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コンピュータ読み上げの影響

 コンピュータによるテキストの読み上げの技能は年々向上している。すでに人間との判別が難しい域まで発達したものもあり、感心してしまう。

 ただ、詳細についてはいろいろな問題点がある。漢字の読みを間違えて読む場合はもっとも分かりやすい。最近動画サイトにこの間違い読み上げが非常に多いのだが果たして情報発信者はそれが間違っていることを知っているのだろうか。

 アクセントの問題になるとよりあやしくなる。例えば地名の場合本当のアクセントはどうなのかは、非常に分かりにくい。有名なの静岡県の磐田市だ。地元の読み方を関東地方のほとんどの人は間違っている。

 これを機械に読ませるとより複雑な事態になる。現地の読み方と東京人の読み方に加えて機械の読み方が並立するからである。何を基準とすべきなのか。もう何も分からない。

 コンピュータはAIなどの操作を通して、万能と考えられている。しかし、法則に則ったやり方は意味や習慣の問題を軽視しがちだ。読み上げという作業にそれが表れるのは象徴的である。

人格の保存

 あくまで仮の話だ。人工知能の発達は日進月歩だが、もしある人物の性格とか信条や思考の癖を記録し、再現することができるシステムが出来上がったならば、どのようなことが起きるだろうか。

 さらに空想を重ねよう。外見上ほとんど本人と変わらない容姿を持ち、極めて自然な動きをする機械に先ほど述べたある人物の人格を記憶させた人工知能を搭載したとすれば何が起こるのだろう。

 この話の延長上にはある人物そっくりのもう一人の彼または彼女が出来上がるということだ。そんなことは藤子不二雄の漫画のパーマンに登場していた。コピーロボットでもう一人の自分を作り、活躍中の不在を埋める時間稼ぎをしていた。鼻のスイッチを押さない限り、他人からはそれがロボットだと気づかれることはない。

 この問題を考える上で欠かないのは、人格とは何かと言うことだろう。性格と思考や行動の様式、さらには身体的特徴が一致していれば同一人物と言えるのだろうか。これはクローン技術という文脈でも語ることができるが生命倫理に抵触しないと思われる人工知能とロボット工学の組み合わせで考えている。

 もちろん直感的にも経験的にも同一人物とは思えない。完全なコピーがなされたとしても別の人格のように思える。なぜなのだろうか。仮にマスターの動きを完全にシンクロナイズするコピーが行われたときは間違いなくコピーの方に人格を感じられない。モノマネ機械と判断する。ただ、どちらがマスターでコピーか判別できないときはどうだろう。

 次に、コピー側が自主的に行動する場合はどうか。自ら考え、意見を述べ行動する場合はもうコピーとは思えなくなる。マスターとコピーが会話をしたり、争ったりしたら完全に別人格と感じるだろう。外見がそっくりの双子の姉妹のどちらにも人格を感じるのと同じように。

 人為的にそっくりというより等しいものとして造られたコピーは、性能が高ければ人格を認めていいのだろうか。

 さらに屋上屋を架す。例えば尊敬してやまない先人の精神と肉体を完全にコピーして、我が家の一員として迎えた場合、彼もしくは彼女は家族の一人なのだろうか。それが認められたなら人格の保存はできるのだろうか。何か非常に根本的な部分で間違っているように感じる。それをまだ説明できない。

自宅以外でのデジタル文書作成

 この夏はあまりにも暑かったので、近くの図書館やカフェに「避暑」で行くことが多かった。紙の本をじっくり読むことが中心だが、やはりデジタルでメモをとったり文書を書いたりすることも必要になる。その際にはスマートフォンでは私としては物足りない。フッリク入力ではうまく入力できない。キーボードがないと入力までにアイデアが消えてしまう。

 そこで、最近ではBluetooth接続するキーボードを持ち歩いている。これは以前にも紹介したことがある。電池で動き、その寿命が長いので電源で困ることはない。

これをスマートフォンにつなげばとりあえず、入力のストレスはなくなる。キーを叩く際に音がほとんど出ないので図書館でも使えるのがよい。WindowsでもiOSでもandroidでも使えるのもいい。スマホのほうは100均で売っているスタンドにおいてディスプレイのようにして使っている。私の場合これが基本の使い方だ。

 WordやExcelといった文書を本格的に使いたいときは少し前に買ったsurfaceというタブレットを使う。これはプレゼン用に使うことを目的として低スペックのものを買ってしまったため、ソフトの起動の遅さなど10年位前のコンピュータの性能を思い出させるものだが、一度立ち上がればそこそこ使える。Windowsで動いているので基本的にはパソコンと同じ操作感覚だ。

