用の下着とか、素材の違う上着とかも考えるべきだろうがしてこなかった。ただこの歳になれば考えた方がいい。父はステテコを着ていたが、私は一着も持っていない。温暖化のせいかもしれないが何とかなってきたのだ。
そして来月あたりに風邪を引いて熱を出すのも例年の決まりごとのようなものだ。そのときは厚着しなければと考えるのに治ってしまうとまた無防備に戻る。これも改善しなければとは考えている。
四季のあるのはありがたいことだが、その都度対応を忘れて失敗を繰り返す己に呆れるばかりである。
最近、スポーツと呼ばれるものをやっていない。毎日、約12,000歩ほど歩き、立っている時間も同年齢の中では多い方ではないかと思う。でも、これは必要にかられてやっていることであり、自主的に行うスポーツとはかなり違うものである。
なんのためにスポーツをするのかは、人によって違う。いわゆるプロ選手は収入のために行うのであり、その収入は他者より優れた成績を取ることで達成されることが多いから、身体をはって行う。そこに楽しみを感じられれば幸せだけれども、必ずしもそうもいかない。
健康のためにスポーツをする人もいる。勝利よりも継続することの方を重視する。これは健康という報酬を前提とする。勝敗は無関係というが、何かしらの目標がなければ続かない。意図せずとも他人と比べることになってしまう。そして健康という勝利が実感できないと精神的に不健康になる。
スポーツは交流の機会という側面もある。試合が終われば互いの健闘を称え合うことで輪が広がる。そういう目的があって、実はかなり大切だ。最近は一人でできるスポーツやそれを行う施設が増えてきた。そしてそれが輪を広げるというスポーツの大切な効果を無にしている。
スポーツとは何か。そして何をしなくてはならないのかを考える1日であった。