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画像生成

 AIによる画像生成の技術は見るものを驚かす。最近はキーワードを入力するだけで絵画や写真のように見えるものをごく短時間で作り上げる。知らない人が見れば人が描いたものと見間違うほどだ。

 おそらく私たちの画像認識というものはある程度パターン化している。それをコンピューターは膨大な映像データベースから抜き出し、それに近いものを組み合わせてくるのだろう。組み合わせの仕方にもある程度の型があるから、それを使えば自然に見える絵になる。チャットするプログラムと基本的には同じなのだ。だから、ときには奇妙な絵になってしまうこともある。

 今のところは、絵画や動画生成を瞬時に行うことは難しいようだ。それが可能になれば、言語プログラムと作画プログラムを連動させ、ホログラムのような表現で投影すれば、リアルタイムで会話する疑似人間ができあがる。ロボットテクノロジーが追いつけば形而下の世界に現れることになるのだろう。

 言葉でも映像でも騙されやすい私たちがこうした事態にどのように対処すべきだろうか。そのためにも問題発見力とメタ認知の力を身に着けさせるべきだろう。これこそが教育のやるべきことなのだ。

機械とおしゃべりすれば

 機械とおしゃべりすることができるようになった。私がパソコンを使い始めた頃、munouというプログラムがあり、話しかけると返事するのを楽しんだ。ただ、ほとんど無意味な返事しか返ってこなかったのですぐに飽きた。

 会話するおもちゃとしてのファービーも似たようなものだった。見当外れのリアクションがあっても人間の方で勝手にかわいいと判断し、ペットのようにかわいがった。

 いま爆発的に普及しつつあるChatGPTも基本的にはそれと同じだ。ただ、膨大なデータベースから確率の高い組み合わせの情報を瞬時に自然な言語で提示してくるので不自然さはほとんどなくなっている。基本的には昔のプログラムとは変わらないので人間側が不自然だと感じる可能性が極めて低くなったということに過ぎない。

 その点を踏まえた上で、AIに問いかけるのは一定の意味がある。多くの人はこう思うはずだという多数意見を検索できれば様々な判断の材料になる。大いに使うべきだろう。何かに行き詰まったときに回答を求めれば真の解決策は得られないかもしれないが、ヒントにはなる。

メディアリテラシー

 改めてメディアリテラシーの重要性が問われる事態になっている。帰国しない議員を持つ少数政党はついに党是と関係する名前を捨て、アイドルグループをもじった名前に変えた。あらゆる方面に不親切であり、不誠実だ。

 この政党は分かりやすい目的を提示して集票しながら、結局はそれが目的ではなかったということだ。刹那的な話題で注目を集めるだけですべてが自らの利益のための活動だ。国会議員なのに国民には関心がなく、政党なのに政策より立場保全を優先する。どう見てもおかしい。

 この怪しさは大抵の国民ならば気づくはずなのに、なぜ議席を与えてしまうのだろう。それは既成政党への不満というだけでは済まない。この政党は公共放送制度への批判から始まり、それを女性の政治参加にすり替えつつある。この方法はいわゆる独裁政権の成立過程にも似ている。

 大切なのは相手を見抜く洞察力なのだろう。政治家となるとそれが全体の利益に関わる。芸能界のマイナータレントの動向とはそこが異なる。彼らが批判した放送というメディアや、逆に利用したソーシャルメディアというものの扱い方をもう一度考える必要がある。表現は自由だが、それを誠実なものか売名なのかは各自が判断しなくてはならないのだから。

伝わらない思い

 何でも簡単に「配信」できると錯覚してしまう環境にある。言った言わなかったがトラブルのもとになってきたのはかつてからだが、いまはメールか何かで送った送らなかった、読んだ読めなかったの問題になることがある。結局同じことなのだろう。

 リアルタイムで同じ場所でやり取りしていても誤解は生じる。近年はコミュニケーション能力、とりわけ受信力に劣る人が増えている。かくいう私もその一人だ。相手の立場を察する洞察力や、自分の言動が将来どのように伝達されていくのかを予測する力も欠けている人がいる。高度な教育を受けた人にも多くいるから、恐らくいまの社会に欠けている何かがあるのだろう。

 情報技術は飛躍的に進歩したが、それに人間の方がまったく追いついていない。それどころか、人間らしい意味や価値観の分野を放棄して、すべてを人工知能に委ねようとしている。

 残念ながら、私たちには伝わらないことが多数あるという現実を知るべきだ。そして、人間性とはどのようなものかを自覚するべきなのだ。そのためにも古典文学に接し、小説や詩をもっと読むべきなのだ。その意味でもいまの国語教育の方向性には大きな疑問を感じる。

相づち

What’s up?

