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老人の概念の変化

 敬老の日であったが、実はもう人ごとではない。律令制では数えで60歳以上を老と呼んでいる。今より平均寿命がはるかに低かった時代においてはこの歳まで生きられた人は限られていたはずだ。

 現代は衛生環境、医療などの進歩で60歳は労働人口に含まれる。一部の業種では定年の年齢とされるが、実態に合わないので見直しが必要とされている。

 100歳以上の人口がまもなく10万人に達するという。65歳以上の人口は3619万人で全人口の29.4%に達する。対して昨年の日本での出生数は686,061人であったというから少子高齢化が急激に進展することは避けられない。古代において老人の区分となっていた人々が扶養される側にならず、できる限り自立して生活できる仕組みを着実に作らなくてはならない。

 老害などと年配者を非難しているだけでは埒があかない。そういう自分も必ず老いるのだから。歳に応じて何ができるのかを各自が具体的に示していかなくてはならない。少なくとも70までは自己開拓できる社会にしなくてはこの国の未来はなさそうだ。

説明しよう

先日読み終えた本に気になる表現があった。私の感覚では「なぜなら」という接続詞を使うところで、ことごとく「説明しよう」という表現が使われているのだ。これはある種の語りでよく使われる表現で、不可思議な現象を後付けで有意義にするときに多用されたものである。私の世代では納得するというより、そうきたかという設定の妙を感じさせる言葉だ。




 説明することは自分の言動を理論化することに役立つ。単なる一過的な思いつきではなく、確固たる意見なのだと披露することが説明の本義だ。説明することによって自らの意見の価値が確認できるし、他者を説得することができる。また批判を受けてより良い意見に修正できるきっかけとなる。

 だから「説明しよう」を日常的に多用することは悪いことではない。他者の賛同が得られるか否かは分からない。でも、そのための努力をすることは自分自身にとってもかなり意味があることだ。

 最近はこの説明する努力が軽んじられている。人工知能がもっともらしい説明をしてくれるので、それ以上の可能性を考えることをはなからしなくなっている。「説明」よりも「結果」が優先すると考えられているからかもかもしれない。

それならば私は若い世代に「説明しよう」を流行り言葉にすることを提案したい。自分の考えを他者に認めてもらうことは容易ではない。それによって自らの考えが深まり、他者の批判が強度を高める契機になるのならば、無駄な努力などではないのだから。

ピークは過ぎても

 こんなこともできないのか。そういう叱責は幾度も受けてきた。できることのピークは人生のどこかにある。いまはやりたくてもできない。ただそれを認めたくないこら、無理をして結局敗北する。そんな悔しさを積み重ねた私のいま思うことを書いておこう。

 数年前、草野球に駆り出されて、自分の投げた球があまりにも相手の手前に落ちたことを嘆かしく思った。自分が思う身体能力と実際のそれとがはるかに乖離していると実感したのだ。小学生の時にソフトボールクラブに無理やり入れられて、外野手で、四番だった栄光がちらりと浮かぶが、体力の衰えはあまりに正直だ。

 ランニングでもそうだ。4、5年前までは何とか走れた。十数キロのジョギングを楽しむことができた。ほとんど何も装備せずにただ走るのが楽しみだった。それが時々膝に水が溜まることを言い訳にしてやめてしまった。いまは恐らく数キロでさえ走れない。やりたいと思っても、もしも故障したらという気持ちがまさってしまう。

 ピークは過ぎてもやれることは残っているのだろうか。むやみに走るのはいまのところやめておいた方がよさそうだ。変わりに何ができるだろう。例えば清掃ランニングはどうだろう。ジョギングコースに落ちているゴミを拾って持って帰る。ゴミがあるたびに休憩できるし、幾分かの社会貢献の気持ちも持てる。速く長く走れないならばこういうふうにシフトしてもいいのかもしれない。

 この歳になれば他人よりいい成績を求めるよりも、自分で満足できる何かをした方がいい。殆ど役には立たない状況でいまできる何かを探した方がよさそうだ。正直言っていまはかなり落ち込んでいる。やけくそになっているとも言える。ならば、その放埒を社会的にマイナスの方面に行かないように意識するのが肝要だろう。

 出し殻にもまだ使い道がある。そう思いたい。

誰もが二刀流

 二刀流というと宮本武蔵の剣術のことだったが、今は大谷翔平選手のことを想起させる言葉になっている。プロ野球において投手と打者の両方で一流であることは難しく、大谷選手がそれをアメリカで実現していることが賞賛されている。