 専用のキーボード付きカバーを追加で購入すればほとんどモバイルパソコンと変わりはない。上に紹介したものは教員が授業で使うのならこれで十分という情報のもとで入手したものだが、スペックが低いため、いざというときにうまくいかないことが多い。少なくとももう一つ上くらいのグレードがいいと思う。私はこれで十分だが。

 そして、本当に何とかしたいという場合は自宅の小型ラップトップを持ち出すことになる。1.5Kgほどあり、さらにアダプターなども入れるとそこそこ重たい。夏場はカバンをリュックサック状にして持っているので気にならないが、宿泊を伴う出張ではPCの出番となる。

 上に示したのは私が使っているのと同じくらいの性能だ。パソコンはもっと軽くて性能がいいものもあるが、予算との相談になる。私の場合はもう今あるものを使い倒すしかない。性能は低いが用途をしぼればほとんど問題は生じない。

 最近はどこでも無料のWi-Fiサービスを提供しているから、原則的にはそれを使う。気休めにVPNを通すがどのくらい意味があるのかわからない。Wi-Fiが使えないときはスマートフォンからのテザリングを使っている。少し前まではこれが大半だった。最近は公衆Wi-Fiが使えないときだけの緊急避難的な方法になった。

 東京や神奈川で生活している私にとってはこれでほとんどのことができる。あくまでもインプットをするための外出だが、アウトプットする手段も整ってきているということだ。数時間、ハンバーガーショップの席を独占していても迷惑にならない状況であれば居続けてしまう。マクドナルドの場合はコーヒーをクーポンを使って買えば150円弱だ。スターバックスやタリーズはコーヒーだけでも堂々としていられるのがよい。サンマルクカフェは電源の取れない席が多いがそれ以外は居心地がよく気にっている。もっともこれらは支店によって環境が大きく変わるだろう。

 こういったことはすでにご存じの方にとっては当たり前だろうが、知らない人には知っていればいろいろな利便性も生じることだろう。私は試行錯誤していまに至っている。このブログが本当はない書斎をデジタル上に作るという思いで作ったものだが、その仮想の書斎は自宅でなくてもいいことになる。

思考を乗っ取られないように

 生成型AIのもたらす弊害がしばしば話題に上がっている。簡単な指示だけで文章やプログラミングができてしまうAIは道具として使うのならば便利だ。ただ、人工知能として使うならば、つまり人間の思考の代替として使うならば危険を伴う。

 最近の大学生はパソコンが使えないという。もちろん、全てではなくそういう人が目立つということなのだが、頻繁に耳にすることから、少数派という訳でもなさそうだ。パソコンが使えないのはスマホがあるからだ。私の世代にとってはスマートフォンはパソコンがないときの代用品に過ぎないが、若い世代にとっては何でも一応できるスマホがあるのに何でわざわざパソコンを使う必要があるのかと思うのだろう。使えないのではなくそもそも持っていない人も増えている。技能不足の問題ではない。

自分で考えよう

 AIがその問題をより深刻にしそうだ。すでに複雑なオフィスソフトを習得するよりはAIにどう話しかけるかの方が大切だと思われつつある。日本語の予測変換のように、本人の考えそうなことを予測してしまうシステムは直にできあがる。

 かつてコンピュータが普及し始めた頃、大学の教員から最近の学生は文書や手紙の書き方を知らない。書き方を習ったことがないのかと叱責されていた。その叱られていた世代がパソコンを使えない学生に苦言を呈している。もしかしたら五十歩百歩なのかもしれない。ただ考えなくてはならないのは、思考のアシスタントをするサービスは、人間が自分で考える機会を巧妙に奪い取るということなのだ。

 思考を乗っ取られないように自戒するとともに、若い世代の思考力を高めなくてはと思う。まだ教員であるうちはこんな偉そうなことを言ってもいいだろう。

プログラミングは大事だが

プログラミングを子どもに教えたいという親は多いらしい。間違いではないがそればかりであると必ず失敗する。プログラミング用のコンピューターに通じる言語を覚えることは今後さほど重要ではなくなるかもしれないのだ。

人工知能の発達でプログラミングの基本は自然言語でかなりできるようになっている、すると大切なのはまともな言葉遣いができるということになる。伝わる日本語が使えているのかが問われることになる。

さらに誰にでもできるプログラミングは専門家の力は要らないことになる。人間の思考の癖を知り、それを先回りしてプログラミングに取り入れることが大事だ。ならば学ぶべきは人間の思考のパターンである。それには文学や歴史の学習が役立つ。

 理系の時代などという人はいるが実は理でも文でもない人間に興味をもつことが何よりも大切だ。親御さんにはこのことを言いたい。もっと本を読ませ、もっと遊ばせ、もっと他人や社会と関わらせた方がいい。昭和世代が必死に覚えたことは機械がやってくれる。ただ人生の経験の厚みは補えない。子供時代にそれをやらせるべきだ。

