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カツレツとトンカツ

 トンカツは好きで月に一度以上は食べる。さすがに最近は油っぽいものを避けようとする傾向があるが、トンカツ屋に行くのは一種の幸福である。このトンカツは、西洋料理のコートレットなる肉に衣をつけて油で炒める料理を起源としている。

 コートレットつまりカツレツでは肉を叩いて広げ、その上に小麦粉などをまぶし、薄く引いた油の中で焼く料理のようだ。日本の料理店でもこの方法で調理した料理を食すことはできる。なかなか美味いものだ。

 日本のトンカツはこれにならいながらも、比較的安価な豚肉を使い、天ぷらの調理法である肉を油に完全に沈ませる方法を取り入れて和風化を達成したものである。キャベツを添えて油っぽさを低減する方法も日本が発祥だという。つまり、元は外国料理だが、それを種々の事情で和風化しているうちに今の形になったということだ。

 これは日本の食文化の典型であり、ラーメンや餃子、コロッケといった中華や洋食という分類がなされる日本料理などに共通する。積極的な導入、模倣と、その変容が顕著に見られる。おそらく世界中のどの国や地域も同様な展開がなされているのだが、日本文化では摂取以前の形態を保存したり、名称を残したりするためにそれが分かりやすいのだ。

 日本文化のあり方そのものともいえる。模倣の末に元を越える何かに作り変える。しかもその原型への敬意を残す。出来上がったものは、また次のものに作り変えられる材料となる。そういう循環を阻害してはならない。

コンビニの巻物

 コンビニでよく買う食べ物に納豆巻きがある。理屈を越えて好きだから定期的に買ってしまう。このコンビニの巻物の包装が秀逸である。海苔が米と接しないようにフィルムが施されており、食べるときにその遮蔽を取り去って食すように設計されている。

 しっとりとした米と具に対して、海苔はあくまで乾燥した状態でなくてはならない。これを実現するためには、具と海苔を分離する特殊な包装が必要なのだ。コンビニ巻物はそれを見事に実現している。

 中身のフィルムを取り除いてから、海苔に巻きつける作業はちょっとしたコツが必要だ。経験したことがない人は始めは戸惑うだろう。外国人観光客にも是非挑戦してみてほしい。海苔は乾燥したままで食べたいという日本人の特別のこだわりを知っていただければ、きっと旅の発見の一つになるはずだ。

 私はこの包装法の開発者に敬意を表する。あなたのおかげで救われた人がどれだけいるのか。日本の味を安価に再現する技法の開発者に心から感謝したいのだ。

おせち料理の意味

 最近はいろいろなところにおせち料理の予約の広告がある。贅沢な具材をふんだんに用いて数万円という価格で予約を受け付けている。すでに受注終了というシールが貼られたものもある。私などはどうしてここまで投資しなくてはならないのかと考えてしまうが、価値観はさまざまあってよい。

 おせちの原点は節日の供物にあるのだと考える。季節の節目に神に季節の収穫物を備えることで、神に満足してもらい、次の年の豊年を予祝する。神はここまでやってくれたのだから来年もという気持ちになると古人は考え他のだろう。だから、あくまで神饌であって、人はそのお下がりをいただくのに過ぎなかったはずだ。

 それがいつのまにか人間がその贅を尽くすためのものと考えられるようになる。信仰の枠から外れれば、限りなくその内容は形式化し、高級食材を使う方がよいとされていく。神様を忘れ、自分が神であるかのように振る舞うが、神である資格は経済力に裏打ちされたものだ。変動の激しい基準である。私のようにいつまで経っても神様になれない人もいるが、神になったり、落ちぶれたり、その繰り返しをしている人もいるはずだ。

 おせち料理を食べるとき、一瞬でも自分の信じる神もしくは尊敬すべき人やモノを思い浮かべるといいのかもしれない。するとその重みがその味を荘厳なものに変えてくれるはずだ。¥ではない単位の幸福が得られるかもしれない。

シロナ

富山に住んでいたころ、自炊するときによく使った野菜にシロナがある。白菜と書くと別の野菜になるが、実は近種ともいう。巻かないのがシロナであると説明する説もあるが真偽は分からない。ただとてもあっさりした味わいと、煮込むと味が染みやすいのは共通している。

とても安価で申し訳ないほどだった。これを醤油とバターで炒めると結構な美味であった。かさが少なくなるので思いきり使うことがコツだ。魚の煮物に添えたり、新鮮なときはサラダにもした。

ほうれん草は法菜と書かれていた。こちらの方がしっかりとした味があり、おいしく感じたのは言うまでもない。それでもときにシロナを食べたくなるのだが、近隣では売っていないようだ。

ドリアは日本発

 格安イタリア料理店のサイゼリヤの看板料理であるミラノ風ドリアには時々お世話になっている。小腹を満たす料理でありながら、税込み300円という安価である。実にありがたい。

 ミラノ風ドリアというものがイタリア料理なのかといえば、答えはNoである。ミラノにはこの料理はないし、そもそもドリアも存在しない。もっとも近いリゾットは見た目も製法も異なるものである。

 ドリア自体は横浜のホテルニューグランドの初代料理長のサリー・ワイル氏が即興で作った料理をもとにするようで、米の上にグラタンの様なものをかけることで食べやすさと栄養価を演出したものらしい。ワイル氏はスイス人とのことだが、横浜生まれの日本料理ということもできる。

 サイゼリアがミラノ風と称するのは、ボローニャ風のトッピングをしていることによるが、ミラノはボローニャではないことからいろいろな意味でミラノとは無関係なのだ。ちなみにミラノ風ドリアはサイゼリヤのオリジナル商品であった。