 二芸ある人を二刀流と呼ぶこともある。職業を掛け持ちしている人といえば、かつては兼業と呼ばれた。地方に行けば会社員でありながら農繁期は米作をするいわゆる兼業農家は普通にいる。農業が専業ではやっていけないことから生まれたスタイルだと思うが、今考えてみればまさに二刀流であり、理想的な生活スタイルだ。

 農業ではなくても、二つの仕事をこなしている人はたくさんいる。会社員でありながら、土日はスポーツ少年団などのコーチであったり、塾の講師であったりするのはこれも二刀流だ。私も前の仕事では、学生に授業をすることと、自分の研究をして論文を書くこと、社会人のための講座の講師をやることなど二刀流をやっていた。それがもしかしたら、当たり前の人生のあり方なのかもしれない。

 ここ十数年はすっかり専業体制になってしまった。それが一流であるならばいいが、私の場合はそれ以下である。誇れるのは欠勤が少ないことと、自分が至らないことを自覚できていることくらいだ。二刀流という言葉からは程遠くなってしまった。

 矛盾することを言うようだが、人は誰でも兼業で生きている。例えば運転手なら、一日中運転手という訳ではない。家に帰れば父親としての役割があるのかもしれないし、趣味の時間はそれなりのこだわりの行動をする。それらのどれもに自信をもっていれば立派な二刀流プラスアルファなのだが、多くの場合その矜持はない。でも実態は人は何役もこなしている役者なのである。

 自分がやっていることにもっと意味づけをし、それらに誇りを持たねばならないと思う。自分の生活の多面性を認めれば、何か一つの基準に縛られていらぬ劣等感にさいなまれることはない。自分の可能性をいろいろな面で生かせれば、そこに利他的な側面も現れ、結局本当の意味での社会人になれるのだろう。収入に直結することではなくでも自分はいろいろな役を演じながら、社会のためになることをしていることを実感したい。人は誰でも二刀流で、しかも一流の社会人になる可能性があるのだ。

理系信仰そろそろ

 文系より理系の出身の人材の方が合理的で優れている。そういう論調はそろそろその欺瞞に気づいた方がいい。

理系の方が社会的ニーズに叶うという幻想は、いま心地よい噂として広まっている。ならば理工科目に全フリして良いかといえば、恐らくそれは大きな間違いだろう。今の日本の文理分けはあくまで受験のためであって、個々人の資質なりコンピテンシーによるものではない。文系の方が合格しやすいからということで文系学部に進んだ人も多くいるはずで、それは打算的な判断によるものだ。このことを非難するつもりは毛頭ない。逆に将来つぶしがきくとの大人の助言で理系に進んだ人も多いらしい。

理系的な論理的思考力は必要とされる場合が多いが、それはやるべき方法が決まっている場合である。頼るべき方法がない場合には価値の創造から始めなくてはならない。そのとき哲学や歴史、文学を参考にしなくてはならない。どちらも必要であり、択一という話にはならない。

理系的な知識だけで何とかなるという考えは既に過去のものになっていなければならないが、若者に過去の価値観を押し付けてしまう現実は厳然としてある。

自分以外になる方法

 自分以外になってみたいという欲望は時々起きていた。もしあの時、別の選択をしていたら違う人生を歩んでいたはずで、別の今があるはずだ。流行りの言葉で言うのなら、そういう世界線が存在すると勝手に考えることがあった。

 最近はその幻想が起きない。自分以外になるということは自分ではもはやなくなるということで、それはいまの自分を消すことに相違ない。それでは別の自分に変身するのではなく、まったく別の自分に入れ替わることになる。

随分人生に醒めてしまったのかもしれない。なるようにしかなれないし、それ以上を望むならそれなりの覚悟がいる。私の場合はその覚悟がまだ少し残っているが、果たしてどこまでいけるのだろう。

自分以外にはなれないが今とは違う自分になりたいという大きな矛盾を抱えてこの後の月日を送ることにする。

それなりの走り方

 短期記憶は25歳ごろにピークを迎えるという説がある。また情報処理の速度は19歳ころがそれで、大学受験生がこの二つを駆使して入試問題を解くのは身体的にはもっともよい条件である時期であることになる。

 最近はこの二つにおいて劣等感しか感じない。ちょっと前のことを忘れ、それを処理する手際の良さもない。これは困ったことだ。一方で経験に裏付けされた記憶は70代まで続くらしい。つまり何らかの事情で脳に損傷を受けるまでは何とかなるという訳だ。今の私は最後の綱にすがっている状態であることが分かる。

