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教材としてのパソコン

 学校で使用しているコンピューターやタブレットに故障が相次いでいるという。子どもたちにこうした機器をどのように使わせるのかについては議論があるが、まずは故障にどう対応するのかを決めなくてはなるまい。

 究極の策としてBring Your Own Deviceがある。自分で用意するというものだ。これは少なくとも初等中等教育の場面では無理がある。セキュリティ面もそうだが、それより家庭間の格差や操作方法の指導ができない可能性などがあるからだ。

 現在学校で使われているデバイスのほとんどが海外製品だ。供給量の問題、価格の問題がある。教育利用目的に絞りスペックを抑え、代わりに強度やメンテナンスサービスなどを付加してビジネスを成立させる日本企業はないのだろうか。

壊れるのが当たり前の子どもたちの使用方法に耐えられる設計とか、保証のあり方とかを考えれば安定的な収益が見込める。教育の場面で成功できれば色々な応用が可能だろう。

修正する機能

 私たちの脳には不思議な機能がある。それは文字の連続の中に意味を感じ取るこである。木当はただの線と点などの連続に過ぎない文字の羅列に意味を感じ取る。きらにその文字列に間違いがあつたとしても、勝手に脳が修正し、意味を解釈てきるようにしてしまうのだ。

 実は前段落に意図的に誤植をしてみた。気づかれた方が多かったろう。それが5箇所あることはおわかりだろうか。わからなくても仕方がない。それが脳の働きなのだから。

 不完全な情報に一貫した意味を感じることはおそらく長い時間をかけて人類が獲得した能力なのだろう。大抵の場合、手に入る情報は不完全かつ断片的であり、それを元に判断しなくてはならない。類推する能力が高ければ、危険回避の可能性は高まる。

 この類推する能力は最近のAIに接したときの人々の反応にも見て取れる。先日、生成型AIの講習を受けたとき、講師がチャットの回答はAIが単語の連続の確率で組み合わせているだけで、言葉の意味を理解しているわけではないと説明した。すると同僚の一人は回答文には感情が感じられるので、講師の言っていることは間違っているという感想を述べていた。これも類推の能力がなせるわざなのだ。

 AIの作成する回答に人情を感じ取るのは、文章を読むときの私たちの基本的な姿勢のせいなのだ。文字列の乱れを勝手に修正して読むように、実は確率的な語彙の羅列であっても、そこに意味を感じ、心まで読み取る。AIとの付き合いでこのことが余計にはっきりとしてきた。

 逆に言えばこの能力こそ機械にはできないものの一つであると言える。豊かな想像力とおおらかな推測力、矛盾を乗り越える何かは人間の生物としての能力なのだろう。

 

道具を大切に扱うことの意味

 海外でプレーしたスポーツ選手が驚くのは、日本のように道具を大切にする国は少ないということだそうだ。日本では道具を大切に扱うことを幼い頃から教えられる。それは道具の値段が高かった時代の習慣が残ったのものともいうがそれだけではなかろう。どうも私たちは道具に特別の意味を見出そうとする伝統を持っているようだ。

 すべてのものに霊性が宿るという多神教の考え方には、日本人の考え方の基底となるものがある。道具を大切な扱うのはその道具にも霊性を感じているからというのは言い過ぎだが、少なくとも自分の大切な道具は単なる物質ではない。そこに何かを感じるからこそ、愛着も湧き感謝の心も起きる。針供養をする文化は細部に亘って様々な価値観を創出している。

 現代でも私たちはロボットに名前をつけ大切にする。そこに人間的要素を見つけようとする。道具に霊性を見出そうとする行動様式は現代も継続している。

 最近、ファミレスなどで動き回っている配膳ロボットの中には猫のような言葉を使うものがある。自動運転式移動ワゴンに動物的な要素を付け加えたのだ。このロボットには一見無駄かと思われる機能がある。機械の一番上のあたりを撫でると喜んだり、怒ったりするというものだ。配膳作業には無関係だが、ロボットに親しみを感じさせる役割を果たしている。霊性を感じさせるための余計なしかし大切な機能だ。

 私たちが道具を大切に扱うことをごく自然に行えるのはこうした民俗が影響している。大量生産大量消費を前提とした西洋文化に批判がなされ、持続可能性が強調されている今、この考え方は見直されてしかるべきだ。