古典教育不要論者の気づかないこと

 古典教育に対する批判には伝統的なパターンがある。そんなことをやるならばもっと実用的なことをやったほうがいいという考えだ。これをかなりの学識者がいうから騙されてしまう。

 古典不要論者は自らの意見が古典の知識でできていることに気づかないか敢えて無視している。古典を学ばずに過ごせば実用的な人間になれるだろうか。プログラミングを教えろという人は、おそらくそのスキルを習得するのに苦労したのだろう。そして成功し、もっと早くからやっていればよかったと考えたのだ。投資などの金融スキルを子どものときから教えろという人もいる。さぞかし儲かっているのだろう。

 気をつけなくてはならないのは、プログラミングもファイナンシャルスキルも年々習得しやすくなっており、何も小中学校で教えなくても十分にものになるということだ。こういうやり方が決まっているものはコンピューターに代替されていく。

 人工知能の発展は答えのある問いの処理には人間は敵わないことを痛感せしめている。大事なのは非定型かつ意味のある情報をどれだけ持つかであろう。古典文学や歴史から学ぶことは多義性を持つ曖昧なものが多いがそれ故に大切な思考の材料となるものだ。それを学ぶのを止めようというのは自ら進んで機械の配下に降ろうと言っていることと変わらない。いい加減にこのことに気づくべきだ。

GPTを超えろ

 教育現場においてChatGPTをどのように扱うのかは大きな問題になっている。現時点でもかなり自然な文章作成ができるレベルにあり、本人作なのか生成された文章なのかを見分けることは難しい。

 恐らく始めは使用禁止という指導で済むのかもしれないが、その縛りは長くは続くまい。見破るための方法も開発されるだろうが、文章作成能力を育成するのならばそういうことをやっても埒が明かない。むしろ積極的に活用せよという局面はすぐに来るだろう。

 その場合、大切なのは何が理想的な文章であるのかを見抜く評価力だろう。コンピューターが書いたのだから正しいに違いないなどと考えていると大きな間違いに陥る。次の文章教育は何が理想的な文章なのかを判断する能力の育成ということになるだろう。

 そのためには手本となる文章を徹底的に読み込むことが必要になる。これは機械ではできない。まだ国語教師がやることはたくさんある。

速度制限

 いつの間にか通信の量が増えてしまい、いわゆるギガ不足状態になっている。月末まであと数日なのでこれで持ちこたえることにした。メール以外の殆どが使えない。

 原因はクラウドへの写真のバックアップにモバイル通信の制限をかけていないことだった。これには設定で解決できる方法があることを知り、早速始めた。来月からはそういうことはないだろう。

かつてのモバイル機器に比べて通信にかかる容量は飛躍的に増えている。ネットは格安プランでいくなどの変更が必要なのかもしれない。画面より本を開けという天啓と考えることにしよう。

画像生成

 AIによる画像生成の技術は見るものを驚かす。最近はキーワードを入力するだけで絵画や写真のように見えるものをごく短時間で作り上げる。知らない人が見れば人が描いたものと見間違うほどだ。

 おそらく私たちの画像認識というものはある程度パターン化している。それをコンピューターは膨大な映像データベースから抜き出し、それに近いものを組み合わせてくるのだろう。組み合わせの仕方にもある程度の型があるから、それを使えば自然に見える絵になる。チャットするプログラムと基本的には同じなのだ。だから、ときには奇妙な絵になってしまうこともある。

 今のところは、絵画や動画生成を瞬時に行うことは難しいようだ。それが可能になれば、言語プログラムと作画プログラムを連動させ、ホログラムのような表現で投影すれば、リアルタイムで会話する疑似人間ができあがる。ロボットテクノロジーが追いつけば形而下の世界に現れることになるのだろう。

 言葉でも映像でも騙されやすい私たちがこうした事態にどのように対処すべきだろうか。そのためにも問題発見力とメタ認知の力を身に着けさせるべきだろう。これこそが教育のやるべきことなのだ。

親指

 スマホが登場するまでは親指が記述に活用されるとは思わなかった。右利きの私がこのブログの大半を左の親指で書いている。

 日本人はスマホの入力を人差し指で行なう人が多いという。パントマイムでスマホの演技をするならば、大げさに人差し指をスワイプする動作になるだろう。

 それでも簡単な入力は親指で済ます人が多い。片手で操作するにはこの指しか使えないからだ。私も右手は電車の吊り革の取っ手を握っているので、左親指しか使えないという事情がある。

 思えばこれは人類の発達史上かなり特異な出来事であるのかもしれない。身体にどのような影響が及んでいるのか興味がある。