 それでも決して諦めているわけではない。簡単なことができなかったり、過ちをしてしまうことに自分でも驚くことがある。でも、数年前までにそんな類の小さな出来事が続いたために、今は速度を落としてもやり遂げることにシフトしつつある。それが今できる戦い方なのだから。

 短期記憶はメモを取ることで補い、処理速度は機械の手を借りよう。先輩たちに比べれば人生の後半戦の助けは多い。そして、加齢を言い訳にせずに他人から見れば不格好であっても自分なりの走り方でゴールを目指すしかない。叱られても笑われてもそれしかない。そうしたことに対する耐性だけは身につけている。






前景と後景と

 実際にはそんなに単純ではないが、例えば現実を舞台に例えるとすっきりすることがある。物事には間近に起きていることと、その背後で起きていることがある。それらは根本的には関連しているのだが、敢えて分けて考えるといいことがある。

 私たちは間近で起きていることに気を取られやすい。個々の現象は複雑でそれに対応するだけで日々の暮らしの殆どが終わる。うまく対応できたときはよいが、それができないときは懊悩激しく神経をすり減らす。

 でも少し遠くを見ると日常の困難が些事の様に見えてくることがある。近視眼的な考えを超越できれば新たな可能性が生まれる。

 舞台に幕を引いて前景と後景の世界を別視点で見せる技法がある。中には紗幕を使って半透明にし、非日常空間を創出することもしばしば見られる手法だ。実人生ではそんなに意図的に視線の変更はできない。だから、意識してレンズの焦点を遠景に向けてみることも大事だと思う。

終末を意識する力

あまり芳しい話ではないが、ものごとには終わりがあるという意識が持てることは大事だと思う。有限の生を生きているという実感は意外にも持つことが難しい。今日の次に明日があり、その次もまた同じという単純な方程式を想起してしまいがちだ。

実際には今日の次に明日がある保証はない。何らかの事情で自分の生命が終わるかもしれないし、自分だけ生きていても自分を包摂する社会でいかに生き残るかは別の問題になる。まさに世界は移り変わるものであり、この変化を止めることは誰にもできない。

 終末を意識できることはメタ認知の才能のあることを示すものであり、評価すべきものなのだ。それがいつのまにか妄想なり、老害なり、不確実な言葉で非難するものがでてきたのには残念と言わざるを得ない。この時点で未来を見通す可能性を否定してしまっては何も起きない。

 自分は終わりかもしれないけれど、きっと後継者が何とかしてくれる。そういう時間認識と楽天的な他者観の末に私はいる。そのことをいつも忘れてはならない。

一人暮らしを始めたころ

 富山県黒部市に住んでいたころは今から考えると最も不安定な時期だった。初めて就職した場所が暮らしたことがない地方都市であったことから、この地での生活を始めたのだが、直前に住んでいた渋谷とは全く違う環境に驚いた。

 それでも何とか順応できたのは、小学生のころ転校を繰り返した転勤族の息子として経験が生かされたのではないだろうか。つまり、住まいとは移ろうものであり、周囲にいる人もまた同じ。その場その場で適応することこそが大事なのだという学びである。

 一人暮らしは気楽であったが、単調になりやすかった。自炊したり、自分なりに楽しみを見つけたりすることは前から得意であったので、不完全ではあったが何でも自分でやるようにしていた。スーパーで魚を買い、自分でさばいて煮たり焼いたりして食べた。炊飯は機械に任せればよいが、味噌汁はしばらくは思い通りにはできなかった。それでも何とかなるものだ。それなりにできるようにはなっていった。

 掃除は駄目だった。毎日やらなくてはならないものを週に1度になり、月に1度になり、さらに頻度が減ると耐えがたいものになっていった。しかし、劣悪な環境も慣れてしまうと何も感じなくなってしまう。ある時、これではだめだと思って掃除を始めたが、これは最後まで苦手だった。

 この時期に始めたのがジョギングだ。一日7,8キロは走っていた。休みの日は朝と夕に二回走った。住まいから生地の港までの真っすぐな道をただ走った。港でしばらく海を見て、また宿まで走る。それを雨や雪の日以外は毎日行った。この経験は功罪がある。よいことは基礎体力ができたこと。少々のことにへこたれなくなったこと。悪いことはおそらくこれが原因で5年周期くらいで膝に水がたまるようになったことである。

 黒部市での生活は3年余りだったが、人生においてとても大切な時期であったのは間違いない。いつかまた生地の港を訪ねてみたいとは思うが少し躊躇もしている。