 一見意味のない相づちがある。うんとかああとか、そうだねとか。私はそういうのが苦手で随分相手を不快にすることがある。

 What’s up? もその類という。疑問の形を取っているが答えなくてもよく、鸚鵡返しに言うことも許される。もっとも軽い安否の確認の方法で、存在を意識させることだけで事足りるらしい。やあとかよっとか、そんなものに近いという。

 意味がないわけではない。人間関係の始まりを意識させるきっかけであり、自他を認めることの重要な役目だ。私がこれが苦手なのは、いまだに適度な人間関係における距離感が掴めていないからだろう。

 相づちは適当な量がある。やたらと打てばいいというわけでもない。多すぎるとかえって無理に聞いているような雰囲気を相手に与えてしまうそうだ。確かに聞きたくない話を遮るための相づちはある。もういいです。分かりましたと言わんばかりに首を振るのも同じ効果がある。

 相づちは重要なコミュニケーションの手段であるのにも関わらず、誰かに教えられるということはない。経験の中で適度な方法と量を獲得していく。リアルな人間関係を築く機会が減った世代はどのように相づちを覚えるのだろう。まさか安易にいいね! と言って、大きな誤解を生み出してはいないだろうか。

発想の転換

 ただいいものを作るだけでは評価されないという。それをどのように伝えるのかが大切だ。私たちは発想の転換を迫られている。

 いいものを作ればそれに対して正当な評価がなされる。そのように私たちは信じている。恐らく根本的にはその通りなのだろう。だが、実社会では必ずしもそうではない。いいものを作ってもそれをどのように表現するか。どのような手段を使うかで事態は大きく変わってしまう。いいものを作ってもそれを伝えなければ評価に結びつかない。

 逆に考えれば製品の機能が高くなくても、訴求する要素さえ伝えられれば評価は高くなる。これが経済活動ならば価格競争に勝てる原因となり、普及すれば収入も増え、それが設備投資なり研究開発費に充てられてますます発展するというサイクルになる。

 伝えることの重要性を私たちは再認識になくてはならない。

知らざあ言って聞かせましょう

 私たちは自分の常識が無条件に誰にも通用すると思い込んでいる。そもそも常識という言葉にすでに油断が含まれている。実際はそんなに甘くはない。

 他人とコミュニケーションをするときに常に現在地を確認しながら話をするのは骨が折れる。言わずとも通じる仲間を理想とするのだ。しかし、つきあいが広がるほどこの手続きは欠かせないものになる。

 相手は自分のことを深くは知らないということを前提にコミュニケーションを進めていくべきだ。最近はそう感じることがとても増えている。おそらく私の考え方のほうが特殊なのだ。そう考えることにしている。

パターン認識

 老眼が進んで視力が低下していることによるのでしょうか。道行く人を知り合いではないかと思うことがしばしばあります。近づいてみると別人であることが分かって自分の識別能力の低さに苦笑いします。

 私は個人認証する場合、いくつかのパターンを使っていると自覚しています。身長や体格の他に、顔の形、頭髪の状態などの他に特徴的な要素をいくつか取り出して過去の記憶と照合しています。その方法が近ごろ簡略化している気がします。

 細かい観察ができるのは才能の一つなのかもしれません。得られた情報を細部まで検証することは時には非常に重要です。この点において私は劣っているし、開発する努力を怠っています。逆にいえばピントを甘くして複雑怪奇な現実を大まかに捉えて心的負担を減らしているとも言えるのかもしれない。

 大雑把な把握によって誤った判断をしないようにと願うばかりです。

目を見る

 マスクをつける生活をするようになって人の表情を読むことは難しくなりました。大切なのは目を見て話すことといいながら結構ハードルが高い。

 もともと目を見て話す習慣のある人は何を言っているんだという話です。私は他人の目を見る時間が相対的に少ない気がします。全体の雰囲気や口調などで総合的に把握しているといえばいい表現ですが、要するになんとなく捉えているのです。

 なんとなく把握するための情報源の多くをマスクが覆い隠している状態では、私のような方法は機能しない。そのためにも目を見るコミュニケーションが必要になっています。アフターコロナの改革課題の一つです。

適度な刺激

 人とあまり話さない生活を続けていると、適度な刺激がなくなってしまっている気がします。何かを考える上で不可欠なものが失われているのです。

 あまり社交的ではない私でも最近の事態は極めて異常です。他人との会話の中で考えはまとまっていくのであり、一人で逡巡していても何も進まないのです。会話は大事です。

 無意識に飛び込んでくる人の話も脳の活性化には欠かせません。集団知のようなものをわたしたちは獲得しながら生活をグレードアップしているのです。

 テレビやネットのニュース、ソーシャルメディアの記事や動画はあまり心に響きません。大事なのは自分に対して話されていると感じることであり、自分が主体的に聞き取ったという自覚なのでしょう。