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画像生成

 AIによる画像生成については以前も書いたことがある。最近知ったことだがマイクロソフトのEdgeというブラウザには画像生成の拡張機能が盛り込まれており、簡単に使える。試してみたところ期待していたものとは程遠いものの、プログラミングや何らかのサインインなしに気軽に画像が作れることには単純に驚く。

 このブラウザには例の文章作成対話型アプリもあって、ブログ記事をある話題で書いてくれと入力すると、例のナンバリングとラベリングで整然と段落分けされた記事が出来上がってくる。コンピューターが作る記事だからコンピューターに優しい文章が出来上がる訳で、検索されやすい文章ということになる。これに生成した画像を添付すれば、もう誰のブログか分からなくなる。恐らくすでにそういうものが溢れているはずだ。

 画像まで機械任せになったなら、私としては敢えて下手くそな文章と写真、あるいは手描きの絵で勝負するほかあるまい。いまは笑われても次第に希少価値が出るはずだ。

学習効果と効率は違う

 教育現場においてICTをどのように使うのかはまだ答えが出ていない。使わない訳にはいかないという世情の流れに、教育界が流されると陥穽に陥る。

 学習する過程において、とりわけ初等中等教育においてはやはり自分の脳細胞を活性化する活動の方がいい。効率や完成度を犠牲にしても自分で考えさせることを重視するべきなのだ。それができて情報機器の活用ができる。

 コンピューターの操作方法を教えなくてはならないというのは私たちの世代の基準だ。今のインターフェースは昔より遥かに分かりやすく、それほど知識はいらない。そんなことはあとからでも間に合う。大切なのは自分で問題解決の糸口を見つける試行錯誤の経験値を高めることだ。

 情報の整理や記録に関しては早くから始めてもいい。これはノートをつけることの延長にある行為だからだ。またなくてはならないのは思考のツールとして情報機器を使うことだ。これは大学生になってからでいい。順番を示すことが教育関係者の責務になっている。

何も知らない物知り

 博覧強記は今でも憧れる境地だ。いろいろなことに通じ、それを適時に取り出せる。そして、もう一つその教養に裏打ちされた高度な判断や言動が行えるというイメージがある。理想的人物像だ。

 途中までなら機械がこなすようになった。チャットGPTならばデータベースにあることは瞬時に取り出せる。マイクロソフトの提供するBingならば今日あったことでも、過去のデジタル化したものでも極めて短時間に引き出し、回答を自然な言語で取り出してくれるのだ。博覧強記に似ている。

 ただし現段階では情報を拾い出し回答を組み立てることはできても、その意味を理解してはいないようだ。だから曖昧な問いかけをすると、誰でもわかるような間違えをする。知識に見合った教養はない。

 人工知能は極めて優秀な物知りではあるが、基本的なことも分かっていない、というより分かろうとしない存在であることを今の時点でしっかりと把握すべきだ。今後、人工知能の能力は上がり、今ほどは違和感は消えていくだろう。だが、基本は同じはずだ。

 なにも知らない物知りを人間という物知りではないが何かを知っている存在が操ることが大事だということになる。

鏡として

 コンピューターを使い始めた頃気づいたことがあった。私たちがものを考えるときにどのような手順で考えているのか、何を取り上げ、何を後回しにしているのか。それをコンピューターのプログラムはなぞっているのではないかと。

 プログラミングがほとんどできない私の印象に過ぎないが、機械にでものを行うことはまずは人間の思考法をもとにしており、そのために逆に人間のものの考え方を明らかにすることがあるということだ。私たちが無意識のうちに行っていることや考えていることは、実はある手順を踏んでいる、それはこういうことだったという気づきである。

 ならば、コンピューターを操作することは人間の言動を考える鏡として使えるかもしれない。私は国語の授業の中で、それこそ人間の普遍的な思考方法は法則化することも可能であるということを体感している。そういう言説は昔からたくさんある。文章の構成をパターンとして捉えることを教えることができれば、読解が苦手な生徒の助けになる。

 大切なのはそういう機械的な段階を超えたより深い内容であり、それらを比較分析する深層に触れる思考だ、それに辿り着く前に基本的な読解ができないのであれば大きな損失ということになる。その意味で思考の基本をある程度法則的に教えるのは意味がある。それに気づいたのはコンピューターの操作を通してだったのだ。

 パソコンばかりさわって本を読まなくなったのは事実であるが、機械から学ぶこともある。全ては繋がっている。

SNSは商業媒体

 元アメリカ大統領のトランプ氏のTwitterのアカウントが再開されるという。Twitterを買収したイーロン・マスク氏の決定による。

 マスク氏が根拠にした世論調査によると復活を望む声がわずかに多かったためだという。その数字を見ると驚く。賛成51.8%だという。有意な差と言えるのだろうか。これくらいの数字ならばいくらでも操作可能な気もする。

 この件についてもアメリカ社会は分断していることの証のようなものと見られる。トランプ氏のアカウント自体は個人の意見の発言の場としてあってもいい。ただ、これが議事堂襲撃などの暴動に結びつくならば問題になる。

 Twitterが個人のアカウントを制限するのは会社の方針による。オーナーが変わり方針が変われば扱いも変わる。この変化が企業の論理で変わっていくことになる。ソーシャルメディアは公的機関も利用するのであたかも公共のものと考えられがちだが、民営企業のものであることを思い出さなくてはならない。

 既存のテレビやラジオ、新聞や雑誌もその点は変わらない。企業の利益に反することはやらないのだ。NHKのような公共メディアですら企業の制約は免れ得ないが、広告収入にすべてを依存する媒体より多少ましだ。NHKをなくせと言う人たちはこの点を再考すべきだ。受信料の妥当性は別として。