 日本はさまざまな文化を受容し、それを自国風にアレンジすることにかけては無二の技能を発揮する。数々の「風」料理の中でも庶民の味方のこの料理がどこまで今の値段を保てるのか。注目している。

納豆は欠かせない

 子どもの頃は納豆が好きではなかった。嫌いではなかったがどうして面倒な糸を引く食物を食べなくはならないのかと考えていた。いまは不可欠な食材である。

日本食の中でも先鋭的な食材とされる納豆だが、日本人でも納豆嫌いは多い。だから、外国人に納豆が食べられなければ日本人の味覚は分からないなどというのは間違いである。おおまかに行って、かつては東日本の人は納豆を日常的に食するが、西日本はそうでもないと言われていた。私がかなり前に北陸に住んでいた頃、そんな話があったが、近隣のスーパーで普通に納豆は売られていた。

 納豆には身体によい栄養素が多数含まれているようだが、中でも血液をサラサラにするビタミンKは注目すべきものである。動脈硬化などの対処に納豆は必要な食材らしい。私は親戚も含めてこの種の病気に弱い家系なので、納豆は摂らなくてはならないものの一つだ。

 とは言え、納豆を定期的に食べるのは簡単ではない。余裕のあるときはパックの納豆を食べるが、そうではないときはコンビニの納豆巻きのようなもので済ませている。巧妙なパッケージは食べられるようにするまで開封するのに工夫がいるが、納豆巻きのために手順を完璧にマスターした。

 子どもの頃には苦手であったのに、いまは毎日のように食べているものは他にもある。食文化は後天的なものであり、それを意識するのにも時間がかかる。文化とはそういう側面があるから、表面的な現象で異文化を批判することはできない。自国文化でさえ理解するには相応の時間が必要なのだから。

餃子の思い出

 日本では中華料理の代表と考えられている餃子だが、私たちのイメージする餃子とその起源である中国の餃子とはずいぶん違うもののようだ。言ってみれば日本風餃子が私たちのいう餃子なのだ。薄い皮に大蒜やニラをたくさん入れて作ること、焼いた後で酢醤油などを付けて食べることなどが和風なのだそうだ。

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 子どものころ我が家に手作り餃子のブームが来たことがあった。母が中身の餡を作り、肉屋で売っている餃子の皮を使ってそれを家族みんなで詰めた。欲張って入れると皮で包むことができないし、少なすぎると満足できないものになる。その塩梅を少しずつ学んで家族全員が少しずつ作れるようになっていった。できたものをフライパンで焼くのだが、最後に水を入れて蒸し気味にすることなど母は得意な料理だった。

 一人5個もあれば十分なはずだが、当時は食べ盛りであったこともあって数十個食べたこともあった。残ったものは冷凍してまた食べたこともある。母としては家族で作れる楽しさと比較的安価で満たされることなどを計算していたのだろう。多い時には週に一度はこの手作り餃子を食べていたこともあった。

 その後、冷凍食品の餃子が普及し、価格も下がるとこの手作りの家庭行事は徐々に少なくなった。それよりも我々の異常な食欲が一般人のそれに近づくようになっていったことが原因だったのだろう。いくらでも食べられるような気がした日が今となっては懐かしい。

料理は

 料理は芸術という人もいれば科学という人もいる。確かにその両方の側面を持つものだ。料理の作成過程を見るとそう思う。

 料理において材料や調味料の組み合わせはある程度決まっている。それが文化ごとに型のようなものがあるので、郷土料理のようなものが発生する。私の身近では醤油や味醂、さらには昆布や鰹節でとった出汁を使う味付けが定着しているので、そういう味覚を美味しさの基準にしがちだ。この意味では料理は文化の具現化したものだ。

 とはいえ作る人により、味付けが微妙に異なり、いわゆる母の味なるものがある。店ごとに味が微妙に違うというのも楽しみの一つだ。その意味では料理は個人だとも言える。

 私たちは簡易な既製品的な味付けに慣れてしまい、これらの料理の本質を忘れつつある。一からすべてを作ってきた時代の苦労を取り戻せとはいえないが、せめてどのように作られているのか、そこまでにどのような物語があったのかについては関心を持つべきではないか。

ジャイアントコーン

 最近よく食べる酒のつまみにジャイアントコーンがある。トウモロコシの一種で粒が大きく食べ甲斐がある。それでいてカロリーはさほどではないらしい。腹持ちがいいので助かっている。

 このトウモロコシの変種はペルーの一部の山岳地域で栽培されている。他の地域では根づくことがないらしく、生産量は限られている。私が食べたのは油で揚げたものに塩などの調味料で味付けしたもので香ばしくあっさりとしている。

 この記事を書こうと思う前は、原産地のことはまったく関心がなかった。つくづく世界の各地といろいろなつながりがあることを思い知るのである。つまみの値段から考えて、恐らく原価は大変安いのだろう。ペルーがどんな国なのか、生産農家がどんな生活を送っているのか、全く分からない。私としては安価でおいしい食べ物を提供していただいていることに感謝するばかりだ。

蕎麦湯の楽しみ

 蕎麦湯はそばの茹で汁のことで、一部の蕎麦屋で無料で提供されている。蕎麦に含まれる栄養素が溶け出しているとのことで意味のある飲み物である。だいたいはもりそばやざるそばといった冷し蕎麦に合わされるが、私はかけそばなどの温かい蕎麦にも頼むことにしている。

蕎麦

 かけそばなどを食べ終えた後に、椀に蕎麦湯を入れてしまう。するとつゆがマイルドになり、飲みやすくなる。関東のつゆは醤油が強いのでそばつゆで割るとちょうどよくなるのだ。

 かなり前に蕎麦湯を飲むなんて邪道だよと先輩に言われたことがある。何をもって正邪の差があるのか分からないが、この件については邪道を貫こうと考えている。