親指

 スマホが登場するまでは親指が記述に活用されるとは思わなかった。右利きの私がこのブログの大半を左の親指で書いている。

 日本人はスマホの入力を人差し指で行なう人が多いという。パントマイムでスマホの演技をするならば、大げさに人差し指をスワイプする動作になるだろう。

 それでも簡単な入力は親指で済ます人が多い。片手で操作するにはこの指しか使えないからだ。私も右手は電車の吊り革の取っ手を握っているので、左親指しか使えないという事情がある。

 思えばこれは人類の発達史上かなり特異な出来事であるのかもしれない。身体にどのような影響が及んでいるのか興味がある。

充電は学校で

 子どもに電子端末を持たせる活動は時代の流れとしては止められないことだろう。ただこれは学校だけで完結するべきではないか。家ではノートに手書きで書かせるべきだし、検索して終わりという思考法に落とし込むことは避けるべきだ。

 そのためにも長期休業期間以外は生徒の端末を学校で預かり充電も済ませる設備を設けることを提案したい。中等教育まではこれでいいのではないか。

 デジタルの世界で活躍するためには非デジタルの分野でどれだけ頭を使ったかが肝要だ。大人になれば日々の作業に追われる。子どもの頃は脳を活用して考える力を養うべきだ。家でもパソコンやスマホに頼る小学生や中学生の未来は暗いのではないか。完璧にではなくともとにかく自分で考えたという実績を積むべきだろう。

 そのためにも家庭ではデジタルの呪縛から逃れるべきだ。それが結局本人のためになると思う。

音声入力

 今回は音声入力を利用してブログを書いている。 音声入力の精度はかつてと比べるとかなり良くなっている。 ただ日本語には同音異義語が多いために、なかなかうまくいかないことも多い。

 音声入力をしている場面はかなりおかしい。スマホに向かって独り言を言っている。 かなりな変人だ。それでもこれからはそういう場面に多く出会うだろう。

 ここまでの入力で、同音異義語や句読点が出てくるたびに引っかかっている。でも、それ以外の入力は比較的うまくいっている。私のようなだみ声で滑舌が悪くても入力できている。結構これは使えるかもしれない。

 音声入力で必要とされる能力に文字が正しいかどうかを見定める漢字力、表記力がある。この意味において漢字のテストの役割はまだ終わっていない。音声入力は意味のつながりを考えておらず、単に可能性の高い変換をしているのに過ぎないのだ。

 もう文字を覚えなくてもいいとか文章は機械に任せるとかそういう考えは今のところ通用しない。今後、さらなる技術の飛躍があって、音声入力がほぼ完璧になされるようになったら、次は話したまま、文章として成り立つように文章が組み立てられる能力が必要になるのだろう。

 どこまで行っても国語能力が必要であり、そうである限り文字を書き文章の構成を考える学習は必要であり続けるはずだ。

デジタルメモ

 デジタルメモといえば手書きのノートパッドのようなものを連想する人は多いだろう。最近は安価なものがコンビニでも手に入る。残念なのは保存や転送ができないことだ。できる機種もあるのだが途端に値段が跳ね上がる。もう一つのデジタルメモがポメラなどのキーボード付きの媒体である。これにはモノクロ液晶と小型パソコン並みのキーボードがついている。メールもネットもできない。ひたすら文字を入力するだけのためのものである。私が今一番欲しいのはこれだ。

 ポメラで入力したデータはQRコード化され、それをスキャンしてパソコンやスマートフォンに転送するという。その発想も面白い。最新機種はWi-Fi接続もできるらしいが、とにかく文字入力以外のことはほとんどできないのがこのデバイスのおもしろいところだ。6万円前後の価格は低機能パソコンと同じくらいであり、少々迷う。毎日重いラップトップを持ち運んでいることを考えながら、ほとんど文字入力しかせず、ネットの誘惑で一向に仕事が進まない体たらくを思えばこうした割り切りも意味があるのかもしれない。

 私にはこのような機械に対する執着が定期的に起こる。中には使い込んでいるものもあるが、すぐに飽きてしまったものもある。使い込んでいるものは自分の学習や仕事を大変革したが、そうでないものは無駄金になった。このデバイスはどうだろう。もう少し考えてみたい。