性能の定義

使いやすさを優先したい

 新しいコンピューターを買うとき、いわゆるスペックに拘るのがこれまでの私の考えだった。性能が上がればできることが増える。所有欲も満たす。しかし、そういう高機能は使わないことも多い。

 いま使っている家庭用のラップトップはかつてなら選ばなかったレベルのCPUなのだが、殆ど動画を扱わない私にとってはなんの不自由もない。すごく遅いというレビューは信憑性に欠ける。恐らく何をするかで必要な性能は変わるのだろう。浮いた値段で何か他のことをするほうが実りが多いはずだ。

 如何に使うかということが機器の性能以上に重要であることを確認しておきたい。こだわるべきこととして使いやすさという面を再認識したいということである。

都合のいい世界

その機械は現実からの目隠し?
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 メタバースという仮想世界に対してアメリカのメタなどの会社が覇権を握ろうと躍起になっているらしい。とてつもないビジネスチャンスがあるらしいのだ。現実では実現できないさまざまな願望を疑似的に満たしてくれるもう一つの世界を演出してくれるというのだ。

 仮想現実というのはゲームの世界だけかと思っていた。しかし、このメタバースの世界はそのなかで商売を行ったり、教育を受けたりすることができるらしい。疑似的な交友関係や結婚も可能になるかもしれないとか。しかもそれは現実社会では得られない自分にとって都合のいい条件で満たされているというのだ。

 もう一つの世界という言い方は多分間違っている。その世界はたぶん一つではない。個々人が思い描く理想をそれらしく見せてくれるものであるから、人それぞれにメタバースがあることになる。他人との接点を持とうとすると、折り合いをつけなくてはならなくなる。すると共有メタバースのようなまた新たな世界が用意されるのかもしれない。

 こうした都合のいい世界を演出するのは技術力を持った巨大企業だ。前述のメタもそうだが、いわゆるGAFAM(社名変更でこういえなくなったが)などのハイテク産業が新たな世界を構築して商業世界を飲み込もうとしている。日本はコンテンツの面で優位にあるが、それもいつまで続くか分からない。ポケモンもドラゴンボールもアメリカの漫画と思っている人が少なからずいる。私たちはメタバースという新世界を楽しむと言いながら、実は企業にとって都合のいい世界を間借りして現実逃避をしているのに過ぎない。

 メタバースに商機があるのは事実だ。チャレンジする価値はある。ただ、現実社会を捨ててまで没入するべきではない。現実を忘れて仮想世界でいくら活躍しても、それは夢物語に過ぎないのだ。このように考えると、メタバースは宗教にも文学にも見えてくる。現実社会を豊かにする材料としてあるのならば存在価値はあるのかもしれない。

おかげでパソコンのスキル上昇

 通常の仕事ができない毎日です。パソコンに向かってキーボードばかり叩いている日々が続いています。おかげで今まであいまいだったパソコンのスキルが急に上がっています。

 パソコンのショートカットはいままでなんとなく使っていましたが、ここにきていろいろなものを再学習しています。これまではパソコンの「言葉」を覚えなくても何とかやっていけたのですが、今はひたすら画面に向かう毎日なので、覚えておくと便利なことは何でも取り入れたいと考えますし、それを使う機会も増えています。

 Googleのオンラインアプリケーションの利用も増えました。いままで使わなかったものにも手を広げてみると、無料でできることが意外にも多いことが分かりました。またMicrosoftのオフィスソフトでないとできないことのありがたみも分かるようになっています。

 少々気になるのは読書量が増えていないことです。いろいろとやるうちに読書の時間がなくなってしまっているのは問題点です。週末は大雨になっているので晴耕雨読の実践をしたいと考えています。もっとも晴耕の方は自粛でできないのですが。

日本語のパソコン

 日本のパソコンメーカーがほとんど壊滅状態であることは素人でもわかります。日本独自の企画で作られているコンピューターはほとんど皆無といってもいい現状です。低価格のパソコンは特別な設備もいらないようで完全にコモディティが進んでいる分野です。

 ただ、今後ぜひ頑張ってほしいのが教育用の分野の国産パソコンのハード・ソフトの国産化です。生徒がつかっても壊れにくく、修理がしやすく、さらに低価格なパソコンと、日本の教育にあった教育ソフトの開発は至急行っていただきたい課題です。

 教学用のパソコンといえばChromebookがあります。安価で管理もしやすい学校用のPCとして日本でも次第に広まりつつあります。ただ、このPCはアメリカ発のものらしい側面が随所に見られます。日本の教育場面にあった工夫がもっと取り込まれなくてはそのままでは使いにくい。日本の縦書きやルビなどの特殊な書式にも対応できていません。

 コンピューターを使うことが言語技術に大きく関係している以上、日本語の言語環境と親和性が低いパソコンを使うことは、根幹から言語の優位性を下げてしまうことにもつながります。これはWindowsでもiOSでも同じであり、日本語にあったパソコンを作ることにはもっと関心を持っていいのではないでしょうか。いままでは外国産のコンピューターを模倣して作り、それに合わせた操作性に自分が慣れていくという方法でしたが、次の段階があってもいい。日本語の環境にあったかたちのコンピューターを日本語話者が造る時代にはいったのではないでしょうか。

 教育現場でつかわれるパソコンは日本語にあったものであるべきだというのが私の持論です。それならば日本のメーカーが参加するチャンスはある。というより日本のメーカーに活躍してもらわなくてはこの国の知的生活の未来は怪しくなるといえるのではないでしょうか。

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